願いを叶える自販機
田村雅人は28歳の派遣社員である。
IT関連の仕事に就いているが、契約更新のたびに不安を感じている。
この3年間、正社員登用の話は一度も出ていない。
その夜も残業で終電を逃し、1時間かけて歩いて帰る途中だった。
住宅街の角を曲がったところで、見慣れない自動販売機を見つけた。
古めかしいデザインで、商品のラインナップも変わっている。
「エナジーブースト」「ラッキーチャンス」「ハッピーモーメント」といった、普通の自販機では見かけない変な名前の飲み物が並んでいる。
値段もまあ安い。どれも100円から200円程度だった。
田村は疲れていたので、「エナジーブースト」という缶コーヒーを購入した。
100円だった。
飲んでみると、ごく普通のコーヒーの味だった。
しかし、数分後に残業や歩いて帰ってきた疲労感が消えた。
まるで十分な睡眠を取ったような爽快感があった。
「偶然かもしれないが...」
田村は自販機の場所を覚えてから家に帰った。
翌日の仕事で、田村は珍しく上司から褒められた。
なぜかいつもより集中して作業ができていたのだ。
「もしかして、あのコーヒーの効果?」
その夜、田村は同じ場所に向かった。
自販機はまだそこにあった。
今度は「ラッキーチャンス」という炭酸飲料を買ってみた。
これは150円だった。
翌日、田村に小さな幸運が次々と訪れた。
朝、駅で財布を落としたが、すぐに駅員に届けられていた。
昼食では、いつも売り切れている人気弁当が最後の一個だけ残っていた。
帰りの電車では座席に座ることができた。
些細なことだが、確実に運が良くなっている気がした。
その夜、田村は家から歩いて再び自販機を訪れた。
今度は「ハッピーモーメント」という名前の炭酸飲料を購入した。
これは炭酸飲料にしてはすこし高く、200円だった。
翌日、田村は久しぶりに同僚の女性と楽しく話すことができた。
今までは業務的な会話しかしたことがなかったが、休憩時間に雑談で盛り上がった。
田村はあの自販機の商品は、名前のままの効果が本当にかかるのではないかと疑い始めた。
1週間後、田村は自販機に通い詰めるようになっていた。
毎晩のように通い、その日の気分や翌日の予定に合わせて商品を選んでいた。
ある夜、自販機に新しい商品が追加されているのに気づいた。
「ビッグチャンス」というサイダーの缶で、値段は500円だった。
田村は値段が上がっていることに気付き、少し迷ったが購入してそのサイダーを飲みながら帰った。
翌日、信じられないことが起こった。
上司から呼び出され、正社員登用の打診があったのだ。
「君の働きぶりを評価している。来月から正社員として働いてみないか?」
田村は飛び上がるほど嬉しかった。3年間の不安がようやく解消される。
その夜、田村は自販機の前で一人で乾杯した。
正社員になった田村は、より高額な商品に手を出すようになった。
「スーパーラッキー」1,000円、「ドリームカム」2,000円、「ミラクルウィッシュ」3,000円。
それぞれに見合った幸運が訪れた。
昇進、給料アップ、ひそかに憧れていた同僚の女性との交際開始。
田村の人生は劇的に好転していた。
しかし、ある日、奇妙なことに気づいた。
高校時代の友人から連絡があった。
友人の母親が突然病気で倒れたという。
また同じ頃、大学時代の後輩が交通事故に遭ったと聞いた。
偶然だろうと思っていたが、不幸な知らせが続いた。
中学時代の同級生の離婚、職場の先輩の左遷、近所の老人の孤独死。
田村の周りで、なぜか不幸が多発していた。
しかし、田村自身の人生は順調だった。
彼女との関係も良好で、仕事も充実している。
周りの不幸は気になったが、自分には直接関係ないことだった。
ある夜、田村はあの自販機で見知らぬ男性と遭遇した。
初めて自分以外が自販機を使っているのを目撃した。
40代くらいの男性で、疲れ切った表情をしていた。
男性は「ウルトラミラクル」という5,000円の商品を購入していた。
「すみません」
田村は声をかけた。
「この自販機、よく利用されるんですか?」
男性は振り返った。その顔には絶望的な表情が浮かんでいた。
「君はまだ新しい客か」
「新しい客?」
「この自販機を使い始めてどのくらい?」
「3ヶ月ほどです」
男性は苦笑いした。
「まだ大丈夫だ。でも気をつけろ。この自販機は...」
男性は言いかけて口を閉ざした。
「この自販機がなんなんですか?」
「何でもない。ただ...本当に必要な時だけ使え」
男性はそう言って立ち去った。
翌週、田村に衝撃的な知らせが届いた。
高校時代の親友が自殺したのだ。
田村は動揺した。
確かにその友人とは最近連絡を取っていなかったが、特に悩みを抱えているようには見えなかった。
葬儀に参列した田村は、友人の家族から詳しい話を聞いた。
「この半年で、立て続けに不幸が重なったんです」
友人の兄が説明した。
「仕事を失い、恋人に振られ、病気になり...まるで呪われているようでした」
田村は胸が痛んだ。
しかし、その時はまだ自販機との関連性には気づいていなかった。
その夜、田村は自販機を訪れた。
心を落ち着けるために「ピースフルマインド」というお茶の缶を購入しようとした。
すると、自販機の横に小さな貼り紙があることに気づいた。
『ご利用は計画的に。未来への影響をご理解の上でご使用ください』
「未来への影響?」
田村は初めてその文言を見た。
以前からあったのか、それとも最近貼られたのかは分からない。
翌日、田村は自販機について調べてみることにした。
インターネットで検索しても、類似の自販機の情報は見つからなかった。しかし、ある掲示板で興味深い投稿を発見した。
「願いを叶える自販機の噂があるらしい。
使った人は最初はラッキーになるけど、後で大きな不幸に見舞われるという噂らしい」
田村は背筋に寒いものを感じた。
田村は自販機に書かれている設置業者を調べることにした。
自販機に記載されている会社名をネットで検索したが、該当する企業は見つからなかった。
電話番号にも連絡してみたが、「現在使われていません」というアナウンスが流れるだけだった。
田村は直接、市役所にも問い合わせてみた。
「その付近の自販機については、こちらでは記録がありません」
担当者は困惑していた。
「もしかしたら無許可で設置されている可能性があります。
場所を教えていただければ、調査いたします」
田村は場所を教えたが、翌日に連絡があった。
「現地を確認しましたが、自動販売機はありませんでした」
田村は慌てて現場に向かった。
確かにいつもの場所に自販機はなくなっていた。
しかし、その夜の2時頃に再び確認すると、自販機は元の場所にあった。
思い返せば、この自販機を利用したのは毎回仕事終わりで、夜遅くだけだった。
「昼間は消えて、深夜だけ現れる?」
田村はこの謎めいた現象に恐怖を覚え始めた。
そして、過去3ヶ月間に自分の周りで起きた出来事を思い出して整理してみた。
自分が「ラッキーチャンス」を飲んだ翌日、同僚が原因不明の腹痛で早退していた。
自分が「ビッグチャンス」を飲んだ週、高校の友人の母親が病気になった。
自分が「スーパーラッキー」を飲んだ月、大学の後輩が交通事故に遭った。
自分の幸運と、周りの人の不幸が連動している。
田村は恐ろしい推測に至った。
この自販機は、他人の幸運を奪って自分に与えているのではないか。
田村は自販機の利用を控えようとした。しかし、そう簡単ではなかった。
自販機を使わないでいると、これまでのような幸運が全く訪れない。
それどころか、小さな不運が続くようになった。
電車の遅延、上司からの小言、彼女との些細な喧嘩。
田村は禁断症状のような状態になっていた。
自販機の商品を飲んで早く普通の状態にないたいという衝動が抑えられない。
ついに我慢できなくなって、「メガラッキー」という3,000円の商品を購入した。
翌日、大きなプロジェクトのリーダーに抜擢された。
給料も大幅にアップし、彼女からプロポーズの返事ももらった。
しかし、その代償も大きかった。
田村の実家から連絡があった。
父親が経営していた小さな工場が倒産したという。
長年の取引先から突然契約を打ち切られ、資金繰りが悪化したのだ。
田村は愕然とした。
自分の幸運のために、家族が犠牲になったのかもしれない。
その夜、田村は例の男性に再び遭遇した。
男性は今度は「アルティメットミラクル」という10,000円の商品を購入しようとしていた。
「やめた方がいいんじゃないですか?」田村が声をかけた。
男性は振り返った。以前よりもさらにやつれていた。
「やめられないんだ」
男性が呟いた。
「もう後戻りはできない」
「どういうことですか?」
「この自販機の仕組みはな、未来の幸運を前借りしているんだ。
借金と同じで、利子がつく」
男性は続けた。
「最初は小さな借金だった。
でも使い続けるうちに、どんどん膨らんでいく。
今は何千万円分の幸運を借りている状態だ」
「何千万円分?」
「もし今、この自販機の利用をやめたら、その分の不幸が一気に押し寄せてくる。家族全員が事故に遭うかもしれない、会社が倒産するかもしれない、すべてを失うかもしれない。」
田村は震え上がった。
「だから使い続けるしかない。より大きな幸運で、借金を先延ばしにするしかないんだ」
男性は「アルティメット」を購入し、その場で飲んだ。
「君もいずれ、僕と同じになる。この自販機から逃れることはできないよ。」
男性は去って行った。
田村は自分の「借金」を計算してみた。
これまでに購入した商品の総額は約5万円。
しかし、あの男の話の通りなら実際の借金はその何倍、何十倍にもなっているはずだ。
過去の身の回りにおきた不幸を思い出してみた。
友人の自殺による家族の精神的損失、父親の工場倒産による経済的損失、その他の事故や病気による医療費...
金額には換算できないが、きっとかなりの額の「負債」が蓄積されている。
田村は絶望的な気分になった。
このまま利用を続ければ、さらに大きな負債を抱えることになる。
しかし、やめれば今までの前借りが一気に返済を求められる。
どちらを選んでも、破滅が待っている。
数日後、田村の予想は的中した。
利用を控えていた田村に、立て続けに不幸が襲いかかった。
彼女から突然の別れ話、プロジェクトの失敗による降格、さらには母親の入院。
田村は我慢できなくなって、「ウルトラミラクル」、5,000円の飲み物を購入した。
一時的に状況は改善したが、その代償として田村の親戚の叔父が交通事故で重傷を負った。
田村は気づいた。もはや逃れることはできない。
この自販機は、利用者を永遠に縛り付ける恐ろしいシステムなのだ。
ある夜、田村は自販機の前で長時間悩んでいた。
手持ちの現金は3万円。
「スペシャルミラクル」という最高額商品が3万円で売られていた。
これを買えば、大きな幸運が訪れるだろう。
しかし、その代償として、誰かが大きな不幸に見舞われる。
田村が迷っていると、見知らぬ老人が現れた。
老人は田村を見て苦笑いした。
「まだ新しい客だな」
「あなたも使っていたんですか?」
「昔はな。でも、もうやめた」
「どうやって?」
老人は田村を見つめた。
「簡単だよ。諦めることだ」
「諦める?」
「借金を踏み倒すんだ。どんな不幸が来ても受け入れる。それしか方法はない」
老人は続けた。
「私は10年前にこの自販機を使うのをやめた。
その後、妻を失い、家を失い、仕事も失った。
でも、それ以上の不幸は来なかった。借金には限度があるんだ。」
「限度?」
「人生そのものだ。失うものがなくなれば、それ以上は取られな。い」
老人は去って行った。
田村は考えた。老人の言葉が本当なら、失う覚悟を決めれば、この悪循環から抜け出せるかもしれない。
しかし、それは恐ろしい選択だった。
今の生活、地位、人間関係のすべてを失う可能性がある。
田村は「スペシャルミラクル」のボタンに手をかけた。
しかし、長い間悩んだ後、手を止めた。
田村はボタンを押さずに自販機から離れた。
翌日から、予想通り不幸が次々と襲いかかった。
仕事でのミス、上司からの叱責、友人関係のトラブル、健康問題。
田村は歯を食いしばって耐えた。
3ヶ月後、田村は会社を解雇された。
6ヶ月後、アパートも追い出された。
しかし、田村は気づいた。
確かに不幸は続いているが、以前ほどの絶望感はない。
むしろ、自分の力で困難に立ち向かっていることに、奇妙な充実感を感じていた。
1年後、田村は小さなIT会社で契約社員として働いていた。
給料は以前の半分だったが、自販機を使っていた時のような借金に追われるような焦燥感はなかった。
ある夜、久しぶりにあの場所を通りかかった。
自販機はまだそこにあった。
そして、若い女性がその前で商品を選んでいるのを見た。
声をかけようか迷ったが、結局何も言わずに通り過ぎた。
他人の選択に口を出す権利は、自分にはない。
田村はアパートに向かって歩き続けた。
背後で、自販機の稼働音が小さく響いていた。
新しい客を待っているかのように。
【終】