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――翌日。
婚約の話をされて昨日の今日だというのに、さっそく先方から迎えの馬車が来た。
おそらく婚約の話自体はもっと前から決まっていたのだろう。ミラベルはうっすらと察する。逃げ出さないように、当の本人にだけ伏せられていたということか。
大人しく馬車に乗り込んで、半日あまり。
ようやく目的地に着いたらしく、馬車が静かに止まった。上等なスプリングを使っているのか、衝撃はほとんどない。
「お待ちしておりました、ミラベル様」
馬車から降りると、銀髪の執事が迅速かつ丁重にミラベルを出迎える。
「あっ……よろしくお願いします……」
本来なら使用人に頭を下げてはいけないのだが、今までの癖が抜けずにミラベルは思わず頭を下げた。
「執事頭のクロードと申します。お荷物、お運びしましょう」
「あっ、すみませんっ、何も持って来てないんです……」
「なるほど、荷物はお送りで?」
「いえ……そうではなく……」
何も持たずに来たのだ、と言うのが躊躇われてミラベルは言葉を濁す。
一瞬不思議そうに目を細めたクロードだが、すぐにその表情を打ち消してにこやかに頷いた。
「既製品で恐縮ですが、ミラベル様のお部屋に衣装を用意してございます。近いうちにお身体にぴったり合うようオーダーの手配もしておきましょう。こちらの準備が無駄に終わらなくて、ようございました。
さあ、長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋でお休みください」
「あ、ありがとうございます……」
荷物も持たずみすぼらしい形で屋敷を訪れたため、門前払いを食らってもおかしくはなかった。実際、迎えの馬車では乗るのを拒まれそうになってたくらいだ。
クロードの優しい反応に、ミラベルは救われた気持ちになる。
――少なくとも直接的な悪意が向けられている訳ではない。
それだけでも、安堵の想いが込み上げる。
ボロボロのいでたちに肩身の狭い思いをしながらも、素直に彼女は部屋へと向かった。
案内された部屋へと入る。思わず、ふぅ、と息をついた。
用意された部屋は客間としては広いくらいで、派手な装飾こそないが落ち着いた内装だ。客が過ごしやすいような配慮が、随所に感じられる。
ふと部屋の隅に目をやれば、大きな衣装棚が目に入った。
(着替えを用意してくれてあるって言っていた、)
クロードの言葉を思い出して、ミラベルは何気なく扉へと手を伸ばす。
「わぁ……!こんなに服がたくさん……!」
――思わず感嘆の声が洩れた。
扉を開けた途端、目の前でチカチカと色の洪水が渦巻く。
その圧倒的な鮮やかさに、溺れそうな錯覚すら覚えた。
美しい衣装の数々。
ついつい手を伸ばしかけて、びくりと立ち止まる。
(駄目、こんな汚れた姿でドレスなんて触っちゃ)
こんな素敵なドレスに相応しいのは、相応の貴族だけだ。間違ってもそれは、自分ではない。
目を奪われる絢爛なそれから、無理やり視線を引き剥がす。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ど、どうぞ!」
裏返った声で返事をすると、侍女が静かに入室する。背筋の伸びた、立ち居振る舞いに気品が満ちた女性だった。
「ミラベル様のお世話をさせていただきます、マーサと申します。お湯浴みの準備が整いました。旦那様は20時頃戻られますので、それまでに身支度ができるようお手伝いさせていただきます」
「あ、はい、お願いします……!」
そうして、しばらくして。
――なんだか夢を見ているようだ。
湯船で身体を温めながら、ミラベルは改めてそう思った。ぶくぶくと湯の中に沈みつつ、手足を思い切り伸ばす。
促されるままに湯浴みへと向かった彼女を待っていたのは、花のような芳しく温かなお風呂と、心地よいマッサージだった。
てきぱきと手際良く、押し付けがましくない程度に強引にマーサは身支度を整えていく。
温かなお湯が何度も優しく身体を流れ、垢と疲れが取り除かれていくうちに、いつしか自分もこの湯に溶けて流れていってしまうのではないかと、蕩けた意識がつまらぬ夢想を呼び起こす。
「トレヴァー男爵ってどんな方でいらっしゃるの?」
この上ない心地良さにその身を委ねながら、ミラベルは何気なく尋ねた。
最初の緊張はすっかり解され、マーサへの質問もだいぶ気負わなくなってきている。
「そうですね。世間では冷徹と噂されているようですが、旦那様はとても立派な方でいらっしゃいますよ。公明正大で、身分にとらわれず本質を見て判断ができる方です。ですから、私ども使用人も皆、旦那様を信頼しております。
ただ、人嫌いで屋敷に最小限人数しか人を置かないので屋敷の中が目まぐるしいほど忙しいことと、仕事にのめり込む性質でたびたび体調を崩されるのが玉に瑕……といったところでしょうか……」
「ふぅん……」
ぶくぶくともう一度湯船に沈む。
いざ対面の時間が近づくと、どんどん緊張が増してきた。
これだけの歓待を受けると、相手が少なからず自分に期待していることを感じさせられる。
そんな中でノコノコ現れた自分に、相手は失望しないだろうか。追い返されるのではないだろうか。
風呂を上がってからもその不安は振り払えぬまま、時間だけが過ぎていく。
マーサに身を任せているうちに、いつしか化粧もドレスの着付けも終わっていた。
触るのも躊躇われた先程のドレスに袖を通している自分を、信じられない気持ちで見やる。
「これで一通りのお支度、ととのいました。何か気になる点はございませんか?」
大きな姿見の前に立たされる。
「これが……私……」
感嘆の声が、思わず口をついて出た。
昨日水に映した自分とは、まるで異なるその姿。
長袖の華奢なドレスは首元まで繊細なレースで縁取られており、妖精のような愛らしさと高貴な佇まいを演出している。
薔薇のような香りの整髪料をたっぷりと含ませた髪は艶やかな光沢を取り戻し、ハーフアップにまとめられた髪にはシルバーのティアラがキラリと光る。
落ち窪んだ瞳も痩せこけた頬も施されたメイクで綺麗に隠され、化粧の効果で醸し出しているのは深窓の令嬢のような儚い美しさ。
「まるで詐欺ね……」
「お気に召しませんでしたか?」
マーサの言葉に慌てて首を振る。
「そうじゃないわ!ただ、あまりに本来の姿からかけ離れているから……」
「元の素材が良いからですよ。私どももお化粧していて楽しかったです。綺麗ですから、どうぞ胸を張ってくださいな」
言われて改めて鏡を見る。
外見だけはそれなりに整えられた自分が、おどおどと此方を見つめ返す。
見た目がいくら変わっても、そこだけは変わることのできない昏い眼差し。
素材が良いと言われて一瞬浮きたった心が、すっと冷めていくのを感じる。
そっと肩に手を置かれた。
「そろそろ旦那様が戻られるお時間です。食堂まで参りましょう」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――しかし。
そうして席につくこと、数時間。
待ち人のトレヴァー男爵は、いまだに来ていなかった。
ちらりと暖炉の上の置き時計を盗み見る。
時刻はすでに午後十時を回った。約束の刻限からは、もう二時間も過ぎている。
「申し訳ありません、ミラベル様。旦那様に今日の予定はお伝えしているのですが……」
クロードが冷や汗を額に浮かべながら何度目かの謝罪を口にする。
「いえ……」
ミラベルはぴんと背筋を伸ばして椅子に座ったまま、ゆっくりと首を振った。
食堂の席についた時から、その姿勢は一切崩れることがない。
気の毒そうな表情でクロードから先の食事を勧められたが、それを辞退して彼女はひたすら張り詰めた姿勢で男爵を待ち続けている。
待つこと自体は苦ではなかった。
立たされたまま半日以上罵詈雑言を浴びせられた実家での経験を思えば、椅子に座っての人待ちなど造作もない。
多少の空腹はあったものの、その程度であればいくらでも耐えられた。
――そうしてさらに時間が経過して。
お待ちかねのトレヴァー男爵がようやく帰宅したのは、時刻がもう午後十一時になろうかとする頃だった。
玄関でクロードが主人に苦言を呈する声が聞こえるが、ミラベルは敢えて聞こえないふりをする。自分が蔑ろにされているという事実を突きつけられるのは、わかっていてもあまり気分の良いものではない。
「君がバーネット嬢か」
やがて、静かな声が頭上から降ってきた。慌ててミラベルは立ち上がる。
久しく使っていなかった淑女の礼をとり、挨拶を口にした。
「はじめまして。ミラベル・バーネットと申します」
「ああ、イリアス・トレヴァーだ」
襟元を緩めながら無愛想に一言名前を名乗ると、トレヴァー男爵はミラベルを値踏みするかのようにじろじろと睨め付ける。
当惑しながらも、ミラベルはその不躾な視線を受け止めつつそんなトレヴァー男爵を見返した。
随分と不機嫌そうな男性だ。険のある視線に射すくめられ、ミラベルは思わず身を縮める。
長身痩躯の肉体。手足は長く上背は随分とあるが、身体が細いためか圧迫感はあまりない。
燭台の光が、男性にしては長い束ねた銀の髪を煌めかせる。月の光を蓄えたような、神秘的な髪の色。
切れ長の菫色の瞳の眼光は鋭く、人を近寄らせないオーラを放つ。
すっと通った鼻梁と眉は整ってはいるが、眉間には深い皺が刻まれている。
疲れの所為か蒼白い、細面で神経質そうな顔。
年齢は二十八歳と聞いているが、疲労の色濃く出た表情は、彼をひと回り老けて見せていた。
せっかく綺麗な顔をしているのに勿体ない、と失礼な感想を抱いたところで、トレヴァー男爵がようやく口を開いた。
「あらかじめ伝えておこうと思うが……今回婚約の申込みをさせてもらったのは、君が一番都合が良かったからだ。それ以上の意味は特にないと知っておいてもらいたい」
「はい、弁えております」
初っ端からミラベルを拒絶するような言葉。
執事のクロードが主人を制する言葉を上げようと口を開くが、元より覚悟していたミラベルは平然とそれに頷いた。飾らない率直な彼のその言葉には、むしろ好ましさすら覚える。
「しばらく結婚する気はなかったんだが、父母が相次いで亡くなったために早く当主として後継者を作るように周囲がうるさくなってしまってね。
つまり……この結婚は仕事のようなものだと考えて欲しい。僕の妻として、振る舞う仕事。要は、契約結婚だ。その代わり義務をしっかり果たしてくれれば、うるさいことは言わない。……どうだろうか」
唖然とする使用人を尻目に、トレヴァー男爵は平然とそんな言葉を吐く。
凍りついた空気の中、ミラベルは静かに頷いた。
「願ってもない話ですが……私は無能です。本当に、よろしいのでしょうか」
――『無能』。彼女は、魔術の素質を一切持たなかった。
貴族というものは、本来魔術を使えるものだ。彼女の存在は、貴族社会において間違いなく異端だった。
「それについては聞き及んでいるが、心配ない。まぁ子供まで無能だった場合は愛妾も考えるが……、そこだけはあらかじめ覚悟しておいてくれ」
「当然のことと思います。構いません」
一通りの説明を終え、トレヴァー男爵は言葉を切る。
二人の間に、沈黙が訪れた。
頃合いを見計らって、ミラベルは言葉を切り出す。
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「ああ、確認事項があるなら何なりと」
「その……今回の婚姻は、我がバーネット家との橋渡しの意味合いもあるものと存じますが……父は理知的な方で、親子の情よりも職務を優先するかと思います。あまり私はお役には立てないかと……」
「それこそ杞憂だ。別にこの婚姻で侯爵家の優遇を受けようと思っている訳ではない」
淡々とそう返してから、トレヴァー男爵は真っ直ぐにミラベルを見据えた。
「君の父上は、随分と厳しい人のようだと聞いている」
「……!」
それが実家での暴力を含めた冷遇のことを指していると察したミラベルは一瞬息を呑んだが、すぐに微笑みを浮かべた。
「父の態度は、当然ですわ」
「当然?」
「ええ。貴族が貴族である所以は、魔術を使って国家の安定に貢献をするからこそ。……無能である私が、何の役にも立たないのに領民の血税を使って贅沢をするなんて許されませんもの。
厳しい態度はありましたが、この国の有り様を保つためには仕方ありません」
「……そうか、」
どうやらトレヴァー男爵は無口な方らしい。
ミラベルの言葉を驚いたように言葉少なに受け止めると、またしてもしばらく黙り込んでしまう。
そして、ぽつりと呟いた。
「君は、立派な教育を受けたようだな」
「六歳までですけどね。侯爵家の長女として、一通りは」
水見式で無能が判定されてからは、その教育も止められてしまった。
ふむ、とトレヴァー男爵は顎を撫でて考える。
「淑女教育も必要だな。家庭教師を付けよう。半年後の結婚式で、外面だけでもそれなりに振る舞えるように」
「ありがとうございます、トレヴァー様」
「ああ。それから、一応は婚約者という間柄だ。僕のことはイリアスと呼んでくれ」
話を切り上げるように、トレヴァー男爵……改めイリアスは椅子から立ち上がる。
執事のクロードが慌てて声を掛けた。
「旦那様、食事はどうされますか」
「今日も要らん。僕は自室へ引き上げる。……ああそうだ、」
振り返った男爵の、菫色の瞳がミラベルと合う。
「君も、わざわざ僕を待つ必要はない。明日から一人で食べ始めていてくれ」
その言葉を最後に、イリアスは踵を返してその場を後にする。
バタン、と扉が閉まった。
足音が遠ざかっていくのを確認し、思わず肩で大きな息を吐いた。
トレヴァー男爵……いや、イリアス様は、噂通りの合理的な方のようだ。
テキパキとどんどん話を進めていってしまうため、それに合わせるのに随分と気を使った。
対話が無事に終わったことで、安堵のため息が出てしまうのも無理はない。
それでも……周囲の人間がどう受け止めたかはわからないが、彼が提示した話は随分と魅力的だった。
互いに割り切った関係で成立する、契約結婚。
元より幸せな結婚など諦めていたミラベルにとっては、願ってもない話だ。
冷血な人間という噂を聞いてきたが、ドライで合理的、と評した方が近いのではないか。
「ミラベル様……食事の準備を始めさせて頂いてもよろしいでしょうか」
恐る恐るクロードが声を掛ける。
「はい、お願いします」
主が不在の中、淡々と夕餉の支度がととのえられていく。
ちらりとクロードが気遣わしげにミラベルの表情を見た。
「どうぞ、あまり気落ちなさらず。旦那様はどうしても女性に対して冷たくなってしまうようで……」
「いえ、大丈夫です。イリアス様が仰っていることもご尤もですので」
笑顔でそう答えてから、ふと気になっていることを尋ねてみる。
「その、彼は普段、あまり夕飯を召し上がらないので……?」
クロードが困ったように首を振った。
「仕事が立て込んでお帰りが遅くなる際は、大体そうですね。深夜になると食欲が無くなってしまうそうでして……朝ご飯はしっかりと召し上がっているのですが、この分だとお仕事中のお昼はどうされているのか心配でなりません。近頃、随分とお痩せになりましたし」
「それは心配ですねぇ……」
確かに顔色も悪かった、と思いながら相槌を打つ。
――割り切った関係とはいえ、夫となる相手のことは心配になる。何か自分にできることはないだろうか。
そんなことを考えながら、ミラベルは静かに食事を口にしていた。