1-4
足音は、消えていた。
確かに聞こえたはずだった。
風の音とは違う、草を踏む音。人の気配。
私はそっと振り返る。
誰もいない。
草原の向こうには、揺れる木々と丘の影。
だけど、そのどこにも人影は見えなかった。
「……幻聴?」
自分の声が少しだけ震えていた。
こんな静かな場所で、自分の声がこんなにも頼りなく聞こえるなんて。
私は立ち上がり、少しだけ歩いてみた。
重力がある。風が肌をかすめる。足元の草の感触は、本物だ。
でも――やっぱり、どこか違う。
見えるものすべてが、美しすぎる。
光の粒が揺れて、空はあまりにも青く、草の匂いは濃すぎた。
現実のようで、夢よりも精巧な。
これは、私が“読んだことのある風景”だ。
「……やっぱり、ここは……」
そのときだった。
「――おい、君! 大丈夫か!」
風の向こうから、はっきりとした声が届いた。
今度は幻じゃない。確かに誰かが、こちらに向かって走ってくる足音がした。
私は瞬間、体がこわばった。
警戒でも、恐怖でもなく――
理由のわからない、胸の痛みに近い感情が突き上げてくる。
誰かが近づいてくる。
知らないはずなのに、胸がざわつく。
草をかき分けて現れたのは、一人の青年だった。
栗色の髪が光に照らされて、緑色の瞳が優しく揺れていた。
少し汗ばんだ額。焦ったように眉をひそめながらも、どこか懐かしい顔。
初対面のはずなのに――
「……っ」
目が合った瞬間、息が止まった。
青年は立ち止まり、私の顔をまじまじと見つめた。
ほんの一瞬、何かを確認するように。
それから、安心したように微笑んだ。
「やっぱり……君だ」
その声に、私は――言葉を失った。
誰?
どうしてそんなふうに、私を知っているような顔で?
私の名前を、まだ何も知らないはずなのに。
でもその言葉が、なぜか心に触れた。
優しくて、温かくて、泣きたくなるほど懐かしかった。
「君のことは、知ってる。……ずっと、ずっと昔から」
そう言って、彼はそっと手を差し出した。
私は、答えを知らないまま、その手を見つめる。
取るべきか、拒むべきかもわからなかった。
でもその手だけが、この場所でたったひとつの“確かなもの”に思えた。