第5話:月光と祖父母の思い出
自室に戻った良太は、長い息を吐き出して床に寝転がった。
殺風景にもほどがある部屋だった。本当に何もない。ゲームやマンガはもちろん、机や寝具すらも。
お前こそ無駄遣いするな、節約の見本を見せろ、偉そうなこと言いながら自分はジジイどもの金を使う気か、と散々に罵倒され、目ぼしいものは全て奪われた。
部屋に置いた物は失くなる。常に待ち歩いているこの鞄が良太の持ち物のほとんどだ。後は、季節の合わない制服や嵩張る辞書、祖父母や叔父夫婦に貰った小遣いの残りなどが家の裏山に隠してあるだけだ。
そんな細やかな私財すら、日々狙われている。家庭で、学校で、隙有らばと。高価な物を掃いて捨てるほど持っている連中に。汚し、奪い、傷付けるためだけに。
「なぁ、じいちゃん。俺、まだ言い付けを守らなくちゃいけないかな……」
絶対に、人に拳を振るうな。
人だけではない。生きるか死ぬか、食うか食われるかの状況でもない限り、真っ当な生き物を傷つけるな。
ご先祖様から遠く時を経てお前に受け継がれた尊い力は、そんなことに使ってはいけないのだ、と。
祖父、日辻川善聴は、幼い良太に何度も言い聞かせた。
強く、厳しく、優しい人だった。
祖母は言った。金を稼ぐだけなら女子供でもできる。いざというときに家族を守れるだけの肩書きと人脈を身に付けてこそ男の仕事だ。そんな大人になりなさい、と。
祖父はそれを聞いて、そんな大層なことは男一匹でできるもんじゃない。良い伴侶を見つけろよ、と、照れ臭そうにわらった。
子供心にも呆れてしまうほど古臭い価値観の人達だったが、良太は嫌いではなかった。祖父の目が黒い内に良太を軽んじる人は誰もいなかった。父が質の悪い連中と揉めた時も、祖父は家族を守り通した。
祖父が、そして祖母が、寄り添うように相次いで亡くなった時は、声を上げて哭いた。
やっとうるさいのがいなくなっただの、遺産の分け方がバカにしてるだの、喪も明けないうちから唾を吐く家族達の言葉を聞いた時は…… 真っ当じゃない生き物ってこれのことなんじゃないのかと、危うく理性を失いかけたものだ。
叔父と同じ人から生まれ、同じ人に育てられた父は、なぜあんな人間になった?
祖父母も叔父も、父の素行を咎めこそすれ、決して差別や冷遇などしなかったはずなのに。父が持っているアンティークギターは、好きなことに打ち込めと祖父母が贈ったものではなかったのか? 良太の生まれる前や見えない所で、何かあったのだろうか……
明日の時間割を確認し、必要な物を取りに裏山へと向かう。
冴え渡る青白い月光を頼りに、良太は暗い山道を歩く。梟の声と木の葉のざわめきが、良太のささくれた心を癒していく。
道中、楊梅を摘まんで口に入れた。
父が相続した山だが、出来る限りの手入れをしているのはもちろん良太だ。両親も姉妹も虫一匹見れば悲鳴を上げ悪態をつくような人々で、山など見向きもしない。
祖父と歩いた山道を、古い山小屋に向かって良太は登っていく。
小屋に着いたらとりあえず、薪を焚いて風呂を沸かそう。実家で風呂に入るのは無防備にすぎる。部屋に鞄を置きっぱなしにしたり、脱衣所に服を置きっぱなしにしたりすれば、風呂上がりには無くなっていてもおかしくない。
それから、鹿肉と山独活でも煮て、腹に入れよう。三時間くらい睡眠も取っておきたい。家では足音に気付かないほど深くは眠れない。
家に帰らずにこの山小屋だけで暮らそうと思ったこともあるが、勘づいた父がイヤがらせにこの山を売り飛ばしでもしたら目も当てられない……
……どうすりゃいいのかなぁ……
おそらく、やれることはいろいろあるのだろう。だが、スマホを始めとした情報媒体に触れることを妨害され続ける少年には、他人に迷惑をかけずに現状を打破する手段に確信が持てない。
早く大人になるしかない。良太は唇を嚙みしめながら、涙がこぼれないようにと歌わんばかりに夜空を見上げる。
……ああ。
今夜は妙に、月がよく見える。
枝の隙間から月を覗く良太の眉は、いつしか月光を浴びた瑠璃のような蒼白に輝いていた。