影だけが先に恋をした
ほんの気まぐれだった。
ただなんとなく、帰り道を変えただけだったんだ。
日付も変わった時間。街灯はLEDばかりなのに、その街灯は高圧ナトリウム灯のオレンジ色をしている。
今どき珍しいと、僕は立ち止まっていた。僕の足元からは影が伸び、動く度に影も動く。
だが、僕の影が別の方を見ている。
影が見つめる方からは小柄な女性が歩いてきていた。女性は下を見つめて僕に気づかない。僕の影は女性の方に走り出した。
女性の影も僕の影に駆け寄る。その様子に女性は顔をあげて追いかけた。
「あ」
「あ」
僕に気づいたみたいで、女性は声を漏らす。反射的に僕も声を出してしまった。
影たちは僕らの様子に意を介さず、手を握り合っている。
「すみません……?」
「こちらこそ……?」
気まずい沈黙。目は合わせられない。足から離れる影が一瞬戻り、僕はその場をあとにした。
僕の右手が人肌に温かくなっている。あの人の体温だろうか。
昨晩のオレンジ色の街灯の影は、楽しげだったなと思う。
クロッキーの課題をこなしながら、頭の中は深夜一時のふたつの影を再生している。同時に彼女の目の下のクマも印象的だった。ふとスケッチブックを見ると、あの女性が足元を見ながら佇んでいた。足元に落ちた影はなかった。
こんなこと、誰に言っても信じてもらえない。僕はただ、刺激のない日常にちょっとした変化が欲しかっただけなのに。
あの人は今日も来るのかな。
ほんの少しの期待が胸を温かくする。監視カメラのモニターを見ると、誰もいない部屋をたくさん映していた。僕はまた脳内でオレンジ色の街灯を再生しながら、クロッキーに向き合う。警備のバイトはもうすぐ終わる。
消灯したひとつのモニターに僕の顔が映り込んだ。僕の目の下にもクマができている。ウェーブのかかった顎までの黒髪はせっかくこだわって選んだピアスを隠してしまっていた。無精髭もなんとかしないとな。口角が上がっているのを見て、僕はすぐに目をそらした。
「長谷川、お疲れ。交代の時間だ」
「はい。お疲れ様でした」
僕は更衣室に行き、私服に着替える。夜勤のバイトは僕には合っているとは思うが、大学がつらいのには難儀している。
彼女は何をしている人なんだろう。スマホを上着のポケットに入れ、裏口から出る。青白い光が眩しく、目を細めた。
曲がり角。昨日と同じく左に曲がる。少しの寄り道、遠回り。
オレンジ色の街灯の下にまた僕は立っている。あの人の影に会わせたい。そう思って僕は待つ。名前も知らない彼女がここを避ける可能性だってあるのに。
コツコツ。ヒールの音が近づいてくる。僕が振り向くより先に、影が彼女に手を振っていた。おーいおーいと全力で両手を振っている。
目が合った。会釈され、僕もつられる。
「あの」
「えっと」
声が被る。彼女の長い髪が揺れて、耳元のピアスが光った。
影もロングスカートの影と抱き合っている。
「僕、長谷川朔って言います」
「私は浅野紡、です」
「…………」
僕らは会話を続けられないのに、横顔のふたつの影は口をぱくぱく動かして饒舌だ。
やがて二つの影は肩を寄せ合い、ためらいもなく指を絡ませる。女性の影が僕の影に耳打ちをして二人は笑い合う。僕らの足元からは離れてオレンジの部分しか生きられない彼らを僕は羨ましく思った。
「なんだか、仲良しさんですね。私たちは名前しか知らないのに」
「そうですね……。僕はこの近くに住んでて、今はバイト帰りで、美大生……です」
街灯の下でも青白かったツムギさんの顔が和らぐ。
「私もこの近くに住んでいて、夜中までやってる花屋で働いているんです。夜の店とかに卸したりしてて……えっと」
僕は頭を掻いてジャケットのポケットに手を入れる。生ぬるい風が昼間の暑さを伝えていた。
「サクさんはよくここを通るんでしょうか」
「いや、昨日なんとなくこの道を通ったらこんな感じになってしまって。僕、彼が彼女に会えたならいいのにって今日もこの道を選んじゃいました」
私も、とツムギさんは言いかけて僕たちの会話は止まる。右肩と右手が温かい。温かすぎて手汗をかいてしまっている。この体温は彼女の体温なのだろうか。
「なんだか左手が熱いです……」
「僕も右手が。でも影が動くなんて信じられませんよね」
「あの後、動きました?」
「いえ。ツムギさんも、ですか」
影が手を振り、別れを惜しんでいる。
このままで、いいのか?
「ツムギさん」
「はい?」
「アドレス、交換しませんか?」
彼女のアイコンは生花だった。僕も初期アイコンから自分の作品に変更しておいた。
花の香りが強くなって、僕も上着を脱ぐようになっていた。彼女もカーデガンを羽織るようになっても、ツムギさんとの逢瀬は続いている。メッセージは続かず、ただ登録者が一人、増えただけだった。
僕らは直接会っても会話は続かず、影を会わせることだけが目的になっている。
「サクさん、今日のお仕事はどうでしたか」
「夜間の警備なんで、特には……」
「そう、なんですね」
「花屋さんって大変そうですね」
「意外と体力仕事ですからね」
「…………」
「今日も影たちは仲良さそうですよね」
「そうです、ね……」
こうして人と接するのは、悪くないと思えている。
染髪された茶色の長い髪から覗くツムギさんの横顔は、鼻が高く唇はツンとしていた。目を閉じてもその光景が焼き付いている。今、鉛筆とスケッチブックを持っていたなら即座に描ける自信がある。そのくらい美しい光景だった。
梅雨も終わるある日。夏の始まりを告げる雷雨に見舞われた。それでも習慣のオレンジの逢瀬のために、僕は傘を差しながらズボンの裾を濡らしていた。
街灯は変わらず濡れたアスファルトをオレンジに反射させ、光と影の境界線が曖昧になっている。
少し待っていると、彼女も小走りにこちらに来た。
「すごい雨ですね……!」
「ええ、足がびしゃびしゃですよ」
大声を出したからか、ぐるんという感覚。彼女も前につんのめりそうになって、踏みとどまる。
足元を見ると、薄く反射するオレンジの光がぼんやりと人型の影で黒く染まっていた。駆け寄った影は僕らからだいぶ離れて抱き合っている。くるくる回りながら雨の逢瀬を喜び、やがて二つの影が一つになる。
「あ……!」
「きゃ……!」
足元がぐにゃりと歪む。膝より下の足が湾曲し、上体のバランスが崩れる。だが、転けてはいない。ただ両手を見ると感触がなくなっていく感覚がある。彼女の方も身体全体が透けている。
でも、このままでもよくないか?
将来なりたいものなどない実体なんて必要なくないか? 幸せな影がいれば僕の存在なんて必要ないじゃないか。だってこの世は生きていても無意味なのだから。
僕はツムギさんを見た。
笑っている? この世から消えてしまうことを受け入れているようだ。どんどん透けていく肩を抱きしめ、「やっと、やっとだ」と呟いている。傘だけが実体に反して立体的だ。
僕はこんな光景を見たかったのか?
違うだろ。彼女が絶望に笑っているなんて見たくなかった。僕はツムギさんが不器用に笑ったり、はにかんだりする姿を見ていたかったんだろ。
影に隠れてなにも出来なかった僕は本当の臆病者だ。
(影のままでなんていたくない。僕は君の本当の手を触りたいんだ!)
「ツムギ、さんっ。僕の手を、とって……!」
声を振り絞り、消えゆく手を伸ばして一歩、踏み出す。彼女もそれに気づき、僕の手を固く握る。体温がある。彼女の肩を強く抱きしめ、雨粒を身体全体で受け止めた。
「サク、さん? あのっ」
「……すみません。君が消えていくのは見ていられなくて」
一つになった影は僕らの足元にきちんと戻り、僕らの身体は元通り透けてはなかった。雨は小雨になり、霧雨になり、やがて止んだ。僕らは長い間、抱き合ったままずっとその場に居続けた。
僕らの恋はこれからはじまる。




