第28話:ハエ男の絶望
痛い! 痛い! 痛い!
グシャグシャに砕けた顎の骨を整形し繋ぎ合わせる大手術が終わり、田中寺角栄は疼痛と発熱に苦しんでいた。鎮痛剤と解熱剤にも限度がある。
「大丈夫、角栄?」
枕元の母が泣きそうな顔で見守っている。
返事をしようにも顎は固定されているし、砕けて歪んだ歯列も軒並み抜歯された。インプラント治療も含めれば全治一年。それまでは老人みたいに入れ歯でフガフガ言うしか無いらしい。
クソが! クソが! クソがぁぁ!!
あの乞食野郎! 何をいきなり調子クレてんだ!
今頃は警察に捕まってんのか?
いや、あそこまで無礼くさったマネをしたバカを、少年院なんてヌルい処罰で済ませるなんてあり得ない!
きっと佐藤院さんに監禁されて、水津流さんにボコボコにされているだろう。見限られた分家の分際でイキがるからだ、学校の成績がイイだけの地頭壊滅クソボケ野郎が! 俺が退院するまで生かしておいてくれよ? 麻酔無しで歯を1本1本抜いてやるからな! 泣いて謝ったって絶対に許さねぇ! 1本残らず引っこ抜いてやる!!
「生き残って良かったわねぇ。凄い火事だったものねぇ」
火事?
え、何の話だ急に?
「ねぇ角栄、あなたは鈴木小路さんの御宅に遊びに行って、火事に巻き込まれて大怪我したのよ」
……何言ってんだ?
水津流さん家に遊びに行ったって、先月のことだよな? 火事? なんのこと?
え、火事って火事? 家事じゃなくて? 水津流さん家が燃えたの? マジで? 大変じゃん。
でも、え? 俺が巻き込まれたって、どういうこと? いつの話?
「本当に、大事だったのよ。たくさんの人が亡くなったわ…… 鈴木小路の親分さんも、佐藤院のお爺様も」
……え!?
ウソだろ? それって、え? どうなるの?
そんなん、日辻川に余計なことしてる余裕ないんじゃね?
ウソだろ、あの乞食野郎、警察に捕まって、少年法に守られて終わり!?
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!
「だからね…… 角栄」
母は目元を拭うと、其れまでの優しい声とは打って変わった強い口調で言った。
「あなたは、日辻川さん家の良太くんに小突かれた時は、全然怪我なんてしてなかったのよ。子供同士の、軽いじゃれ合いだったもの。ねぇ?」
……え?
なんだよ、さっきから。話についていけないんだけど。
日辻川が、え? 水津流さん家が、え?
「本当にね、大変な火事だったのよ。大怪我したのはあなただけじゃないわ。御高橋くんも、神渡辺さんも酷い怪我をしたの。鈴木小路の息子さんなんて、右手が無くなっちゃったのよ」
はああ!?
御高橋が? 神渡辺が? 何が起きてんの!? 山田は無事なの?
水津流さんが右手を無くしたって!? ウソだろ!? 火事なんかで怪我するタマか!? 俺、ホントに麻酔から覚めてる!?
「いい? だからね……」
母は時計を見ると立ち上がった。
「くれぐれも、日辻川良太くんには気を遣わなきゃダメよ? 本当に、いっぱい死んだんだから。鈴木小路さんとこの組員も、たくさん……」
じっと息子の目を見つめた後、母はまた来るね、と言い残して病室を後にした。
呼び止めようとしたが、声が出せない。固定された顎がズキリと痛んだ。
どういうことなんだよ。
え? どういうことなんだよ?
ひょっとして、日辻川の本家が動いたのか? あの仲が悪くて有名な分家のために? だから乞食が強気に出てきたのか?
でも、火事? 水津流さんの親父さんや、佐藤院の御老公様が死んだ?
偶然…… なワケ、ないよな? 日辻川本家って、そこまでヤバいとこだったの?
伊達に英才教育は受けていない。田中寺角栄の脳はフル回転し、勢力図が大きく変わってしまったのだろうと言う結論に達する。
本家が乞食のために動いたのか、乞食が本家のタイミングに合わせただけか…… 母の口振りだと、前者の可能性が高い。態々名指しで乞食を指定して、気を遣えとまで言ってきたのだ。
つまり、俺は乞食に復讐できないってこと?
顎も歯もこんなにされたのに、こんなにズキズキ痛むのに…… やられっぱなしで泣き寝入りしろってこと?
あああああ!
フザけんな、フザけんな、フザけんな! そんな理不尽が許されてたまるか!!
何が軽いジャレ合いだ! やった奴や見てるだけの奴は痛みも何も感じねぇから簡単にそう言えるだろうけど、やられた方は痛いんだよ! 体も、心も、忘れられない痛みにずっとずっと苦しめられ続けるんだよ! 一番弱ってる被害者にシワ寄せを集めて、お前だけが苦しめば自分達は楽だからって…… 人として恥ずかしくねぇのか!? テメェらに良心はねぇのか! 相手の気持ちが想像できねぇのかよ!!
俺はいいけどお前はダメ、という特権階級意識が彼のような人種の行動原理である。田中寺は身勝手な怒りと屈辱に臓腑を煮えくり返らせた。
殺す! 殺してやる! どうにかしてブチ殺す! 何としてでもブチ殺す!! その後は裏切者の御袋もブッ殺してやる! 首を洗って待っていやがれ、クソ乞食野郎ども!!
まぁ、結論から言えば、そんなことは出来なかったのだが。
約6週間後、総入れ歯で一旦退院することになった田中寺角栄は、インプラント治療を行う暇も無く、さらなる地獄を見る羽目になる。




