7
――そうして、しばらく経って。
約束通り、イリアスとミラベルは街へと出かけることになった。
馬車の窓から差し込む暖かな日差しに、イリアスは眩しそうに目を細める。
彼女を誘ってから少し日が空いてしまったが、これでも休日すら書斎に引きこもる仕事人間のイリアスとしては信じられないほどの手際である。
普段なら何かと理由をつけて家に引き篭もる出不精な彼の外出に、使用人たちも大喜びで二人を送り出していた。
――外出嫌いの自分が、どうしてそんな提案をしたのか。
馬車に揺られながらいくら考えても、イリアスは自分の気持ちがわからずにいた。
最近の自分の感情は、まるで自分のものではないかのように激しく動く。
時に天国へと昇り詰めるほどの喜びに身を震わせたり、時に視界が真っ赤に染まるほどの激情に身を焦がしたり。
それはミラベルと話をしている時によく起こるのだが、その原因は定かではない。
貴族として、当主として。普段から自身の感情を封じていたイリアスには、もはや感情の機微というものがわからなくなって久しい。
自分のことは「何をしても無感動」「合理性の塊」「冷徹な上司」という周囲の評価がふさわしい人間だと認識していたのだが……自分の中に思いもよらぬ側面があったことは、彼に戸惑いだけでなく、新鮮な驚きと妙なくすぐったさをもたらしていた。
それはもう、意識して引き締めなければ貴族らしからぬほど表情が緩んでしまうくらいには。
今回のこの外出も、間違いなく自分は楽しみにしていたようで。
彼は幾分持て余し気味な浮ついた気持ちを自覚しながら、馬車の座席に深く腰を下ろして目を瞑る。
自身の感情を制御することが貴族の務めだ、と必死に胸の内で唱えつつ。
一方、向かいに座るミラベルが今回の外出を心から楽しみにしていたことは、傍から見てもわかりやすすぎるほどだった。
「街には異国の珍しい布があると聞きました」、「使用人の皆さんへのお土産は何が良いと思いますか」、「最近良い天気が続きますが、週末まで続くでしょうか」、などなど……
外出の日が近づくにつれ、彼女の話題はそのことについてばかりになっていた。馬車に揺られている今も、彼女はそわそわと上気した顔で、楽しそうに馬車の窓から外を眺めている。
今にも歌を歌い出しそうな、喜びでじっとしていられないような表情。
考え事をしたいから話しかけてくれるな、と先ほど伝えたときには彼女が気を悪くしないだろうかと心配したのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
――誘って良かったな、とその姿を見てイリアスは素直にそう思う。
彼女の嬉しそうな姿を見ると……何故だろう、自分まで嬉しくなる。
いくら考えても、その理由はわからない。
思考は捗らないまま、やがて馬車が止まった。
「わぁ……っ!」
イリアスにエスコートされて馬車から降りたミラベルは、途端、その場で立ち尽くして感嘆の声を上げた。
まだ街のほんの入り口、華やかなものなど何もないエリアだ。こんな場所の何にそんなに感銘を受けているのだろう、とイリアスが不思議に思ったところで。
ミラベルは感極まった声で言葉を続ける。
「人が、こんなにたくさん……!」
思いがけない一言に、思わずぽかんと口が開いた。
(そうだ。街へ出たこともない、成人してからパーティにも参加したことがない彼女に、この人の多さは衝撃的だろう、)
そう考えて自分を納得させようとするが、こみ上げてくるものが抑えられない。
まさかこれから見せようと思っていた街の華やかさでも、ひしめき合う建物でもなく……そんな至極当たり前の光景から、驚きの表情を目にしようとは……
「?どうかしましたか、イリアス様?」
「ふふっ」
心底不思議そうに首を傾げるミラベルの姿を見たらもう、堪えられなかった。
イリアスは口元を押さえながらも、きょとんとするミラベルの前で肩を震わせてくつくつと笑い出していた……
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――初めての外出は、終始この調子だった。
普段イリアスが見慣れている、なんてことない事柄……例えば道端のガラクタを並べた露天商や食べ歩きの屋台など……その一つ一つにミラベルは新鮮な驚きと喜びを見せる。そんな彼女の反応を、イリアスは楽しそうに観察する。
「イリアス様って、こんなに笑う方だったんですね、」
日が陰り、影が長く伸び始めた時間になって。
名残惜しみながらも帰路へと向かい始めた道中で、ミラベルが意外そうにそう漏らした。
素直なミラベルの呟きに、イリアスは少し苦い笑みを浮かべる。
「自分でも驚いているよ。僕は……、仕事や貴族としての重圧の中で大切なものを見失っていたみたいだ。余裕がない所為で、今まで君にも失礼な態度ばかりとっていた、すまない」
仕事上でも滅多に頭を下げることはないのに、謝罪は自然に口をついて出た。
――今振り返ると恥ずかしさでのたうちまわりたくなる、これまでの非礼の数々。よくもまぁ、こんな態度の男なんかのために働いてくれたものだ。
だというのに、ミラベルは慌てて首を振る。
「そんな!失礼な態度だなんて思ったことはありません。イリアス様のおかげで、今の私があるんです。本当に、感謝しています」
「感謝……か、」
イリアスの呟きには、そこはかとない失望が滲んだ。
謝罪を受け入れてもらったというのに何に対して失望するというのだろう。自身の感情を見極められぬまま、イリアスは沈みだした夕陽に目をやる。
――迎えの馬車が来るまでに、まだ数刻掛かりそうだ。手の中にあるものを渡すなら、今だろう。
イリアスの手に握られているのは、この外出中にこっそりと買った髪飾り。
薄紫の繊細な硝子細工の花を冠したこの髪飾りは、きっと彼女の明るい金髪によく似合うことだろう。
その姿を想像しただけで、自然と表情が緩む。
「今日は楽しかった。今日の記念にもし良かったらこれを……」
そう言いながら彼女の髪に髪飾りを挿そうと、彼女の頭に何気なく手を伸ばしたその、瞬間。
「ひっ、」
ミラベルは怯えたように、びくりと身体を引いた。
まるでイリアスに触られることを恐れるかのようにその手を避け、目をぎゅっと瞑って身を縮めるミラベル。
イリアスのことを信用していないのだと、言葉にならずとも伝えてくる警戒の姿勢。
……その姿を見た途端、すぅっと頭が冷えた。
一瞬心臓がぎゅぅっと苦しくなった後、臓腑からふつふつとしたどす黒い感情が湧き上がる。
(感謝していると抜かしたその傍らで、僕に触られるのを恐れるのか……⁉︎)
「あっ、失礼しました……っ!」
完全に反射的な行動だったらしい。
ハッとしたミラベルが、慌てて謝罪を述べようとする。
「……もう良い」
その焦った態度が却って彼女の本心を透けさせているようで、イリアスはくるりと背を向けた。
胸のむかつきが抑えられない。どす黒い気持ちにどんどん思考が塗り潰されていく。
彼女が困ったようにこちらを窺っているのはわかっていたが、もう知るものか。
親しくなれたと思ったのに。心を許していたのは、自分だけだったなんて。
拒まれた。
怖がられた。
嫌われた。
ああ、それはなんて苦しくて憎らしい事実だろう。
昏い感情に打ちのめされ、何もかもが嫌になる。
そのままイリアスは彼女と目を合わせず、一言も口を利かずに家路へと就いたのだった……