9
ノックをすることも忘れて、バンッと勢いよく部屋の扉を開け放つ。
中に控えたクロードとマーサが驚いたように振り返り、静かにイリアスに目礼した。
彼らの落ち着いた様子を見て少し頭の冷えたイリアスは、ノックもしないで押し入った不作法をごまかすようにこほんと咳払いをする。
「……彼女の様子は、」
声を落としてクロードに尋ねる。主人の狼狽を見守る二人の視線は生温いが、そこまで取り繕う余裕はない。
「今ちょうど、お医者様が見えたところです。熱も下がりましたし、素人目には容態は落ち着いているように見えますが……ひとまずお医者様の診察が終わらないことには、なんとも」
そうか、と大きな息を吐いた。
そこまで最悪の事態ではないようで、良かった。緊張が解けて、どっと疲労が押し寄せてくる。
とりあえず医者の見立てが出るまではここで待とう、と手近な椅子を引く。
きちんと整頓された室内の中で、目の前にある文机は唯一人間らしい乱雑さを残していた。
直前まで書き物作業でもしていたのだろうか。散らばった紙には、書きかけの几帳面な字が並んでいる。
他人の私書を覗き見るのは良くない、と目を逸らそうとしたところで、『イリアス様へ』という宛名がはっと目に飛び込んできた。
思わず紙を手に取る。
後ろから静かにクロードが言葉を添えた。
「お読みになってください、ミラベル様が渡せずにいたお手紙の数々です」
――数々?
その声に促され、イリアスは文面へと目を走らせる……
一通目は、この屋敷に来てからの幸せを綴ったものだった。
自身の境遇が受け入れられた驚き、学びを得られる喜び、こんな自分を気にかけてくれる得がたき環境……それら全てを用意してくれたイリアスへの感謝の気持ちと、そんなイリアスのために全身全霊で尽くしたい、役に立ちたいというミラベルの熱い思いが述べられ……そして、途中で手紙はふつりと途絶えていた。
何とも言えない気持ちで二通目を手に取る。
二通目は、先日の非礼を詫びる文章から始まっていた。
彼女にはトラウマがあり(それが彼女の生家による虐待のことだとイリアスは正確に読み取った、)男性が腕を上げると思わず身が竦んでしまうこと、イリアスのことを信用していないのではなくむしろ誠実で優しい方だと思っていること、それなのに反射的にあんな態度を取ってしまった自分に自己嫌悪に陥っていること、イリアスの怒りは当然だと思うこと……そういった内容が記され、そしてやはり文面は途中で終わっていた。
三通目は、先日の外出がいかに楽しいものだったかを語っていた。
印象深い出来事、新鮮な街の人の暮らし、美しい街並み……それをイリアスと経験した喜び。彼女の歓喜を表すように、先日の出来事はまるで目の前で繰り広げられているかのように活き活きと描かれていた。
四通目はイリアスの体調を気遣うものだった。五通目は、六通目は……
全部で十五通の手紙に目を通したイリアスは、眉間を押さえながら思わず天井を見上げた。
十五通の手紙全てがイリアスに向けたものであり、その中身はイリアスを思いやる真心と感謝の念で溢れていた。
(それなのに僕は……くだらない感情に振り回されて……)
後悔と共に、身体がズルズルと背もたれへと崩れ落ちていく。
苦い想いは呑み下せないまま、イリアスの口内へと広がっていく。
――それでも。
(彼女に拒まれた訳ではなかったのか)
愚かしいと思いながらも、後悔とは別に……紛うことなき安堵が、そこにはあって。
(本当に救いようのない阿呆だな、僕は)
自嘲するように、唇を歪めた。
――もう、否定することはできなかった。僕は彼女を……
物思いは、ぱたん、と開かれた扉の音で遮られた。現実に引き戻されたイリアスは、はっと寝室から出てきた男性に意識を戻す。
「少し、お話よろしいですかな」
白いローブを身にまとった男は、感情の読めない平坦な声で告げる。
「彼女の婚約者です。医師、彼女の様子は」
ずいと前に進み出て、イリアスはできる限り感情を抑えた声で尋ねる。
やれやれ、とどっかり腰を下ろした医師は眼鏡を拭きながら淡々と答えた。
「まぁ、風邪と……疲れによる体調不良でしょうな。処置は終えましたから、数日間安静にしていれば大丈夫でしょう。ただ……」
「ただ……、何です⁉︎」
思わず詰め寄るような言い方になっていた。
一瞬面食らった表情をした医師は、しかし、すぐにその表情を打ち消して言葉を続ける。私情を見せないその姿勢は、医師として信頼ができるといって良いだろう。
「もともと身体が丈夫でないのか、疲れの所為もあるのか……本来持ち合わせている自己回復機能が彼女の場合、だいぶ損なわれているようです。このままだと、回復には相当時間が掛かるでしょう。また、今後も体調を崩しやすくなることが予想されます」
「何か……対策はあるのですか?」
「治癒魔術が効果的でしょう。ご主人さえ問題なければ、私の方で今からその施術を取り計らいますが……」
「いや、その心配はない。それは僕がやります」
皆まで言わせずに、イリアスはきっぱりと答えた。
以前の会話を記憶している使用人たちが驚いたように顔を上げたのが視界の端で分かったが、イリアスは構わずに立ち上がる。
「診察、ありがとう。クロード、マーサ、医師の見送りを。――それでは、僕はこれから治癒魔術に取り掛かるので」
挨拶もそこそこにミラベルの寝室へと歩き出したイリアス。残された三人はその勢いに呑まれて、ただただその後ろ姿を見送る。
そんな三人を尻目に、イリアスは真っ直ぐに寝室へと突き進んでいく。彼らに割く時間が、一秒でも惜しい。
振り返らずに後ろ手にドアを閉めた。
扉一枚を隔てただけだというのに、寝室はいやに静かだった。
ベッドに横たわるミラベルが、真っ先に目に飛び込んでくる。顔色を失くした彼女は、まるで置かれているかのように無機質にベッドの中で眠っている。
静かに眠る彼女の姿。それがまるで血の気のない人形のように見えて、イリアスはどきりとした。
そろそろと足音を忍ばせて枕元へ近づく。そこまで来てやっと、ゆっくりと上下する彼女の呼吸が確認できて、イリアスはほっと息をついた。
ベッドにかかる大きな刺繍で飾られたベッドカバーが目につく。見覚えのない装飾だ。大きく飾られたこの紋様はトレヴァー家の家紋だが、こんなものが家にあっただろうか……
少し考えてから、気が付いた。これは……もしかして、先日の夕飯で彼女が話していた刺繍作品では?
(こんな短期間で完成させたのか……)
家庭教師やクロードからは、勉強に熱中しすぎで心配だという話も聞いていた。だというのに、それ以外にこんな手仕事にまで時間を割いていようとは……
(それは……過労で倒れるわけだ)
思わずため息がでた。
(彼女が回復したら、もっと自分の身体を気遣うように忠告しなければ。仕事に熱中するのは立派だが、それで体調を崩しては元も子もない)
そこまで思ってから、ついつい苦笑いを浮かべてしまった。
――なんのことはない、それは今まで自分が周囲から言われていたものと同じ言葉だったのだから。
(似たもの同士、ということだろうか)
そんなくだらないことを考えてふっと息を洩らす。一度肩の力を抜いてから背筋を伸ばせば、自然と気持ちは切り替わる。
さあ、くだらない夢想はおしまいだ。治癒魔術は、かなりの集中力を必要とするのだから。
ミラベルの冷えた手を取った。その冷たさに、ぎゅっと心臓が締め付けられるが、心を乱してはいけない。
目を閉じて、体内を巡る魔力を整える。……気が昂っている所為だろうか、仕事後だというのに、疲労感はあまりない。
いつも以上に滑らかに、自分の魔力を汲み出すイメージが組み立てられていく。そのイメージを維持したまま、彼女の身体と混ざり合う感覚に意識を移していく。
自分の魔力がそっと彼女の体内に手を伸ばす。まるで、彼女という存在の核そのものに触れようとするかのように。
二人の輪郭が曖昧になり、触れ合った手が溶け合っていく。互いが混ざり合い、体内を灯す熱を分かち合う。
温かくて優しい、命の灯火。
(これは……他人に任せなくて、良かった)
集中したまま、イリアスは内心で独りごちた。
「治癒魔術は魂の同衾である」という考え方は、一部の貴族の間では当然の考えとして見做されている。
結果、不貞の謗りを恐れて助かるはずの病人が治療を拒み、命を落とす事態まで起きているほどだ。
今までイリアスは、そんな連中を愚かだと切り捨てていた。
しかし理性ではどうしようもない感情があると知った今……イリアスにはもう彼らを嗤うことはできない。
――ただ一つの感情の発露が、ここまで物の見方を変えさせるものなのか。
他人事のように、彼は自身の変化を振り返る。
物思いに耽りながらも、治癒魔術は順調に進んでいく。
やがて、自分の魔力が滞りなく彼女の身体中を巡り出すのを感じた。最初に感じられた淀みや断絶はもう見られない。ここまで来れば、もう心配ないだろう。
ほぅ、と大きな息をついて身体を起こす。
「………………?」
そこで、大きな違和感に気が付いた。
――それは彼女の体調の変化ではなく、自身にまつわる違和感。
思わず、治療を終えた自分の手をじっと見つめる。
――間違いない。今まで気付かなかったのが、不思議なくらいだ。
兆しは、最初からあったのだ。
振り返れば、彼女がこの屋敷に来てからずっと、この変化は起きていたのだから。
「ミラベル嬢。もしかして、君は……――」
ただ静かに横たわる彼女に、届かないと分かっていてもつい声が上がった。
――無能令嬢なんて、とんでもない。そう、彼女の能力は……