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――今でも、あの頃の夢を見る。
父と、母と、可愛い妹に囲まれて幸せそうに笑む自分の姿を。
もう取り戻すことなんてできない幸福だった時間を。
暖かい春の陽光。
光を浴びて誇らしげに咲き誇る庭園の花たち。
テラスに広げられた、料理人の心づくしのお弁当。
妹を膝に乗せたお母様が、ふわりと私の頭を撫でる。鼻腔をくすぐる、甘くて瑞々しい花の香り。
頭に載せられた花冠を落ちないようにそっと手で支えながら、私は得意げにお父様の顔を仰ぎ見る。
似合っている、と相好を崩すお父様。
空へと消えていく、妹の笑い声。
それは、とっても幸せな家族の時間。
――そして幸せな夢は、いつもそこで途切れる。
景色が暗転する。
次に現れる場面はいつも同じ。
六歳になる貴族の子女が一斉に集められる、「水見の儀」。
私は水盆の前で、呆然と水面に映る自分の顔を眺めている。
その向こうにいるのは、教皇様に向かって怒鳴り散らすお父様。お母様はその傍らで、真っ白な顔をしてただ立ち尽くしている。
ざわつき始める周囲。ひそひそとした囁きと共に、自分に注がれる視線。
その視線が決して好意的なものでないことに、私は既に気が付いている。
気が付けば、この日のために誂えたペパーミントグリーンのふんわりとしたドレスの裾を握り締めていた。
レースと贅沢な刺繍がふんだんに使われた、侯爵家の威信をかけて作られたドレス。
しかし、今この緊迫した空間においてはこのドレスはひどく場違いで浮いて見える。
本当は、今すぐにでもお母様に飛びついて泣いてしまいたい。
でも、「淑女たる者、いかなる時も優雅たれ」というお父様の教えを胸に、私は己を叱咤してその場に踏みとどまる。
何回かのやり取りが交わされ、諦めたように首を振ってお父様がこちらを見た。
お父様、と駆け寄ろうとした私と目が合う。その瞬間、身体が凍りついた。
お父様は、私の知っているお父様ではなくなっていた。
愛情でいっぱいだった優しい瞳は、蔑みと憎悪によって歪められていた。
その対象は……私だ。お父様は、私を憎んでいる。
それに気づいた瞬間、凍りついたように足が動かなくなってしまった。なす術もなく、私は呆然と立ち竦むことしかできない。
そんな私に、彼は決まってこういうのだ。
これ以上ないというほどの憎しみと、嫌悪を込めて。
「この……無能め……一族の恥晒しが……っ!」
――そして、私はようやくこの悪夢から目を醒ます。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「お前の嫁ぎ先が決まった」
バーネット家の当主、エセルバート侯爵の突然の言葉。
夕飯の食器の立てる音が一瞬止まり、そしてまた何事もなかったかのように再び動きだす。
自身の話でありながら、ミラベルは無感動にその言葉を受け止めていた。
バーネット家の長女という身分にも関わらず、彼女は食卓の席につくことが許されていない。侯爵家の長女とは思えぬ粗末な服に身を窶して、彼女は使用人と共に席の後ろに控えている。
自分の娘の話だというのに、その後侯爵は彼女に一瞥もしないでただ黙々と食事を続ける。
「それで、おとーさま。お姉様は何処へ嫁ぐ予定ですの?」
少し甘えた声で、父親の言葉の続きを促す妹のレイチェル。
その言葉は決して姉を想ってのものではないとわかっていたが、ミラベルはありがたくその話の続きを拝聴することとする。
「トレヴァー男爵だ」
「まぁ、あの魔術師団の次期師団長と噂される、あのお方?」
「ああ。……いくら師団が実力主義とはいえ、彼が師団長に昇格するには男爵の地位では箔が足りん。そこで、侯爵家である我が家と繋ぎを作りたいと向こうから打診があってな。
家柄に差があるが、まぁこちらとしても今勢いのあるトレヴァー家を抱き込んでおくのは、悪くない話だ。そういうことで、とんとん拍子に話がまとまったという訳でな」
「でもお父様、よろしいの?」
「ん?何がだい?」
レイチェルの赤い唇が、ニヤリと吊りあがった。こんな時、彼女が口にする言葉は大概が姉を貶めるためのものだ。ミラベルは人知れず身を固くする。
「トレヴァー男爵といえば、魔術の発展のためならば犠牲を惜しまない冷酷無比なお方と、お噂をかねがね。そんな厳しい方のところで、お姉様がやっていけるのかしら?」
「らしいな、」
エセルバート侯爵も唇を歪める。
「だから先方には厳しく躾けてやってくれ、魔術の発展に我が家の無能が貢献できればこれ以上ない誉れだと伝えておいてある。
せっかくだから婚約期間中は花嫁修行に使ってやってくれと提案したら、先方も喜んでくれてな」
「素晴らしいですわ、お父様」
もっともらしく頷いて、レイチェルは忍び笑いを洩らす。
二年ほど前。バーネット侯爵夫人が亡くなってから、このミラベルをダシにした「仲良し親子ごっこ」はどんどん拍車が掛かっていた。
そっと目を伏せて、ミラベルは小さなため息を呑み込む。
「明日、迎えが来る。家を出る支度をしておけ」
一瞬、自分に向けられた言葉だと気付くことができなかった。あまりに急な話に、返事をし損なう。
そんな反応の鈍いミラベルに忌々しそうに舌打ちをすると、侯爵は手にしていたワイングラスを躊躇なく彼女に向かって投げつけた。
ワイングラスは僅かに狙いを逸れ、ミラベルの顔のすぐ脇の壁に当たった。
バリン、とグラスの砕ける音とともに、飲み残しのワインが彼女の身体にかかる。
申し訳ございません、とミラベルは震える声で謝罪を口にし、必死で頭を下げた。
――迅速な謝罪と、卑屈なほどの低姿勢。
これが、父親の折檻を逃れる一番の方法だとミラベルは身をもって知っていた。……それでも虫の居所が良くない時には普通に殴られるのだが。
「スケープゴートとしての才能だけはある」と実の娘に火焔魔術をぶつけながら宣う侯爵には、もはや彼女に手をあげる大義など必要ないのかも知れない。
「無能のお前の所為で、我が家は散々笑い物にされてきた。何度殺してやろうと思ったことか……!これでようやく厄介払いできるかと思うと、せいせいする!」
憎々しげに侯爵は吐き捨てると、人差し指をミラベルに突き付けた。
「良いか、これでもう侯爵家はいっさい、お前とは関わらんからな!トレヴァー男爵とは付き合っていくが、バーネット家がお前に関知することは絶対にない。何があっても、お前に帰る家はないものと思え!」
「……かしこまりました」
ワインの雫が、ぽたりと前髪から滴り落ちて顔を濡らす。それを拭うでもなく俯いたまま、ミラベルは小さく返事をした。
――今の言葉から、侯爵がこの結婚が幸せなものになるとは全く思っていないことが察せられる。
実の父親にそこまで疎まれているという事実は、何年経っても辛いままだ。しかし、彼をそこまで歪めてしまった原因が自分であると常々自覚している彼女は、ただ黙ってその言葉に従うしかない。
「侯爵家の財産を持ち出すことは罷り通らん。明日は身一つで出て行け」
――私が手にできる物なんて、この屋敷に一つもないのに。
内心思いながらも、ミラベルはただ大人しく頭を下げる。
今朝見たばかりの夢が蘇った。
――あの頃みたいに家族が笑ってくれたら、私はどうなっても構わないのに。
自分の所為でその幸福を失ったくせに、そんなことを思ってしまう私は愚かだろうか。
取り止めのない想いを胸に隠して、ミラベルはただ力なく目を閉じた。
どうせ、無能の私に貴族としての価値はない。それならば、せめて婚姻というカタチで役に立てるだけでもありがたい機会なのだろう。そう、自分に言い聞かせる。
――チクリと胸を刺すその痛みには、気づかないふりをした。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
一日の仕事を終えて。
ミラベルは静かに庭園の井戸へと向かった。
使用人の中でも最後にお風呂を使うように命じられている彼女は、嫌がらせで湯を捨てられてしまうことも多い。今日もまたお風呂が使えなかったため、明日のことを考えてせめて身体だけでも拭いておこうと彼女は静かに水を汲む。
幸い、最近は水温もだいぶ高くなってきた。水浴びも、そこまで辛くはない。
そうして何気なく水桶を覗き込んだ彼女は、その水面に映った自分の顔に思わず深い溜め息をついた。
子供の頃は艶やかで妖精のようだと褒めそやされていた赤みがかった金髪。三つ編みにきつく束ねている今は、美しかった髪は見る影もなく痛んでぼさぼさにほつれてしまっている。
落ち窪んだ瞳は、色こそ変わらぬ翠色だが、かつてのエメラルドのような輝きはない。
骨張った身体。歪んだ姿勢。絶えず人の視線を窺う、弱気な表情。
――どこをどうとっても、くたびれた魅力のない女。
(こんな私を嫁にもらうだなんて、)
侯爵家の長女という肩書きさえなければ、決して訪れなかったであろう求婚。
相手がどんな女かも知らずにそんな提案をしたトレヴァー男爵に、同情めいたものを感じてしまう。
(それでも、これはチャンスかもしれない)
一族の役立たずと罵られながらも、彼らはミラベルを決して外へ出そうとはしなかった。恥晒しを世に出すなどとんでもない、というのが彼らの言い分だ。
逃げる場所もなく、日常的な罵倒と暴力に晒されてきた日々。
環境が変われば、それが変わることもあるのだろうか。
(好かれることは到底無理だとしても……疎まれないように、ひっそりと暮らしていけたら)
ちゃぽん、と雫が落ちて、水面が揺れる。
波が鎮まり、再び水面に映されたミラベルの表情は、少しだけ晴れやかな表情をしていた。