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イリアスの日々は、そうして過ぎていく。
予想した通り、婚約者がいるからといって何か変化が起きる訳ではない。
仕事は相変わらず忙しく、帰宅する時間は遅い。ミラベルと交わす会話も、二言三言で終わる日が多かった。
そうして一月ほど過ぎたところで。
イリアスは不思議なことに気が付いた。最近何故か特に何がという訳でもなく、調子が良いのだ。
慢性的に悩まされていた肩こりや頭痛が和らぎ、身体が少し軽くなった気がする。
何故だろう、と何気なく呟いたところで、クロードに呆れた目を向けられた。
「ミラベル様のおかげですよ」
今頃気付かれましたか、とため息混じりに告げられる。
「書斎にアロマが置かれているのに、気付かれていますか?」
「そういえば最近、懐かしい香りがしているな。あれは、ラベンダー……だったか」
亡き母が好きだった香りだ。あの柔らかな香りは、泣きたくなるような切なさとともに不思議な安心感を与えてくれる。
「ええ。疲れがちな旦那様を気遣って、ミラベル様が提案してくださったのです。この香りは……奥様を思い出しますね」
トレヴァー家に長く仕えた執事は、主人と同じ感想を抱く。その言葉に、イリアスの口元がふと緩んだ。
「母の思い出のラベンダーに、安眠の効果があったとはね。……もしかして、このハーブティも彼女が?」
最近、夜寝る前に出されるお茶がコーヒーではなくハーブティに変わっていた。不思議には思ったものの、味は悪くなかったのでそのまま飲んでいたのだが……
「ええ。そして、そのお茶を淹れているのもミラベル様です」
口止めされていたので、旦那様が気付くまでは伝えられませんでしたが、とクロードは続ける。
実際のところイリアスはアロマにもハーブティにも気付いていた訳ではなかったが、そこはいつまでも鈍い主人を見かねてクロードがフォローしたことになる。
「そうか。……彼女は、お茶を淹れるのが上手いんだな」
「旦那様が喜んでいたと伝えておきましょう。差し出がましい真似と思われるのではないかと心配されてましたから」
「人の好意を踏みにじるような男だと思われていたとは……、流石に心外だな」
「旦那様の印象というよりは、ご自身の自信の無さの表れですかね。淑女教育も順調に進んでおりますが、自分自身への評価というのはなかなか変わらないもので……」
ああそうだ、と思い出したようにクロードが沈んだ話を切り替える。
「もしご迷惑でなければ、次は夜食を一緒に摂らないかと、ミラベル様がおっしゃっていました。疲れた身体に合うものを用意するからと」
「……何時に帰れるかわからんぞ」
「それでも構わないそうです」
妙な女だな、とイリアスはつぶやいた。
相手の機嫌を損ねることを恐れるのなら、そんなお節介を焼かなければ良いのだ。誰も彼女にそんなことは求めていないし、それをしなかったところで怒られることもない。
「……まあ、準備をするだけなら好きにすると良い。食べられるかどうかは、別だが」
畏まりました、とクロードがその場を下がる。
ドアが閉まる風で、ふわりとラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。柔らかな眠気が自分を包み込むのを感じる。
そういえば確かに最近は眠れない夜が減ったな、とイリアスはふと気が付いた。満足な睡眠がとれるだけで、ここまで体調が良くなるのか。
――明日の夜食に、彼女は何を用意するのだろうか。
取り止めのないことを考える。
……いつの間にか、ミラベル個人への興味が湧き始めていることに、イリアスはまだ気付いていなかった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
一方のミラベルは、今までとはガラリと変わった日々を過ごしていた。
最初のうちは何をするのも怯えがちで使用人にすら卑屈なほど頭を下げていた彼女だったが、少しずつ貴族らしい振る舞いが戻ってきている。
マーサやクロードとも自然に話ができるようになり、会話の間に笑顔を見せることも増えた。
彼女にとって屋敷での生活は、満ち足りたものだった。
ここでは理不尽な暴力に晒されることはなく、彼女の尊厳を踏みにじる者も居ない。厳しいが温かな指導により、淑女教育も順調に進んでいる。
もともと勉強自体は好きだったのだ。今までの遅れを取り戻すかのように、ミラベルは貪欲に知識を吸収していく。
今日もまた、ミラベルは家庭教師が帰った後も一人で書物に没頭していた。その集中力は、マーサが声を掛けるまで、お茶が入ったことにすら気付かないほどだ。
本から顔を上げ、きょとんとした表情を見せるミラベルにマーサが苦笑する。
「夢中になるのは良いことですけどね……まだ体力も回復していないんです。あまり無理をなさらないでくださいな」
「ありがとう、マーサ。でも私、新しいことを知ることができるのが本当に嬉しくって……この環境に、心から感謝しているの。――だから、イリアス様のご恩に報いるためにも頑張らせて?」
キラキラした笑顔でそう告げるミラベル。その表情にはイリアスに対する男女としての好意はないものの、感謝と尊敬の念が溢れている。
(うーん、旦那様に好意的なのは良いけれど、ここまで恋愛感情がゼロっていうのはどうなのかしら……契約結婚なんて話を口にしていたけれど、できれば旦那様には幸せになって欲しいのよねぇ。
でもお互いにそのつもりがないんじゃ、難しいかしら……)
マーサとしては、複雑な心境だ。
「おっと、ご歓談の邪魔をしてしまいましたかな」
「クロード?いえ、大丈夫よ」
会話の途中で入室したクロードに、ミラベルは貴族らしく鷹揚に頷いてみせる。
マーサと共に当初から何かとミラベルを気にかけている老執事は、にこやかに彼女へと歩み寄った。
「旦那様が、ミラベル様のお心遣いに気付かれましたよ」
「ようやく?まったく、旦那様ったら鈍すぎるわ!」
マーサが憤りの声をあげるなか、ミラベルは不安げな表情で身体を固くした。
「それで……イリアス様の反応は……」
クロードは彼女を安心させるように、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「喜んでいらっしゃいましたよ。お夜食の件も、出席されると」
「あ……ありがとうございます……!」
緊張の一瞬からの安堵。思わず、言葉遣いが当初のものに戻ってしまう。
使用人にへりくだるな、弱気な態度で隙を見せるな、というのは、家庭教師からも口を酸っぱくして言われていたことだ。
慌てて、嬉しいわ、と取り繕うように口にした。
「良かったですねぇ、ミラベル様。最近の旦那様は、明らかに顔色が良くなりましたもの。間違いなくミラベル様のおかげですわ」
「本当に。あとは少しでも夜食をとっていただければ、私どもとしても安心なんですが……」
使用人二人が、揃ってため息をつく。
――忠実な彼らは、以前から何よりも主人の健康問題に頭を悩ませていた。
いくら諌めても、仕事が舞い込んでくれば自身のことは二の次でのめり込んでしまうのが、主人の性格だ。命を削って仕事をしているといっても良い。
その当然の結果としてどんどん顔色が悪くなっていくイリアスに心を痛めていた彼らにとっては、主人の不眠解消はまさに福音であった。
ミラベルへの協力も俄然、力が入るというものだろう。
このままミラベルに女主人としてイリアスの健康管理をお任せしたいと、彼らは掛け値なく本気でそう期待を抱く。
「それじゃ料理人にも協力してもらって、準備をお願い」
「はい、お任せください」
使用人の差配を済ませてから、ミラベルは読みかけだった貴族年鑑を再び開く。各貴族の成り立ちや関係性など、知っておくべきことはしっかりと頭に叩き込まなければならない。
今日はこれをキリの良いところまで読んだら、刺繍の続きに取り掛かろう。今日中に完成させたい。その後は――……
元来じっとしているのが落ち着かない性分のミラベル。
せっかく「教育は身体の負担にならないようにゆっくりと」と配慮されているにもかかわらず、当の本人はせっせと自身に課したタスクを一日の中に詰め込んでいた。
――いかに楽しくても、やる気があっても。
疲労とはそれに関わらず身体に溜まっていくものだ。
ミラベルもイリアスも、その点を軽視しがちなところは非常に似通っている。
もともと丈夫とは言いがたいミラベルの身体は、本人は気づかずともじわりじわりと疲労に蝕まれていた……