3
――そうしてご飯を終えて。
「ふぅ……美味しかった……」
自室で楽な夜着に着替えたミラベルは、くつろいだ姿でごろりとベッドの上で横になった。
記憶を振り返ってみても、今までミラベルはお腹がいっぱいになるまでご飯を口にした覚えが全くない。普段から与えられる食事は残飯ばかりでまともなものがなかったし、それすら取り上げられることが多かった。
そのため知らなかったのだが、どうやら自分は随分と食が細かったらしい。
食べたことがないような美食の数々が供されている中で、彼女の胃袋はあっという間に限界を迎えてしまったのだ。
それでも残すことはしたくないと必死に口に詰め込んだのだが……途中で様子がおかしいと見咎められてしまった結果、皿の上に料理を残して席を立たざるを得なくなってしまった。
料理人には申し訳ないことをしたと、ミラベルは申し訳なさに身を小さくする。
それでも身体の方は本当に限界だったらしい。
はち切れそうなお腹を抱えて寝台に横になれば、あっという間に睡魔が押し寄せてきた。
抵抗する気力もない。
今日一日の緊張も相まって、ミラベルは即座に夢の中へと引き摺り込まれていった……
――同時刻。
イリアスの執務室には、屋敷の主人に加えて二人の人物が彼を訪ねていた。
クロードとマーサである。
示し合わせた訳でもないのに、それぞれの仕事を終えた二人は主人への報告のため、揃って部屋を訪れていた。
「失礼します、旦那様。ミラベル様のことで、お話があるのですが……」
お互いに視線を交わした後、クロードが代表して口を開く。
「話を聞こう」
「察するに、ご実家ではろくな扱いを受けていなかったものと思われます。ここへ来る際の荷物は一切なく、お召し物も使用人ですらマシに見えるようなものを身につけていらっしゃいました」
マーサが、続きを引き取る。
「日常的な暴力にも晒されていたようです。入浴のお手伝いをしましたが、身体のあちこちに様々な傷跡が残されていました。新しいものから、古いものまで……。
栄養状態も悪く、身体の成長が十分にできていないようです。また、折れた骨をそのままにしておいたのか、肋骨が歪んでいる箇所もありました」
「……そうか。それで?」
痛ましそうな表情で報告する使用人とは異なり、平然とイリアスは続きを促す。
仮にも婚約者だというのに彼女を心配することのない主人の態度に、クロードは一瞬言葉を詰まらせる。
「そ、そうですね……まずは体力が著しく不足しているようですので、体調が良くなるまでしばらくは体力の回復をまず第一に考えていきたいと思っております。
淑女教育のカリキュラムはゆっくりしたものになるかと」
「まぁ結婚式の際はハリボテの妻でも構わない。できる範囲で取り繕えるようにしておけ」
「畏まりました。それと、ミラベル様のお身体ですが……傷跡や骨の歪みを治すために、一度治癒魔術を施した方がよろしいかと。旦那様のご予定を調整させて頂いても、よろしいでしょうか」
「どうして僕が?医術師を呼べば済む話だろう」
今度こそ執事は、愕然とした表情を主人に向けた。
その咎めるような視線に苛立ちを覚えて「何か問題でも?」と返すが、優秀な執事はただ首を振るだけだ。
「……いえ。ただ、せっかく旦那様に治癒系統の適性がありますので、魔力を流し込む役目は旦那様にお任せした方がよろしいかと……」
治癒魔法は、患者に自身の魔力を与えることで発現する。
魔力というのは、その人を構成する重要な要素だ。それゆえに他者の魔力を注ぐという行為は、特別なものとして受け止められることが多い。
そのため治療の一環であろうと、夫以外の魔力を受け入れるのは不貞も同然だ、という考え方が貴族の中では罷り通っているのだが……
くだらない、とイリアスは切り捨てる。
「そもそも僕は治癒魔術はあまり得意じゃない。……疲れるんだ。
僕は気にしないから、そちらで適当な医術師を見繕っておいてくれ。……話は、それだけか?」
冷淡にそう返せば、優秀な使用人たちは主人の意を汲んで静かに下がろうとする。
そこでふと一言、イリアスの口をついて出たのはただの気まぐれに過ぎなかった。
「彼女のことを……どう、思った?」
クロードが柔らかく笑む。その一言を、彼なりの歩み寄りと受け取ったらしい。
「そうですね……善良な、良いお嬢さんだと思いますよ。旦那様も頑なにならず気持ちを持たれた方がよろしいかと」
「ええ、きっとあの方は磨けば光る御仁ですよ?これからの成長が楽しみです」
マーサがクロードの言葉を引き取って、にっこりと頷く。
――少なくとも彼女は、屋敷の使用人の気持ちを勝ち取ることには成功しているようだ。
イリアスはそっと息をつく。
「そうか。屋敷のことは引き続きお前たちに任せる。また何かあれば報告を頼んだ」
使用人が下がる。
一人きりとなった書斎で、イリアスはぐったりと背もたれに身体を預けた。
最近は仕事が立て込んでいて、ゆっくり休む時間もない。仕事以外のことで、心を煩わせることは避けたかった。
婚約者のことは二人に一任しておけば大丈夫だろう、と眉間の皺をほぐす。
(妙な女だったな、)
ミラベルのことを思い返して、彼は軽く嘆息した。
彼がミラベルに求婚したのは、純粋な打算でしかない。
単純に既婚という立場が手に入れられるというメリットはもちろんのこと、侯爵家のお荷物を引き受けたことによる新しいコネクションの獲得、そして……これは人の好い使用人たちには言えないが……周囲から軽んじられてきた令嬢であれば、我が儘も言わず御し易いお飾りとなってくれるだろうという胸算用があった。
(そういう意味では……彼女は予想通りの人間ではある)
自分に自信がなく、他人の顔色を窺いがちなオドオドとした性格。
それは、彼女の境遇を考えれば当然の姿とも言えた。
――意外だったのは。
(思っていたよりも、彼女は頭が良い)
契約結婚を口にした時、彼はミラベルが失望するか怒りを抱くものだとばかり思っていた。
しかし実際のところ彼女はその言葉に眉一つ動かさず、ごく自然な提案としてその言葉に頷いたのだ。まるで、彼の言葉を予想していたかのように。
さらに自身の置かれていた境遇についても、しっかりとした自身の考えを持っていた。
驚くべきことに、彼女が冷遇される環境を甘受していたのは、ただの諦めではなかった。貴族という立場を俯瞰的に捉え、あるべき姿と善悪を冷静に判断していたのだから。
自分を悲劇のヒロインと酔いしれるでもなく、心を壊して人形になるでもなく。
彼女は周囲を見ながら、冷静に今まで立ち回ってきたのだ。
そして、今もなお。
彼女は侯爵家の長女として、生家が悪く言われることのないよう言葉の選択にも慎重を期していた。
(『父は理知的な方で、親子の情よりも職務を優先する』、ねぇ……虐待に遭っていた娘にしては随分と配慮の行き届いた表現だ)
そういった言葉の一つ一つからも、彼女が頭の回る女性だということを感じさせられる。
そうして考えると、流行とオシャレのことしか関心のないカラッポの令嬢を娶るよりも、よっぽど良い結婚ができそうだ。
そんな結論にたどり着いたイリアス。結局彼は結婚相手のことを、「適切な仕事をしてくれるか」という観点でしか見ていない。
――伴侶が自分の今後の生き方に影響を及ぼすことなど、予想だにしていなかった。