6
――その晩。
多少は早く帰れるように、と思っていたイリアスだったが、今日もまた気がつけば夜も遅い時間になっていた。
疲労の所為か、昼から何も食べていないのに食欲はまったくない。
頭の奥が重く、空っぽの胃がキリキリと痛む。
こんな状態ではやはり夜食など無理だな、とため息をつきながらイリアスは屋敷へと戻る。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「……ああ。彼女は」
「食堂でお待ちでございます」
「そうか、」
ここまで待たせてしまったのだ。食欲がないとはいえ、人伝てに断るのはあまりに失礼だろう。
そう判断したイリアスは襟元を緩めながら食堂へと向かった。
「イリアス様、おかえりなさいませ」
彼に気が付いたミラベルが、淑やかに席を立ち頭を下げる。
「ああ。待たせてすまない。申し訳ないが今日は――」
食欲がないんだ、と言いかけたところで、ふわりと温かな湯気が鼻腔をくすぐった。
思わず言葉を切る。
今まで存在を主張していなかった腹の虫が突然、きゅぅ、と情けない声を上げる。
「ちょうど温め終わったみたいですね」
「いや、私は――」
断ろうと口を開いてから、漂うその香りに忘れていた空腹感に気が付いた。普段であれば、何も胃に入れたくないと思うほど疲れ切っているのに。
気付けば、促されるがままに食卓についていた。
先ほどから漂ってくる、この美味しそうな匂い。その正体を見極めるのも、悪くはないかもしれない。
「どうぞ」
――並べられた料理は、率直に言って貧相なものであった。茶色いくすんだ色のスープと、柔らかなパンだけ。
だというのに、イリアスのお腹は切なげに早くそれをよこせと訴えてくる。
「……では、」
恐る恐るスープに手をつける。これだけ良い匂いをさせているのだ。不味いということはないだろう。
口元まで、匙を運ぶ。その姿をミラベルが不安そうに見守っているのがわかる。
思わず目を見開いた。
口の中で広がる、複雑で奥行きのある味わい。かと言ってそれは強烈な味ではなく、ただただ優しく滋養たっぷりに身体の中に染み込んでいく。
「美味しい……」
思わず呟きが漏れる。ぱぁっとミラベルが顔を輝かせるのがわかった。
その後ろでマーサがうんうんと嬉しそうに何度も頷いているのが目に入るが、イリアスの意識はもう既にそこにない。ただひたすら、スープを口元へ運ぶことに没頭していた。
スープ単体でも美味しいが、パンを浸して食べるのも良い。交互に食べるのも良い。
気がつけば、出された食事は全て平らげてしまっていた。
夢中で食べているうちに、いつの間にか身体が内側からぽかぽかと温まっている。
「……美味しかった、ありがとう。これは一体……?」
食したことのない料理だ。正体が気にかかる。いつもの料理とは、風味がまったく異なっているのだから。
彼の問いに、少しだけミラベルは答えるのを躊躇う。
「野菜とお肉の……煮汁です」
「煮汁?料理人がいつも捨てる、あの?」
はい、とミラベルは身を縮める。
「煮汁には野菜やお肉の香りや栄養がたっぷり染み込んでいて、美味しい上にとても滋養があるんです。
夜遅くに召し上がるものでしたら、身体に染み込みやすいものが良いかと……。そういったものを口にする経験が多かったものですから、味付けも一通りは勝手がわかっておりますし……」
それは残飯にもならない屑食材を口にさせられていたということに他ならないのだが、そこは敢えて誰も突っ込まない。
イリアスは合理的な人間だ。
気位の高い男であれば、捨てるような屑汁を食わせたのかと激昂したことだろう。しかし、彼はただ素直にそのスープの旨味に感心を覚える。
普段料理人が彼のために用意する料理は味は悪くないのだが……、如何せん、深夜に食べるには重すぎた。しかし確かに、このスープであれば遅い時間であっても口にできそうだ。
「その……明日も、用意してもらえるだろうか」
それは、何よりも彼女の工夫を認めた言葉。
「っ!はい、もちろん!」
ミラベルが嬉しそうにイリアスの顔を見上げる。
――控えめなその笑顔を目の当たりにした瞬間だった。
どくんと、イリアスの心臓が強く脈打った。
(……何だ……?)
思わず心臓に手を当てる。脈が早く、息苦しく、顔が熱い。今の一瞬で、一体何が起こったのか。
喉の奥が支えるような、今まで感じたことのない感覚。
しかしそれは、不調というほど不快なものではなく、どちらかというと心地良い焦燥感。
怪訝そうにミラベルが首を傾げる。
誤魔化すように咳払いをして、イリアスは少し目を逸らした。彼女を視界から外すと、その感覚はひとまず落ち着いてくる。
「あー、それと。アロマも気に入っている。僕の寝室にもラベンダーを置いてくれないか?」
「はい、喜んで」
ミラベルがもう一度微笑んだのが視界の端でわかった。
……しかし何故だろう。
イリアスはその日。
それ以上、彼女を正面から見ることができなかった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
そうして。
トレヴァー家では、遅い夜食の時間にイリアスとミラベルがゆったりと会話を楽しむ習慣ができあがった。
最初のうちはお互いの距離感を測りかねてどこか余所余所しい空気だったが、日を追うにつれその距離は徐々に縮まっていく。
仕事人間のイリアスは会話の内容がどうしても仕事関連に偏りがちになってしまうが、ミラベルはそれを疎む様子もなく楽しげに話を聞いてくれる。
また彼女の才覚ゆえか、イリアスの話に返される相槌や感想は的確でかつ新鮮だ。
相手の反応があると話していて楽しいもので、イリアスは気付けば随分と舌が滑らかになっていた。
その姿は、自分の主人はここまで饒舌だったのかと使用人たちが目を瞠るほど。
いつしか彼にとって、仕事終わりのこの時間はかけがえのないものになっていた……――
「まぁ、では本当に災厄の竜は城に?」
今日の話題は、彼の取り組んでいる仕事についてだ。
封印魔術の話を聞いたミラベルは驚きの声を上げ、スプーンを手にしたまま、目を丸くしてイリアスの顔を見上げる。
素直なその反応に、思わず頬が緩んだ。
「ええ。貴族でしたら本物を目にする機会も多いですよ。国民もクジに当たれば、建国祭のときに実物を目にすることができますし。貴族の役割を知らしめるのは、大事なことですから」
「建国祭……」
「もしかして、まだ参加されたことがありませんか?」
何気なく問うと、ミラベルは実は……、と恥ずかしそうに切り出した。
「街へ出たこともないんです」
「っ!それは珍しい」
驚いてから、それも当然かと気が付いた。彼女の生い立ちを考えれば、家の外を知らなくても無理はない。
「もし良かったら……」
そこまで言いかけて、喉に何か絡まるような感覚がして思わず一度言葉を切った。
……一体何に緊張しているんだ、自分は?
「あー……、もし良かったら次の休みに僕と街へ出てみませんか。案内しますよ」
「良いんですか、嬉しいです!」
仕切り直したイリアスの誘いに、ミラベルは無邪気な喜びを見せた。
可愛いな、と一瞬その笑顔に見惚れた。
骨の形までわかるほど痩せ細っていた彼女の身体はすこし丸みを帯び、女性らしい曲線が出てきた。
ストレスから解放され、エメラルドのような明るい翠の瞳は輝きを増している。
その美しい瞳を喜びで輝かせたのは自分だ、と悦に入ったところで。
(何を考えているんだ、私は……!)
愕然とした。
今まで感じたことのないような感情。
自分のものではないかのように唐突で、強烈な想い。
「……イリアス様?」
「いや、なんでもない……!」
慌てて思考を切り替える。
心配そうにミラベルがこちらを窺っているのは気付いているが、今は彼女の顔を見返す余裕がない。
その後の彼はただひたすら無心に、夜食を食べ終えることに注力していた……