8
「旦那様、ま〜た帰って来なくなっちゃって……、」
外出から数日経って。
ミラベルの髪を結いながら、マーサは大きな溜め息をついた。
「ごめんなさい、私が失礼な態度をとったから……」
あれから彼は露骨なまでにミラベルを避けるようになり、一緒に夜食を摂ることも無くなってしまった。
仕事から帰る時間も最近はだいぶ早くなってきていたのに、また昔に逆戻りだ。
本当はもう一度顔を合わせて謝りたいのだが、その所為でイリアスと言葉を交わすことすらできずにいる。
「もしそうだとしても、たった一回の失敗でそんな態度をとる旦那様の方が悪いに決まっています!まったく、旦那様も何を拗ねているのやら……」
「拗ねている?怒っているのではなくて?」
「いーえ!あれは拗ねてるだけです、まったく旦那様ったら子供なんだから……!ですから、ミラベル様もあまりご自分を責めないで大丈夫ですよ」
「ええ、ありがとう……」
マーサにはそう返しながらも、ミラベルの表情は晴れない。
「お手紙を書くというのはいかがでしょう、」
――塞ぎこむミラベルを引き戻したのは、家庭教師のそんな提案だった。
「お伝えしたいことがあるのになかなか会えない場合、手紙というのは非常に有効な方法です。今までお教えしたマナーのおさらいにもなりますし、良い機会でしょう。……もっとも、お二人の間のお手紙を私が添削することはできませんが」
最後の一言は、家庭教師なりの冗談だ。ミラベルはくすりと上品に笑ってから、力強く頷いてみせる。
「お手紙……確かにその通りね。良い考えをありがとう。少し視界が開けた気分」
「私も、応援していますよ」
すっかり貴族らしい振る舞いが身に付いてきたミラベル。
その努力を目の前で見てきた家庭教師は、頑張り屋の彼女に心からのエールを送る。こんな健気な女性を前に、イリアスは何を不満に思っているのだろうと内心やきもきしながら。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「ワン、ツー、スリー、ワン、ツー、スリー……」
薄暗いダンスホールに響く声。
もう家庭教師も帰り、日もすっかり沈んだ時分。
既に今日の課題は終わっているというのに、ミラベルは時を忘れたかのようにダンスの練習に打ち込んでいた。
淑女教育の中でも、ダンスは特に苦手な部類だ。正確なステップばかりに意識を囚われてしまうと、音楽に遅れがちになってしまう。
もっと考えなくても身体が動くようにステップに慣れなくては。そう一心不乱に練習を繰り返しながら、ミラベルは想いを馳せる。
(お手紙……何を伝えれば良いのかしら……)
あれから一日中、机に向かって手紙を書いているのだが……書いてはやり直し、書いてはやり直しを繰り返すばかりで、手紙は結局一行も進んでいない。
書きたいことはたくさんあるのに、いざ伝えようとすると言葉が出て来ないのだ。この感情を、どう伝えれば良いのか。
心を砕いて自分に色々な配慮をしてくれたイリアスのことを思えば、言い表せないほどの感謝の気持ちと温かな想いが溢れてくる。
もとより、幸せになることは諦めていた身だ。契約結婚の相手などぞんざいに扱われても当然だと思っていた。
――そんな中で手にした、思いがけない幸福。
初めて手に入れた、自分の居場所。
それを与えてくれたイリアスに尽くしたいと願った。
感謝の念は、やがて親愛の情へとその身を変えた。
共に過ごすうちに彼の表情が和らいでいったことが、どれほどミラベルにとって嬉しかったことか。
眉間の皺が消え、表情から険しさが失われたイリアスは、女性のミラベルから見ても非常に整った顔立ちをしていた。
真っ先に思い出されるのは、初めてスープを口にした時に見せた恍惚とした微笑み。
切れ長で一見冷たい眼差しをした彼の瞳。それが喜びで細められるとあんなにも甘い表情になるなんて、きっと限られた人しか知らないはずだ。
そう思うだけで、ミラベルの胸の奥にはぽっと暖かな光が灯る。
彼の人となりも、段々と見えてきた。
合理的な方なのに自分のこととなるとからきしで……、そんな彼を支えたいと思った。
段々にミラベルに笑顔を向けてくれることが増え、真心が通じる喜びに胸が熱くなったものだ。
彼との外出は、幸せの絶頂だった。
――それなのに。
(それなのに私が、台無しにしてしまった)
目の前が暗くなる。
頭が、キーンとつんざくような音に貫かれる。
足元が……ふらつく。
(……あれ?)
それが比喩ではなく紛れもない身体の不調だ、と気が付いたときにはもう遅かった。
身体の支え方がわからなくなった。
頭がいやに重い。
踊るのをやめたというのに、視界は相変わらずクラクラと回り続けている。
(どう……して……)
思考が定まらない。頭が……痛い。寒い。
ドサリ、と重たい音がダンスホールに響いた。
それが自身の身体が床に倒れ込んだ音だ、と気付くより前にミラベルの意識は闇へと沈んでいった……
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
一方、その頃。
仕事に区切りを付け帰り支度を始めたイリアスに、後ろから声を掛ける者があった。
「おう、お疲れさん」
「師団長、今日は遅いんですね」
珍しい声に、つい驚きが露わになった。
ヴィンセント師団長といえば、毎日臆面もなく「妻の手料理を食べに帰る」と惚気ながら定時で帰ることで有名な男だ。その素早さは実に決済書類を持った部下が泣きながら追いかけても追いつけないほど、と他部署にまで語り継がれている。
肩を竦めてヴィンセントはおどけてみせる。
「なぁに、ちょっと城の方で飲み会があってな。その帰り道なだけさ」
「飲み会、ですか……」
ヴィンセントが呼ばれる王宮の晩餐なんて、王族が関係するパーティ以外ありえない。それを「飲み会」呼ばわりする彼の図太さに、イリアスは思わず呆れてしまう。
「それで、この時間でもお前なら残ってると思ってついでに寄ったんだ。……コレ、お前のだろ?」
そう言って目の前に無造作に突き出されたのは、ミラベルに渡すつもりだったあの髪飾り。
「これは……捨てたはずじゃ……」
予想外の品に、思わず本音が洩れる。
「まぁゴミ箱に捨ててあったらしいけどな、綺麗に包まれていてどう見てもプレゼントって感じだったから清掃係がわざわざ届けてくれたんだ。……これ、例の婚約者に贈るんじゃないのか?」
「……いえ。お気遣いなく。もう済んだ話です」
一瞬言葉に詰まったが、冷静にそう首を振る。
わっかんないなぁ、とヴィンセントが大袈裟にため息をついた。
「お前さん、婚約が決まってから随分と幸せそうだったじゃないか。……喧嘩でもしたのか?」
「プライベートの話ですよ、師団長殿」
やんわりと質問を拒むが、ヴィンセントは怯まない。
「いやいや、最近は家に帰る時間も早くなったと、お前の部下たちも喜んでたんだぞ?プライベートの充実は仕事の成果にも関わってくる。俺の関与する余地もあるってもんだ。
なぁに、恋人との喧嘩なんて、大概はちょっとしたボタンの掛け違いが拗れてるだけだ。ちゃんと相手に向き合って話をすれば、解決の糸口は自然と見えてくる……」
「師団長のところと違ってウチは政略結婚ですから。別にそれなりの関係が保てれば、それで構わないんです」
早くこの話を切り上げたい一心で、イリアスは熱心に語り出したヴィンセントの話を遮った。
しかし、その言葉を聞いて、ヴィンセントはますます困惑した表情を見せる。
「お前さん、こんな贈り物をしようとしたくせに……まだそんなことを言ってんのか?」
「?どういう意味です?」
今度こそ呆れた顔で、ヴィンセントは言い放つ。
「自分の瞳と同じ色のアクセサリーを身につけて欲しいだなんて、どう見ても恋に溺れた男の独占欲の表れじゃないか」
――それから、ヴィンセントとどんな会話を交わしたのか覚えていない。
気付けばイリアスは、ふらふらと屋敷への帰路についていた。
「恋に溺れた男の独占欲」。
ヴィンセントの言葉を頭の中で何度も打ち消すが、最初に感じた「ああ、そうか、」という納得感はいつまでたっても覆せない。
今まで感じたことのない、激情の奔流。どうしたって彼女のことばかり気になってしまうこの執着の理由が、その所為なのだとしたら……
(――馬鹿馬鹿しい。予想外のことを言われて、混乱してるだけだ。帰って、落ち着いて頭を冷やそう)
堂々巡りをする思考を無理矢理追い払って、たどり着いた屋敷の扉に手をかける。
――ふと。いつもと違う気配に気が付いた。
普段ならほとんどの使用人たちが眠りについている時間。だというのにどういう訳か、今日の屋敷は妙に明るい。
煌々と灯りが溢れる我が家がどことなく不吉だ。不気味な感覚を覚えながら、イリアスは後ろ手で扉を閉める。
毎晩主人の帰宅を察して彼を迎えるはずのクロードは、なかなか現れない。仕方なく、イリアスは手持ち無沙汰にその場に佇む。
屋敷の奥からは、マーサが指示を出す声や使用人たちがぱたぱた走り回る足音が漏れ聞こえる。何が起きているのかはわからないまま、ただ慌ただしい気配だけが伝わってくる。
少しだけその場に留まったが、誰も出てくる気配はない。
イリアスは肩を竦めて、一人自室へと歩き始めた。
「っ!おかえりなさいませ、旦那様!」
その道中で、ようやく一人のメイドとすれ違った。
「ずいぶんと屋敷の中が騒がしいが……何かあったのか?」
メイドの顔が、悲しげにくしゃりと歪んだ。
「それが、ミラベル様が倒れてしまわれて……!」
「……何だって?」
返ってきた言葉に、すぅっと背筋が冷えた。
周囲の音が、突然遠ざかっていく。
――気付けば、イリアスは息をすることも忘れてミラベルの部屋へと向かっていた。