10
華やかな王宮。
様々な色でひしめき合うダンスホール。
さんざめく人の気配。
気を緩めれば、その圧倒的な迫力に俯いてしまいそうになる。それを必死に叱咤し、ミラベルはしっかりと顔を上げた。
――今夜は、建国祭のパーティ。
トレヴァー家に来てから、四月ほどが経った。その間にイリアスに連れられて何度かパーティの経験を積んできたが、今夜はその比ではない。
何しろ年に一度の、しかも一週間に亘る建国祭の最後を飾るフィナーレの日なのだ。この最終日には国王陛下のお言葉をいただけることもあり、国中の貴族が集まって盛大な祝宴が催される。
規模も華やかさも、これまでのものとは段違いだった。
思わず怯んでしまったミラベルを勇気づけるかのように、エスコートする手が優しく彼女を握りしめた。
菫色の瞳が優しく、それでいて熱を帯びた色合いでミラベルを振り返る。
「胸を張って?……大丈夫、この中でも君が一番綺麗だ」
――この人も随分と変わったよなぁ、と他人事のようにその瞳を見上げた。
割り切った関係で居よう、と言い出した当の本人が手のひらを返したように愛を口にするようになったのも驚きだが、変わったのはミラベルに対する姿勢だけではない。
イリアスの仕草や雰囲気は、出会った頃と比べて格段に柔らかくなった。人を威圧するような冷たい態度、感情を無視した効率重視の語調が失われ、良い意味で人間らしさが出てきている。
「あんな素敵な方いたかしら、」「後でダンスを申し込みたいわ……」
通りすがりの貴婦人たちが、チラチラとイリアスに視線を投げかけながら扇を口元に寄せて囁き合うのが耳に入る。これも、もはや珍しいことではなくなっていた。
もともと顔の造作は整っていたイリアスのことだ。
上記の変化に加えて、長いこと人生の相棒として彼の顔に張り付いていた目のクマと眉間のシワがなくなっただけで、周囲の目はあからさまに変わった。
……まぁ当の本人はそんな周囲の評価を一切気にかけることなく、そんな噂の渦中にあってもただ真っ直ぐにミラベルに愛を囁いているのだが。
過労で倒れたのが、三ヶ月前。意識を失っていたその間に、何があったかは知らない。
ただ一つ言えるのは……目が覚めた時にはもう、彼のこの劇的な変化は起きていたということだけだ。
あの時は、本当に状況が呑み込めず面食らったものだ。
目を開けた途端に聞こえた、慟哭のような歓声。何事かと周りを見やると、目に飛び込んできたのは今まで感情表現をろくにしてこなかったイリアスが、安堵のあまり嬉し涙を浮かべる姿であった。
呆然とその姿を見つめるミラベルと、涙を拭ったイリアスの視線がゆっくりと重なる。
そのときのことを、ミラベルは生涯忘れることができないであろう。
ミラベルと目が合った途端、イリアスの張り詰めた表情はふにゃりと緩む。そして、泣きそうな顔のまま彼はしっかりとミラベルの手を握ると、とろけるような微笑みを浮かべた。
――それは今までに見せたことのない、柔らかな愛情の籠った笑み。意識を取り戻したばかりのミラベルが再び目眩を覚えた程の、眩い輝きであった。
彼女が回復したことを歓喜したイリアスは今までの非礼の許しを乞い、それが終わったと思えば次は情熱的にミラベルへの愛を告白した。
それだけでも十分衝撃だったが、さらにその後に彼が告げたのは……彼女の隠された能力についてだった。
正直イリアスの劇的な変化も、その衝撃に比べれば吹き飛んでしまうほどのとんでもない話だった。最初のうちはミラベルも信じることができず、イリアスの正気を疑ってしまった程だ。
しかし、彼と検証を重ねるうちに実績は積み上がっていく。自分では未だ信じられなくとも、それはもはや否定できる状況ではなくなっていった。
――そして、だからこそ今夜。
ミラベルはこの夜会に出席することになったのだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
夜会が始まって一刻半ほど過ぎた頃合になって。
さんざめく参加者たちの声が、潮が引くように静かになっていった。
国王が、現れたのだ。
周囲に倣い、ミラベルもイリアスと共に素早く臣下の礼をとる。
「皆の者、面を上げよ」
初めて聞く国王の声は、威厳に溢れながらも温かみのある声だった。
「今年もまた今宵をこうして迎えられたことを、私も嬉しく思う……」
朗々たる演説が響き渡った。
皆、国王の言葉を聞き漏らすまいと真剣に耳を傾ける。
国王の話は市井の流行から隣国との関係まで多岐に亘るものだったが、相手を全く退屈させず話に引き込むだけの力を持ったものであった。
なるほど優れた為政者とはこういうものなのか、とミラベルは内心で舌を巻く。
「――さて、つまらぬ話はここまでにしておこう。……執政官、」
側で控えていた男が、ビロード張りの台を掲げて国王の横に立つ。
「はい。ではこれより今年の功労者の発表と、叙勲式を始めさせていただきます」
――声にならないざわめきが、静かに広まった。
建国祭では、最後の夜会にて今年最も国に貢献した功労者を労う叙勲式が行われることとなっている。いくつかある勲章の中でも、国王自らの手で行われる建国祭での叙勲は、この国における最大の栄誉と言えるだろう。
その一方で、それは戦争において大きな戦果を挙げた者など、国難を救うほどの成果が主な対象となっているため、平時の際は該当なしで見送られることも多い。
しばらく戦争や飢饉といった国を揺るがす事態も起きておらず、言い換えれば手柄を挙げる機会にも恵まれていない。そんな中で一体誰がこの栄誉を手にしたのか……。
静寂を保ちながらも、周囲の目はお互いを探り始める。固唾を呑んで発表を待つ、張り詰めた空気。
ミラベルの胃も、緊張できりりと痛くなる。
静まり返った会場をぐるりと見回し、国王は再び口を開いた。
「今年の受章者は、封印魔術の改革を担当したイリアス・トレヴァー男爵。そして――その婚約者、ミラベル嬢だ。……両名、前へ」
周囲の視線が一斉にこちらに向いた。
刹那の静寂。
そして鳴り響く、わぁっ、と言う歓声と拍手の爆音。
……立ち尽くしたミラベルに、逃げ場は、ない。
ああ、ついに呼ばれてしまった……覚悟していたというのに、ミラベルは竦み上がった。今にも心臓が爆発してしまいそうだ。
頭が真っ白になる。自分が何をするつもりだったか、思い出せない。嫌な汗が背中を流れる。足が震えて、このまま立っていられそうにない。
「行こう、ミラ」
混乱の真っ只中で立ち尽くしていたミラベルを救ったのは、イリアスの優しい囁き声だった。
顔を上げれば、首を傾げてにっこりとイリアスが手を差し伸べる。
そのすべらかな手を握っただけで、不思議なことにすぅっと緊張の波が引いていった。
――いつからだろう、彼と触れ合うだけでこんなに安心できるようになったのは。
頷いて、彼の横に並ぶ。大丈夫、私はもう前の私ではないのだから。
――そうして落ち着きを取り戻せば、叙勲式はリハーサルで確認した内容と何ら変わりはなかった。……もちろん、リハーサルには無かった大勢の観衆の目、というのが緊張の原因ではあるのだが。
それでも流れに身を任せれば、式は予定通りに粛々と進んでいく。
国王からの言葉をいただき、代表者であるイリアスが勲章を拝領する。
そしてイリアスが一言挨拶を述べれば、予定していた叙勲式はこれで終了となる。
そうして再び夜会の歓談が始まろうとしたところで、おもむろに国王が片手を上げた。
そうして会場の注目を集めてから、国王がもう一度口を開く。
「さて……今回のイリアス殿の功績により、封印魔術の負担はこれから大幅に軽減されることが予想されている。これにより今後、国家魔術は防衛・繁栄のためにより多くの資源を割くことができるようになった。大変喜ばしいことである。彼には次期魔法師団長として、引き続き責任感をもって本件に取り組んでもらいたい」
静かなどよめきが広がる。
国王自らが「次期魔法師団長」と口にしたのであれば、イリアスの将来は約束されたようなものだ。
となると、ヴィンセント現師団長の進退は……?勢力図の趨勢を見極めようと、貴族たちの視線が鋭くなる。
「一方で、残念ながら……」
国王の声が低くなる。ぴりりと、緊張が走る。
「貴族の大切な義務であるはずの魔力の供出を怠っている者達が、一部に存在している。魔力も碌に提供できずに、何が貴族であるか。相応の魔力を納められないのであれば、今までなあなあにされてきた爵位も必要に応じて見直ししていかねばなるまい。各人、貴族としての務めについてしっかりと自覚を持つように」
今までにないほどの厳しい物言いに、貴族たちは呑まれたように沈黙する。
一旦言葉を切ってから、国王は周囲をぐるりと見回す。
「これより、国家魔術の運営は更なる高みへと上がることとなる。諸君もそのつもりで居てほしい。――こうした見通しを鑑みて、将来的に国家魔術統括長に弟、ヴィンセント公爵を任命したいと考えている」
どよめきは、更に大きなものとなった。
久々の国王叙勲、爵位見直しへの言及、新たな組織改変……国王の言葉は、そんな盛り沢山な内容で終わった。
あまりの情報量の多さに、貴族たちも下手な反応はできないと判断したらしい。却ってその後の雰囲気は静かなものとなった。
叙勲式が終わり今夜の主役となったイリアスの元には数多くの貴族が詰め寄せたが、それも一時の喧騒となって過ぎ去っていく。
社交界に一度も顔を出したことのないミラベルを知る者は誰も居ない。そのためイリアスと共に受章者に名を連ねたものの、参加者の目的はイリアスだけで、ミラベルは単なる配偶者としてしか見られていなかった。
それで良い。たとえ好意的なものであっても、注目を浴びるのは恐ろしい。
時間が経つにつれて祝福の挨拶を述べる列もやがて途絶え、ミラベルはそっと息をつく。……なんとか、今夜は乗り切れたようだ。
イリアスも同じ考えだったらしい。ご苦労さま、とミラベルに笑いかける。
「すまない、ちょっと所用で離れるよ。ミラも疲れたなら休憩室に行っておいで?」
ちらりと彼の視線の先を見れば、今夜の話題のもう一つの中心となっていたヴィンセント公爵が、にこやかに彼を手招きしているのが目に入る。
なるほど、そういえばヴィンセント様は彼の直属の上司だったな、と納得した。
「では、私はこれで」
ヴィンセント公に会釈をして、ミラベルはそっとその場を後にする。
体力的に、というよりは精神的に疲弊してしまった。お言葉に甘えて、他人の来ない休憩室で休ませてもらおう。
大広間を後にして、ミラベルは人気のない廊下をコツコツと歩く。
休憩室へと向かう廊下は、打って変わったように静まり返っていた。聞こえるのは反響する自分のヒールの音だけ。
なんとなくうら寂しい想いを覚えながら、ミラベルが休憩室へと入ろうとしたところで。
――突然、何の前触れもなくむんずとその腕を掴まれた。
「ひっ、」
悲鳴をあげる暇もなく、強い力で振り向かされる。
その目に映る、忘れる筈もない、見知った顔。
「しばらく見ないうちに随分と偉くなったものだな、」
「お、お父様……」
――それは、ミラベルを道具のように使い捨てた父親、エセルバート・バーネット侯爵その人であった。