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――翌日。
「よぅ、イリアス。とうとう婚約者が決まったんだって?」
頭上から掛けられた、軽い調子の声。
無視できぬその声に、イリアスは軽い溜め息をつきながら、書類から目を上げた。
「……師団長。耳が早いですね」
「可愛い部下の動向は、しっかりと把握しておかないとなぁ?……水臭いじゃないか、俺に何の相談もなしに」
そう言って、ニィッと朗らかに笑う男。
乱雑に伸びた黒い髪の下から煌めく明るい緑色の瞳が煌めく。鍛えられた太い腕が、イリアスの肩を遠慮なく叩く。
――野生的で、一見粗野に見えるこの男。しかし彼こそが現国王の腹違いの弟であり、魔術師団を取りまとめる師団長を務める男、ヴィンセントであった。
国王の覚えもめでたく、実力もあるこの男。
そろそろ一介の師団長から国の中枢を担う立場に取り立てられるのではないか、というのが目下の評判であり……、その噂の余波としてイリアスも次期魔術師団長と目されている。
因みにヴィンセントは野生的で軽薄な印象とは裏腹に、愛妻家で仕事よりも家族優先であることを公言して憚らない、家族愛に溢れた人物でもある。
「どうだ、婚約者と一つ屋根の下で暮らす生活は……?普段しかめ面ばかりのお前も、日常が華やぐことだろう!」
愛妻家である彼は、イリアスの今の状況を幸福の絶頂であると信じきっている。
「……そうですね、」
早く仕事に戻りたい彼は、敢えてそこを否定する必要もないため、適当に頷いておいた。
しかし、早く仕事に戻らせてくれという彼の内心の叫びはヴィンセントには全く届かない。
机上に積み上がる書類を押し除けスペースを作ると、彼はイリアスの仕事机にどっかりと腰を下ろす。
「しっかし、バーネット侯爵家ねぇ……昔は爵位格下げなんて話もあったのに、あそこも随分持ち直したもんだ」
「へぇ、そんなことが?」
これは気が済むまで相手をしないと話が終わらないな、と気が付いたイリアスは書類を脇に置く。
「そうか、お前くらいの年代になるともう知らないのか、」
意外そうに目を丸くしたヴィンセントは、書類を手で弄びながら言葉を続ける。
「あそこは代を追うごとに貢献魔力量が縮小していてなぁ……侯爵家相応の貢献量が負担になっているのなら爵位格下げをしてはどうだ、という話も出てたんだ。
ところが、そんな中で現当主であるエセルバート侯爵が魔力量の底上げに成功してな。それで格下げの話も立ち消えになったんだが……」
「魔力量の底上げ、ですか……」
本来、個人の保有する魔力の量というのは生まれ持ったもので、そうそう変わることはない。正確に言えば事例としては存在するのだが、そうなった原因が解明されていないのだ。
魔術の研究を司る身としては、一体どんな手段を用いたのか気になるところではある。
「ところがその後、期待していた娘は無能だっただろう?当時口さがない連中は、娘の魔力を取り込んだんじゃないか、とまで言ったもんだよ。奴が魔力量を増やしたのも、ちょうど侯爵の嫁さんが娘を身籠ってた時期だしな」
ま、本当にそんな方法があるなら教えて欲しいもんだがね、とヴィンセントは締め括った。
少しでも魔術に携わる者であれば、すぐに嘘だとわかる与太話だ。それなのにそんな噂が囁かれたのは、二つの事実のタイミングの悪さゆえか。
そこまで言って、さて、とヴィンセントは勢いよく立ち上がった。
その手にあるのは、先ほどまでイリアスが取り組んでいた企画資料。
「封印魔術の回路効率化か……これで、どの程度魔力消費が減る?」
「まだ、コンマ3パーセントってところですね……コンマ5くらいまでは見通しが立つんですが」
「コンマ5パーセントかぁ……」
厳しいな、とつまらなさそうに書類をヒラヒラさせるヴィンセント。その顔は、いつの間にか雑談に興じるオッサンから有能な上司のものへと転じている。
「稀代の天才魔術師の頭脳をもってしても、効率化できるのはその程度か……」
「現状を打破できる何かしらのブレイクスルーがないと……厳しいですねぇ……」
首を振って、現状を率直に報告する。
重苦しい沈黙を、二人のため息が埋めた。
――貴族には、国のために魔力を提供しなければならない義務がある。
貴族の魔力を必要とする国家魔術は三つ。
すなわち、他国の侵略から国を守る防衛魔術。
実りある豊かな土地を作る繁栄魔術。
そして……、災厄の眠りを保つ封印魔術。
城の地下には災厄の竜が眠っている……、というこの国の伝説を、お伽噺だと笑う貴族は一人も居ない。
何故なら、地下には実際に竜が封じられているからだ。貴族なら、誰でも一度はその封じられた姿を目にしたことがあることだろう。
国王の祖先である勇者が屠ったとされている災厄の竜。
この国の安寧のためにはこの災厄の復活を防ぐことが必要不可欠であり、今でも貴族の第一の責務とされている。
三大国家魔術の中でも、封印魔術は何よりも優先されるもの。これが破られることがあったら、この国は滅亡してしまう。
……とはいうものの、封印魔術はあくまで国の保全機能でしかない。魔力消費が大きい割に、得られる効果はただの現状維持である。
そしてどういう訳か、貴族の魔力保有量は建国時代から時を経るごとに徐々に衰退してきている。このままでは、封印魔術のための魔術消費がどんどん負担になっていくのは自明のことであった。
この状況を打破すべく、イリアスはその封印魔術の改良に取り組んでいるのだが……、進捗はあまり芳しいものではなかった。
「どうせだったら、定期的な魔力供給が必要なくなるくらいの強固な封印魔術をガツンと一発、編み出してもらえれば一番良いんだが……」
「無茶言わないでくださいよ、師団長。始祖の時代の強力な魔術師たちでさえ、この封印でやっとだったんですから……」
上司のあまりの無茶振りに、イリアスは苦笑いで応える。
古代より伝わる封印術式は、その構造の大半が長らく謎に包まれていた。
それを読み解くという前人未到の偉業を成し遂げたのが、何を隠そう、このイリアスである。『稀代の天才魔術師』というヴィンセントの呼称は、大袈裟ではないのだ。
その彼の功績により、やっと術式の改良という段階まで来たのだ。ヴィンセントの言う要求がどれだけ無茶苦茶かは推して知るべしだろう。
思わず眉を寄せたイリアス。その反応を見たヴィンセントは、悪びれずに丸めた書類でその眉間を突いた。
「まっ、大したもんだよお前さんは……。効率化の方も期待してるぞ?」
「そうですね……この構造は当時の膨大な魔力量にモノを言わせたカタチですから、効率化の余地はまだあると思います」
「たとえばだが、ここをこうした場合だと――」
たっぷり一時間は討論を続けた後、ヴィンセントは「じゃ、よろしく頼むよ、」とその場を去って行った。
ほぅ、とイリアスは息を吐く。
やはりあの上司は一見チャランポランには見えるものの、有能だ。今の話で、新しい指針を思いついた。
……さっそく、試してみなければ。
――今夜も、遅くまで家には帰れなさそうだった。