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夕暮れの図書館には、人の気配がほとんどなかった。
閉館時間が近づいていて、外の空は茜に染まり始めていたけれど、私はまだ片づけを続けていた。
「……今日は、静かだな」
小さく呟いた声が、自分でも驚くほど鮮明に響いた。
たくさんの本に囲まれながら、私は一人きりで働いていた。
図書館の非常勤職員という名の地味な仕事は、誰にも注目されない。だけど私は、この場所が好きだった。
誰も話しかけてこない。誰も干渉しない。
ただ、本たちだけが、私の時間を埋めてくれる。
古びた木の棚に、書籍の背表紙がずらりと並ぶ。
手入れの行き届いたその中で、私は“違和感”を感じた。
――一冊だけ、知らない本があった。
手に取ったそれは、革の装丁が施されていて、重みもある。
けれど、表紙にも背表紙にも、どこにも“名前”がなかった。
著者の記載もなく、タイトルも記されていない。
ラベル番号さえ貼られていないなんて、普通ならあり得ない。
見落とされてきたというよりも、まるで“最初から誰にも見られていなかった”かのように、そこにあった。
私は思わず、その場にしゃがみ込んで本を開いた。
最初の数ページは、白紙だった。
それでも、指は止まらなかった。
白紙の向こうに、確かに“何か”がある気がして。
この本は、私に読まれるのを待っていたのだと思った。
ページをめくる。
活字は、やがて言葉になり、言葉は物語になっていく。
その物語はどこか懐かしく、どこか苦しくて、でも目を離せなかった。
――ああ、これを私は知っている。
でも、知らない。
まるで、忘れてしまった夢の続きを読んでいるみたい。
ふと、指が止まった。
次のページをめくる前に、なぜか、涙がこぼれた。
理由はわからない。でも、胸の奥がどうしようもなく、痛かった。
「……終わりたくないのに」
呟いた私の視界が、すうっと暗くなる。
目を閉じたわけではなかった。
でも、図書館の空気が遠ざかっていくように感じた。
音も、光も、重力すらも。
本の世界に吸い込まれていくような感覚。
ページの向こう側に、“誰かが私を待っている”気がした。
──そして、私は落ちた。
現実から。
日常から。
そして、名前のない物語の中へと。