その9
「う、うっめえ!」
別人のような笑顔を見せている探偵を見て、もうそろそろ良い頃だと判断した船虫警部殿。
「さっきの話の続きですが、捜査の方向が間違っていると?」
「もうさ、何でこんなに旨いんだ!」
「あ、あのう、もしもし?」
ようやく気づいてくれた。
「うん? 何?」
「いや、捜査のどこが間違っているのか、と」
「あ、ああ。じゃあ概要をさ、掻い摘んでいいから教えて」
「ええ、もちろんいいですよ」
警部がポケットから手帳を取り出し、そこに挟めていた例の図面のコピーを、まずはテーブルの上に広げてきた。
「これが、獏銀行四恋支店の一階の図面になります」
「ふうん」
そこに瓶底眼鏡が焦点を合わしている。
「では、事件の概要を申し上げますね」
警部が、手帳に目落とした。
「……とまあ、こんな具合ですが」
すでに大まかなことを新聞紙上で知っていた女流探偵は、今の話も十分に理解できたようである。
「どこか腑に落ちない点でも?」
真剣な目つきで、船虫警部が尋ねてくる。もちろん、ぶ厚きレンズに覆われている相手の目なんて見えないが。まして、その周囲にはハイライトの紫煙が充満しているのだ。
テーブルの上の図面を、ずっと見ていた風の木俣さん。やがてその顔を上げて、次に船虫さんへと向けてきた。
「ねえ、まず聞くけど。犯人以外に何が消えた?」
いきなりの、彼女らしい聞き方ではある。
「それはですね……まずは一億円が入ったバッグ。それから犯行に使用された拳銃に、あとは身につけていたストッキングやらサングラスですね」
「じゃあ、殺された支店長に何か恨みを持っている輩は?」
これまた、即座に船虫警部が答えてきた。
「無論それも調べ上げましたが、これと言って特には。まあ犯人が、銀行自体に恨みを持っていたかもしれませんがね」
「だから、そのトップの立場である支店長を?」
「いや、そういう考え方もある、って程度ですよ。実際には、警報スイッチを押そうとしたから撃たれたんでしょう」
「じゃあさ、二階で死んでた犯人Aについては? その交友関係とか?」
「無論それも。中間という若造でして、どうやら引き篭もりタイプで、特にこれといったものは……パソコンが友人ってとこでしょう」
「そっか。で、パソコンも調べたよね?」
「ええ。でも、特に関係しているようなものは見当たらなかったですね」
ここでゆっくりと相手が眼鏡を外し、その魔性の眼を覗かせてきた。
おお、いよいよその真骨頂が発揮されるのか――こう、船虫が生唾を飲んだ時
「おい、おにぎり君。確か冷蔵庫に塩辛が入ってるから、取ってきて!」
これにはさすがに崩れた船虫さんだったが、そこは警部だ、すぐに体勢を立て直し
「で、何か思われたことは?」
完全にその両目を露にした女流探偵。その美しくも氷のような冷たい眼で、こう言ってきたのだった。
「田んぼだけどさ。急ぎ慌てて逃走する時に、そこまでハッキリとした足跡ってつく?」
さすがに目の付け所が違う、と一人ほくそ笑む木俣さん。自画自賛、だ。ところがどっこい、これに捜査のベテランが意見を述べてくる。
「それは歩き方次第かな、と。それに体重のある人間だったら、結構田んぼにはまりそうですし」
さて、女流探偵の反論は如何に?
「はああ? 文句言うんだ。だったら、もうやめだ、やめ!」
情けないことこの上なし。だが、警部が慌てて弁解してきた。
「い、いや、あくまでも可能性を言ったまでで」
「もう、喋んないもんね」
もはや、完全なるガキだ。こんな幼い二十五才は、世の中そうそういないと思われる。
「……あのう」
言うべきかどうか迷った船虫さんだが、やはり先が気になるので。つい口に出してしまった。
「もう、酒飲んでるし」
※いきなり作者より
「さて貴方の灰色の脳細胞は、この“蚊トンボ”女流探偵の知恵と勝負できますでしょうか?」