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「お久しぶりで……」
挨拶を述べようとする実の娘を、エセルバートは容赦なく突き飛ばす。
いとも簡単にミラベルの身体は吹っ飛び、そして壁に叩きつけられた。
「無能の分際で国王叙勲とは……、単なる婚約者の立場で勝ち馬に乗ったと自惚れたか?この愚か者め、」
こほ、と涙目で咳き込むミラベルを冷たい目で見下ろし、エセルバートは蹲るその身体を無造作に足蹴にする。
――彼は、一つ大きな思い違いをしていた。
確かに叙勲式では、受章者に配偶者が付き添うのが通常の流れだ。しかし、婚約者はその対象にはならないし、そもそもただの同伴者が叙勲式で名前を呼ばれることもない。
しかし自分の娘を無能と信じきっている彼は、それの意味するところに気付くことができない。
ただ、激情が迸るままに、足元のミラベルを罵倒する。
「その上……身の程知らずの機会に恵まれながら、あの場でバーネットの家名を出さないとは!この恩知らずのゴミがっ!」
滾る感情が、火焔魔術となって溢れ出す。彼の激情を表すかのような火焔が、ミラベルの肩の上で爆発する。髪と肌の焦げた匂いが、ぷぅんと鼻をつく。
「申し訳……ありません……」
ミラベルの喉の奥から漏れるのは、呼吸にかき消されてしまうほどか細く震える謝罪の声。
久々に感じる暴力の痛みだけでなく、父親に向き合う恐怖でミラベルの声は弱弱しく途切れてしまう。
――ああ、結局私は何も成長していない。変われたと思ったのは、ただの勘違いだったんだ。
情けない自分の姿に、ミラベルは心底失望する。
イリアス様に出会って、前を向いて、自分に胸を張って歩けるようになったと思ったのに。
今の自分は理不尽な嵐が過ぎ去るのをただ待つだけの、卑屈だった頃の私と何も変わらない。
エセルバートは、もはやミラベルを見てはいなかった。
ここには存在しない彼の全ての敵に対して、彼は気が違ったように呪詛を撒き散らし始める。
「お前の所為で、「爵位降格の筆頭候補はバーネット家」と謂れなき汚名まで着せられる始末……なーにが「最近貴公は魔力貢献量が不足しているそうですね、」だ。あのメ〓ラどもが……!
私にはチカラがある!――見るが良い、この強大な魔力を……!」
エセルバートの言葉に呼応するように、彼の身に纏う火焔は徐々にその温度と強さを増していった。その姿は、まるで火の魔神に転身したかのようだ。
彼の怒りを燃料に、火焔魔術の術式はどんどん規模を拡大していく。
いけない、とミラベルは必死に身を丸く縮める。
エセルバートの勢いは止まることを知らない。
「ああ、そうだ。このチカラだ。戻ってきたんだ、私のチカラが……!」
熱に浮かされたような声。
自身の強さに酔いしれた彼は、ようやく足元の娘のことを思い出す。
「……もう、お前は良い。家名を立てることすらできない出来損ないに用はない。トレヴァーの結婚相手はレイチェルに変更だ。レイチェルなら社交界にも知られている。
今からでもトレヴァー家の婚約者が我が侯爵家であることを周知させねば……!」
さあ来い、とぐいと腕を掴もうとしたエセルバートの手を、ミラベルは反射的に振り払っていた。
思いもよらぬ相手の反抗に、エセルバートの相貌が歪む。自身の行動に、ミラベルの心臓が縮み上がる。
目を合わせる勇気はない。それでも俯いたまま、ミラベルはふらふらと立ち上がる。
「……ぃ……やです、」
「なんだと?」
「お父様のご命令であっても、イリアス様は渡せません。イリアス様と結婚するのは、わた、し、です……!」
「貴様ァ……っ!」
想定すらしていなかった、格下である無能の反抗。
怒りで顔をどす黒くさせ、エセルバート侯爵は拳を振り上げた。
その拳に、灼熱の火焔が巻きつく。これで殴られたら、ひとたまりもないだろう。
思わず目をギュッと瞑る。
頬の産毛がチリチリと、火焔魔術の熱を伝える。
死を眼前にした刹那の永遠。
婚約してからの幸せだった思い出が、走馬灯となってミラベルの脳内を駆け抜ける。
胸を突かれる、数多の彼にまつわる記憶。
終わりを目前にした今になって、気づかないふりをしていた自分の感情が彼の名前を慟哭する。
(イリアス様……!)
――痛みは、なかなか訪れなかった。
むしろ、熱くて堪らなかった肌には、そよそよと心地好い涼しい風が当たり始める。
恐る恐る目を開いた。
「イリアス、様?」
ミラベルの目に映ったのは、眼前に展開された大きな氷の盾。
――そして、ミラベルを庇うようにエセルバートの前に立ちはだかるイリアスの姿だった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「ミラ、無事か……!」
肩で息をつきながら、イリアスは振り返る。
普段焦燥の色を見せたことのない涼しげな彼の瞳は、今、ミラベルを失いかねなかった恐怖と焦りで燃え上がっていた。
切迫した表情のまま、イリアスは前へと向き直る。
氷の刃のように鋭く冷たい視線が、エセルバート侯爵に突き刺さる。
――周囲の気温が、一気に下がった。
「ひぃっ……!」
その迫力に、気圧されたエセルバートが尻餅をつく。
無理もない。彼の全力の火焔は、イリアスの氷の盾に傷ひとつつけることができなかったのだ。実力差は歴然としている。
――止める間もなかった。
つかつかとエセルバートへと歩み寄ったイリアスは、拳を振りかぶり…… そして躊躇なくエセルバートを殴り飛ばした。
どごぉ、と鈍い音が鳴り響き、肥え太った身体が醜く投げ出される。
容赦ない一撃。
全霊を籠めた一撃を振るっておきながら、イリアスの目には何の光も浮かんでいない。ただ冷めた瞳で、無様に吹っ飛んだエセルバートを見下ろす。
一方のエセルバートは、鼻血と涙で顔面をぐしゃぐしゃにしながら這いつくばってその場を逃れようとする。
……腰の引けたその姿に、先ほどまでの傲慢さは全くない。
――私は、こんな男を絶対的正義だと信じていたのか。
ミラベルの心が、すぅっと冷えていくのを感じた。
今まで、父親を疑ったことなどなかった。
どれだけ理不尽な目に遭おうとも、それには何かしらの意味があるのだと信じていた。
そうして自分の中で納得して、呑み込んできた。
父親あっての自分なのだと、その信念が邪魔をしてイリアスやマーサ達がいくら良くしてくれても、一線を引いてしまっていたのに。
そんな狭い世界を信じていたなんて、自分はなんて愚かだったことだろう。
「お前……なんだ、その目は……!」
冷え切った目で自分を見下ろすミラベルが、彼の知っている無能の娘とは思えずエセルバートは思わずたじろぐ。
ミラベルは、何も応えない。
……周囲の空気が、重苦しい無音に埋められる。
そんな雰囲気の中、新しい声が突如割り込んだ。
「おいおい、厳正な夜会で攻撃魔術の気配がすると思えば……どーいうことだ、コレは?」
「ヴィンセント公爵、閣下……⁉︎」
振り返ったエセルバートが驚きの声を上げる。
その声に何も応えず、衛兵を引き連れ現れたヴィンセント。彼はゆったりとした足取りで三人の前まで来ると、この場の空気を支配するように泰然とした仕草で腕を組んだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
沈黙が訪れたのは、ほんの一時。
先に動いたのは、エセルバートだった。
「閣下、お言葉ながら……部下にどういった教育をされているので⁉︎」
最低限の礼は失しない程度の絶妙さで、エセルバートはヴィンセントに食ってかかる。
「この傷を見てください、おたくの部下につけられたものです!娘の指導をしていたところ、突然殴り飛ばされて……!静粛な夜会で暴力行為など、言語道断ですぞ⁉︎」
彼が指差した先には、憮然とした表情のイリアス。
――やられた、とミラベルは内心臍をかんだ。
この状況で傷を負った者が訴えれば、非はたちまちこちらに傾いてしまう。なにしろ相手は目に見える傷を負っており、こちらは傷一つないのだから。
叙勲を受けたその日に暴力沙汰だなんて、とんだ醜聞だ。せっかくのイリアス様の努力が、水泡に帰してしまう。
彼を庇おうとミラベルが口を開きかけたところで、イリアスがそっと制した。
でも、と食い下がろうとするミラベルに、彼はもう一度きっぱり首を振る。
「大丈夫。僕を信じて、」
耳元で囁かれた声。どうしてそんなふうに言えるのか、わからない。
いくら上司と部下の間柄であっても、これだけ騒がれれば揉み消すことは難しいだろうに。
不安な気持ちのまま、ミラベルは言葉を飲み込む。
――状況は、どう見ても厳しい。
衛兵たちが動けずにいるのは、ヴィンセントが彼らを押しとどめているからだ。ひとたび彼が合図をすれば、たちまち彼は捕縛されてしまうことだろう。
彼らの厳しい視線が、すぐにでも動き出しそうな張り詰めた気配が、ミラベルを絶望の昏い淵へと追い立てていく。
「攻撃魔術はそれに対抗するために使った、と?」
「いえ、神聖な建国祭の場で攻撃魔術など……!それもこれも、全てこの男によるものです!」
ふむ、と顎を撫でてからヴィンセントはイリアスへと向き直る。
「イリアス、エセルバート侯に何か言うべきことは?」
「……いえ。後は、法廷が判断することでしょう」
「そうか。……では、連れていけ」