その8
二日たっても、獲物は網に掛かってはいない。だが、やれることを素早くやった船虫警部は、特に焦っている風でもなかった。まあ“飽きっぽい”の代名詞ともいえる、そのようなマスコミ連中に、すでに追われていないのも大きいが。
それと、もう一つだけ原因があったのである。当事件について、時間があまり割けられないのも事実なのだ。それはこの二日の間に、管轄内で別の事件が発生したからである。凶悪犯罪たるものは得てして続くもの――彼の持論どおりでもあった。加えて、こうも思うのである――整理番号を持って順番に並んでくれたら、どれほど楽なことか、と。
だが、このもう一つの事件というものが一刻を争う最たるもの……女児の誘拐事件であり、獏銀行関連には誠に申し訳ないが、やはり未だ生存している可能性がある方に重きを置くのも警察側としては至極当然の話である。
無論、まだ公開捜査はされてはいない。しかしながら、犯人側とのやりとりは色々と進行はしている。
『娘を預かっている』だの、『返してほしかったら、五千万円用意しろ』だの、『九日の夕方六時に金を駅前まで持ってこい』だの……まあ、とにかく相手は言いたい放題である。そして挙句の果てには、『婦警一人で来させろ。さもなくば、娘の命は保障しない』……これである。
最後の要求を聞くに及び、彼は手土産を片手に早速探偵事務所へと向った次第である。とは言いながらも、公の下僕、もう少しくらいは自力で頑張ってほしいところだ。
「相変わらず……」
ソファーに腰を下ろすや否や、まず船虫警部は、早速お愛想を一発だけかまそうしてきたが
「暇そうって?」
すぐに、瓶底眼鏡ごと睨んでくる相手である。本当に食えない人種だ。
「い、いえいえ、そんな。先日大々的に宣伝されたんで、繁盛してるのかなって」
皮肉にも聞こえるが、別段彼に他意はなかった。
「はあー、それがサッパリ。駄目ねえ、警察も案外」
溜め息をつく木俣さん。勝手にメガホンを奪い取って、何たる言い草。
しかし、警部はこれくらいでは気分を悪くはしない。いや、悪くできないのだ。
「また今日は何? もう、朝っぱらから」
彼女が眼鏡の縁を指で上げながら、露骨に嫌な顔をしてきた。
「ああ、こりゃどうも。いや実はですね、新たなる事件が起きちゃいましてね。これがまた厄介な代物で」
と頭を、いや直に頭皮を掻く船虫さん。
「うん? 新たなって、例の銀行強盗は捕まった? 新聞には出てなかったけど」
探偵が首を傾げているところに、助手のおにぎり君がコーヒーを二つ持ってきた。そう、当のご本人はコーヒーを受け付けない体質で、もっぱらホットミルクなのである。
「どうぞ、警部」
目の前に差し出されたカップを見て、船虫さんが礼を言う。
「お、サンキュー。いやあ、田部ちゃんもさ、なかなか家事が板についてきたねえ」
「いや、まだまだですよ」
思わず、頬が緩むおにぎり君――喜ぶな。
すぐに、警部が一口だけそれにつけて
「おっと、そうだった。木俣さんね、実はこれが捕まっていないんですよ」
「やっぱり……だとおもった」
だがこれに、即座に手を振ってくる警部。
「いやいや、時間の問題ですって。ウチの捜査員たちが、足を棒にして聞き込みしていますから」
「“時間の問題”が聞いて呆れちゃうなあ。だってさ、もう二日も経ってるし。それにさ……」
ここで彼女もコーヒーに口をつけたが、その途端
「ウアッチッチ!」
猫舌には、どうやら早すぎたようだ。舌を思いっきり伸ばしてヒーヒー言っている。
「それに、何ですか?」
「ヒーヒー……あ、あのさあ、何か間違ってね?」
「ま、間違いって? 何がです?」
いきなり意味不明なことを言われ、船虫が戸惑っている。
「捜査の方向、だね……おっと、危ない、危ない」
と言ったまま、これ以降は口をつぐんでいる木俣さんを見ながら、気になる警部の心中は揺れ動いている。
今抱えている厄介な事件のために持参してきた手土産を、はたしてここで使うかどうか――そして、結論が出た模様だ。
「木俣さん。実は、もらいものなんですが」
そう言いながら彼は、出してきた手土産を目の前のテーブルの上に、演出効果よろしくドンと置いた。
「うん? 何、それ……」
この時、相手のお尻が十センチばかし浮いた。
「うおおお! は、華乙女じゃないか!」
ご存知山形銘酒“華乙女”、喉ごしすっきりとキレがいい淡麗旨口だ。そして女流探偵が、この世で最も愛すドリンクでもある。
「これ、くれるの?」
「ええ、ええ。私はビール党だから、置いていても仕方ないもんで」
「そ、そっかあ。おい、グラス持ってきて! 一個でいいし」
一人悦に入っている木俣さんが、命令を隣に向けて――おお、いつの間にそこにいたんだ? 影薄き田部助手よ!