平穏な日々と邂逅
瑞々しい緑の葉に付着する朝露が太陽の陽光を受けて煌く。
鳥が青空を飛び、その泣き声が耳を優しく撫でる。
「・・・・・・」
少年はその鳥の鳴き声に耳を澄まし、目を閉じて不動のまま、草の茂る丘に立っていた。
その丘に在るのは、地面に生い茂る緑色の草と、大きな一本の巨木だけだった。
至って普通の少年、何も目立ったところは無く、白を基調としたジャージを着ている。
だが、少年の左手には年頃の少年とは思えない物が握られていた。
それは、木刀。
滑らかな輝きを放つ木刀が陽光を反射し、煌く。
「すぅ・・・・・・はぁ・・・・・・」
少年は小さく、ほとんど無音に近い音で、呼吸をした。
僅かな脈動すらない、完全に静止した状態。
そんな沈黙という名の帳が満ちる中で、少年の目の前に立つ巨木の木に付いていた木の葉が一枚、風に煽られて枝から剥がれ、地面へと落下する---------------------
その瞬間、今まで『静』だった少年の気配が『動』へと移り変わる。
左手に固く握られている木刀を、旋風さながらの勢いで頭上へと振り上げ、迷いの無い太刀筋で眼前を縦に切り払った。
振り下ろされた静謐の剣閃に、空気が切り裂かれて悲鳴をあげ、真空という傷跡を空間へと刻み込む。
少年は目を閉じたまま、体の動きを完全に停止させた。
派手な動きをとったというのに、呼吸の胸の上下すらない、完全な停止-------それによって空間は再び沈黙に包まれた。
少年は閉じていた目を開くと、前方にある巨木を-----否。
その巨木から落下していた木の葉を見つめ、目を細めた。
その時----------
バツンッ!と、ゴムがはち切れる様な音が響き、落下途中だった木の葉が粉々に砕け散った。
その欠片が風に乗せられて空へと攫われて行く。
少年はその紅い瞳で風に流されていく木の葉の欠片を見つめ、息を吐いた。
「ふぅ・・・・・・」
少年はため息を零すと、くるりと身を翻し、その丘を後にした。
木々の間を凄まじい速さで駆け抜けながらその丘を降り、鬱蒼と茂る林の中を抜けて、やがて目の前に現れた高さ二メートル程もある鉄製の柵を一息で跳躍し、飛び越える。
ざくっ、という土を抉る微音と共に、少年の爪先が地に降り立つ。
そして、目の前にある一軒の家の裏勝手口を開け、告げた。
「母さん、ただいま」
少年は履いていた靴を脱ぎ、家の中にあるダイニングテーブルに設置してあった椅子に腰を落とす。
「はいはい、分かったわよ・・まったく『翔』はちゃんと玄関から入るって事を知らないの?」
少年が座る椅子の目の前のテーブルに目玉焼きが乗った食パンとベーコンが置かれた。
そして少年の横には栗色の髪を腰まで伸ばし、両手を腰に当てて、ため息を吐く女性。
腰はしっかりと引き締まり、ルックスも十分で、優しげだが触れれば切り裂かれそうな雰囲気を含んだ大きな瞳-------世間一般的に美女と称されるレベル。
そんな女性に向かって、少年は視線を合わさずに呟いた。
「良いだろ、別に。 時間だって無いし、今日は朝のホームルーム中にテストってのもあるしな」
翔と呼ばれた少年は食事に手をつけ、あっという間に食べ終わると、立ち上がり、リビングを出た。
少年は階段を三段飛ばしで上がると、ある一室のドアを開け、部屋に入り、壁に引っ掛けてあったハンガーに架かっている制服を手に取り、さっと羽織る。
藍色を基調とした制服を着て、机の横に置いてある黒い鞄を取ると、部屋を出た。
そのまま階段を下りてリビングを覗くと、先程の女性が少年の食べた後の食器を片付けているところだった。
「『由真母さん』、行ってくるから」
「はいはい、行ってらっしゃいね・・・・っと」
少年の声に由真は微笑み、頷いたが、何かを思い出したように再び声を張り上げる。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
「ん?」
再び大きな声で呼びかけられ、少年は振り返る。
「さっき『朱里ちゃん』が迎えに来てたから、今から走っていけば追いつけるかもしれないわよ」
由真が優しい笑みを浮かべ、言い放った。
少年はそれに頷くと、鞄を肩に書け、由真に背を向けた。
「分かった、ありがと」
そう告げた少年は玄関で靴を履き、家を出た。
玄関を開け放った瞬間、地上を照らす陽光と、薄っすらと肌寒い冷気を含んだ微風が肌を撫でた。
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現代は20XX年。
日本は国際事業を発展させ、世界との繋がりを持とうと積極的になっていた。
不況期と呼ばれる期間を抜け出したことも滑車をかけ、日本は過去に例を見ないほどの圧倒的ともいえる国際的進歩を行った。
そして日本国が国際事業の一環として最も力を加えた事業が、『教育』だった。
現代の日本国内には無数の教育機関が集合した学園都市と呼ばれる県や府も多く出来ていた。
そして、それは少年が住むこの県も同じだ。
ここは神奈川県、鎌倉市の湘南海岸の最南端。
海から吹き抜ける潮風が常に漂う街。
ここにもいくつもの教育機関が密集し、さまざまな制服を着た生徒達と顔を擦れ違わせることが多い。
「はっ・・・はっ・・・・・」
少年は息を弾ませて海岸沿いを走る、余りの速さに擦れ違う生徒達が驚いて道をあける。
やがて少年の視線の先に同じ様な特徴をした制服を着た女生徒が写った。
黒い髪を海風に靡かせながら歩く少女に向かって、少年は叫んだ。
「お~い、朱里ぃ!」
「え?」
すると少女が驚いたように身を翻して少年を見つめる。
「あ、翔ちゃん、間に合ったんだ?」
透き通るような深みを宿す黒い瞳と、セミロング状の軟らかそうな黒髪。
少女の印象をあげるなら、それが尤も的確といえるだろう。
「おう、まあな~。 さすがにテストだしな、遅れるわけにはいかないだろ」
「でもでも、去年に受験日早々に遅刻して、こっぴどく叱られたのは誰かな? 『尼神 翔也』君」
白魚の様な人差し指を顎先に当てて、朱里が意地悪げに微笑む。
「うぐっ・・・それを言うのかよ、酷いやつだな、朱里は」
「ふふっ・・・・冗談だよ。 早く行こっか・・翔ちゃん♪」
朱里は微笑み、翔也は苦笑を漏らしながらも二人は肩を並べて歩き出した。
二人は歩きながらとりとめも無い話をして海岸沿いの道を歩く。
「そうなの? 由真さんって凄い美人じゃない?」
「そう思うのは、お前が母さんの性格を知らないからだって! 母さんは見かけは綺麗だけど・・その実、かなりの切れ者で、性格も歪んでるし」
翔也は呟くと、肩をだらんと下げる。
そんな翔也に朱里は苦笑を漏らし、
「でもそれは由真さんの一面だけだと思うよ、あの人は・・凄く翔君のことを気にかけてる」
優しげな瞳を翔也に向ける。
翔也はその瞳から逃れるように顔を逸らし、熱くなった顔を隠すように海を見る。
「・・・・分かってるよ」
「ふふふ・・本当に可愛いよね、翔ちゃんって」
「からかうな!」
少女の名前は朱里。 本名『千堂 朱里』。
翔也と朱里は幼馴染だ。
尼神家の隣に住んでいて、昔からよく遊んでいた。
両親同士の繋がりも相まって、交流はかなり深いと思っている。
「翔ちゃん、私が翔ちゃんの家に行ったときにいなかったってことは・・《あの裏山》の丘に行っていたの?」
「ああ、いつもの朝の消化過程だって」
翔也は呟き、空を見上げる。
「こればっかりは・・・サボりたくないんだ・・親父との・・最後の絆だから」
「・・・・・そっか・・そうだね・・・・やっぱり・・・翔ちゃんは・・・・・」
儚げな吐息と共にそんな言葉を吐く翔也に、朱里は憐憫を含む表情で呟く。
「うん? 何か言ったか、朱里」
「ううん、何でもないよ」
翔也の疑問顔に朱里は安心させるような笑みを浮かべた。
「そうか? んじゃ走るか! だいぶ時間が経っちまったしな」
「え~・・翔ちゃんは良いかもだけど、私は走るの苦手だよ・・・・」
「何言ってるんだ、お前だってクラスの五十メートルの中ではトップの六秒二だろ」
呆れ顔で翔也が告げる。
そんな翔也に朱里は右手を顔の前で左右に振ると訂正を求めるように呟く。
「翔ちゃんと比べたら、私なんて詮無いモノだよ?」
「俺は鍛えてるからな、さ、走る・・・・・・・ぞ?」
「? どうしたの? 翔ちゃ・・・・・・」
翔也がある方向を向いて硬直したのに疑問を抱き、朱里も翔也の視線を追った。
翔也の視線の先に居たのは、赤と黒を基調とした派手な制服を着た集団だった。
人数はざっと十人といった所だ。
よく見れば、周りに居た他の学生たちもその十人に視線を注視している。
「あれって・・・・・まさか」
「ああ、間違いない・・・あれは・・・・『闘勇士』だな」
翔也がその集団を眺めながら呟く。
朱里は興味深そうに、その集団を眺め、口を開いた。
「闘勇士・・・・私、久しぶりに見たかも」
「俺もだよ、というか・・まず出会うこと自体が珍しいんだって」
翔也が目を細めながら、釈然としない様子を誇示するように息を大きく吐く。
「そうだね・・・・・『世界に起きる天災から人々を守る組織』。 なんだか私達とは無縁の人達だよね」
朱里が若干達観視した様子で呟いた。
翔也もそれに頷く。
「そうだろうな、闘勇士は国家が自他共に容認する集団だから-----っと、アレは・・」
翔也が言葉の途中で眉を顰める。
朱里そんな翔也の様子に首を傾げると、あるモノを見た途端に目を見開く。
「なんだか・・・まずい事になってきているんじゃ・・・」
闘勇士の集団の前方に、バイクに乗った集団が居たのだ。
如何にも、といった感じのラフな服装をしており、確実に不良集団と結論付ける事ができた。
バイクのエンジン音を轟かせ、そのリーダーらしき男が叫ぶ。
「お前らが闘勇士だな!」
男の叫びに答えて、ひとりの女生徒が歩み出た。
「綺麗な人・・・・」
朱里がそう呟いてしまうほどの、圧倒的に優れたルックス。
白い髪を靡かせ、翔也と同じ紅い瞳を覗かせた少女。
「その通りですが、あなた達は何者ですか?」
「はっ! 俺達のことを知らないのか!? これだから田舎者は!」
相手の男の言い様に、闘勇士のメンバーがざわめく。
翔也が聞き耳をたて、言葉を聞き取る。
「会長、こんな奴ら、僕が排除しましょうか?」
白髪の少女の背後に立っていた眼鏡をかけた男子生徒が呟く。
「いえ、乱暴はいけません。 身体能力では私達が圧倒的に上、それに・・・『魔術』は人間相手に使うものではありません」
白髪の少女の言葉に翔也が目を細める。
(魔術・・・・・?)
「さっきからなにべらべらと喋ってやがる! 俺達『キング』の前で余裕こいてんじゃねえよ!」
男の叫びに翔也は思わず吹き出した。
余りの滑稽な言葉に笑う事しかできない。
「ぷっ・・・くく・・・・き、キングって・・・・・くく・・・・・・」
「そ、そうだね・・・・」
朱里は苦笑で収めたが、翔也にはヒットしたようだった。
「キングですか・・・・知らない名前ですね。 残念ですが、今から私達は学園に行かなければなりませんので、そこを通してください」
白髪の少女は冷徹に、無感情で告げる。男の言葉の一切に気を止めていないのが良く分かった。
「く・・・・余裕コいてんじゃねえよ!!」
流石に堪忍袋の緒が切れた男がバイクから降り、木刀をバイクの収納スペースから取り出した。
「木刀を持ち歩いているのですか? 木刀は銃砲刀剣類所持等取締法には抵触しませんが・・隠蔽しながらの持ち運びはアウトですよ」
白髪の少女は純粋に首を傾げる。
相手の悪意に怯む様子は微塵も無かった。
「うるせえ! てめえらみたいな餓鬼が、調子に乗ってるのはムカつくんだよ!」
男が叫び、木刀を振り上げ、白髪の少女に向かって走りながら振り下ろした。
「っ! 危ない!」
それを見た朱里が悲鳴をあげ、翔也は目を細めるが、凄まじい速さで少女の右手が跳ね上がった事に目を見開いた。
そして。
バキッ・・!という硬質なものを打ち砕いたかのような破砕音が響いた。
「・・・・う・・・うそ・・・・・」
朱里が口に両手を添えて絶句している。
「・・・・・・・・」
翔也もまた、少女のとったありえない行動に硬直する。
「な・・な・・・・なんなんだよ・・・・お前・・・・・」
件の木刀を振り下ろした男は絶句し、怯えた視線を少女へと向ける。
対して少女は侮蔑の意味合いの強い視線で男を見つめ、つまらなそうに息を吐く。
「どうしました? 不思議ですか、私が・・・・・・あなたの木刀を素手で受け止めた事が」
そう、白髪の少女は男の木刀を片手で受け止め、圧し折ったのだ。
カランと木刀の刀身の半分が地面に落ちる。
刀身の落下中の刹那の時間帯がスローモーションに感じられるほど、その光景は圧倒的だった。
「う・・・・う・・・うあああああっ!」
ソレに完全に繊維を喪失したであろう男達はコケながら逃げていった。
その場を静寂が包む。
誰も声を発することが出来ない、発せば・・どうなるか分からないから。
「・・・・・・朱里、行くぞ」
「・・・・へ・・・・え、あ・・・・・うん」
朱里は呆然としていたが、翔也の声で我を取り戻した。
だが、朱里は《ある事》に気づき、息を呑んだ。
「しょ、翔ちゃん・・・私達の学校に行くには・・・・・」
そう、翔也や朱里達の学校に行くための道の先には闘勇士の一団が立っているのだ。
学校に行くためには、闘勇士達の眼前を通過せねばならない。
「気にすんなって、そんな意味の無い害を加えるような集団じゃねえよ」
「う、うん・・・・」
「それに、何かあったとしても俺がどうにかするって」
翔也は薄く微笑んだ。
その瞬間に朱里の頬が真っ赤に染まる。
「っ・・・・・は・・はいっ!」
朱里が慌てて叫ぶ。
「何故敬語?」
「いっ・・良いの! 早く、行こ!」
「おう。 じゃあ、いくか」
歩き出した翔也達に他の学生達がぎょっとした様な視線を向けてくる。
正気を疑っている視線だった。
何故なら、翔也達が明らかに闘勇士達の集団の方へと歩いていたからだ。
段々と近づき、やがて・・・・先頭にいた白髪の少女の紅瞳と翔也の紅瞳が一瞬だけ交じり合う。
ほんの一瞬、刹那にも満たないわずかな交差。
旗からみれば全く意味の無い視線の交わしあい、だが・・・・・
翔也は白髪の美少女の宿す瞳の光に呑まれ、目を少しばかり見開いた。
強い決意を宿した瞳-------------
翔也は少女の瞳を見て、そう思った。
そして何事も無かったかのように二人は擦れ違った。
翔也の背後にいる朱里は小さく頭を下げて、翔也を追った。
「・・・・・・・・・・・」
白髪の少女は翔也達の後姿を目で追っていた。
「会長? どうかしましたか?」
「いえ・・・・何でもありません、行きましょう」
「はい」
闘勇士の一団も何事も無かったかのように歩き出した。