Non-Disclosure Agreement
うまいこと制作会社に就職したものの、さして才能には恵まれていなかった私・加藤勝己は3年ほどで離職し、今は美術系専門学校で講師業で収入を得ている。
個人事業主とは名ばかりの無知な私に、役所の提出書類や税務上の手続きなどを懇切丁寧に教えてくれたのが、小説投稿サイト「文筆家になろう」でお知り合いになった、日商簿記1級の資格を持つ於菟瑞花さん。
「授業の前に、金子さん」
「っひ? ……ボクになにか用事が?」
その正体は、この金子深雪という生徒。
このクラスでは地味すぎるほど無個性。
小柄で細身の着たきり雀、ボクッ娘だ。
今日はオレンジ色のネコミミパーカー。
いつも同じ、ただの色違いなんだけど。
「進路指導の続きを少々、よろしいですか?」
「その質問は、生徒のボクに拒否権がないね」
「渡辺さん、ここから……ここまで自習。12の4って安直な名前の共有フォルダ作ってあります。ファイル名に出席番号と名前をつけて保存、提出してください。戻ったら解説しますので」
「らじゃー!ねこにゃんファイトだオーゥ!」
「 「 「 「 「 オォーゥ!! 」 」 」 」 」
「ひゃ! ……やめてくれ、まったく君達は」
「渡辺さん、お静かに」
「にししししっ、了解」
金子さんはリンゴマークのタブレットで顔を隠してついてきた。
リンゴのように耳まで真っ赤だ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
スマホを取り出し電源を入れて時計を表示。
続けてブラウザを開くと画像投稿サイト「みてみて」の画面、金子深雪が前回の自習時間に描いて、私宛に投稿したバナー画像。
それから45時間ほど経過しているが返信はできなかった、どう切り出すべきか悩んでいるうちに「カッちゃん先生?」と、先方から声がかかった。
画面を消して、ポケットにしまう。
「なんですか、金子さん」
「ボクの進路指導は済んだものと思っていたよ。進路指導室で講師のカッちゃんと生徒のボクが2人きりでも不思議はない。でもね?それは授業中ではないよ」
「御心配には及びません。進路指導が終わらなかったと学校側へ伝えておいたし、事実、前回は話を聞いただけで指導らしい指導をしていないから」
「虚偽の報告をしたのか」
「嘘ではないでしょう?」
「感心しないね」
「まったくです」
「そこまでしてボクを就職させたいのか……」
ひどく落胆したらしく、金子さんは溜息混じりに呟いた。
スッポリかぶったネコミミパーカーに、表情の大部分が隠れている。
ただ、小刻みに震える唇だけは見えた。
「では、まずは疑問から」
「……好きにするといい」
「この学校を選んだのはどうして?」
「言っただろう、上達するためだよ」
「去年の私とのやりとり、あれで?」
金子さんはビクリと竦んで細い身体を固くしていたが、右手で少しだけフードを持ち上げてこちらを睨み「後悔するぞ?」と、脅しともとれる言い方をした。
1度だけ深く頷くと、諦めたように下を向いた。
「いまさら隠すほどのことじゃない、もう終わった話だからね。辞書代わりに購入したタブレットに、投稿サイトで名前だけはよく見かけたソフトを入れたんだよ。さっぱり使い方がわからなかった。そのソフトで描いたイラストを参考にしようと探していてね、偶然、目についたのが――」
「稚作ですか」
「丁寧に教えてくれた。お礼のひとつもしておこうと一生懸命描いたのに、出来は散々だったよ。似ても似つかない絵なんて迷惑だろう?描かなかったんだってね、そういうことにしようと考えていた……そこに2通目が」
私からの2通目。
今日のために、昨夜確認してある。
直接画像を投稿できない「文筆家になろう」へ、挿絵を表示する方法は独特で、系列サービス「みてみて」を利用して画像を貼る方法をメッセージした。
私も最初は独特すぎて意味がわからず、四苦八苦した。
てっきり方法がわからないのかと。
「でも、すぐにFAが」
「その1枚すら途中だ、時間がかかりすぎていた。潔く投稿して謝罪したつもりだったのに、感謝と共に自力で解決できなかった部分を描く方法が返信されてきて、サンプルのイラストまで投稿してくれていた。今度こそはボクが納得できるものを贈りたいと何枚も描いた、そのたびに教えてくれただろう?」
「それは、そんな深い意味は……」
「ないだろう、先生にとってはね」
金子さんが、自嘲するように口の端を歪めていく。
冷たい拒絶が、先生という言葉に込められていた。
つい先程まで真っ赤に見え隠れしていた首筋が真白くなり、静脈が透けて見えるほどになっていた。
そこに頬を伝った雫が一粒落ちた。
尾を引いて胸元へ滑り落ちていく。
進路指導室は、静かになってしまった。
「その。 ……なんというか」
「…………」
「金子さんは御存知のとおり私は講師一年生でして。知人から美術系の専門学校で講師の空きがあるからやってみないかと打診され、専門的な教育は受けていないし一度は断ったんですけど。於菟さんとのやりとりがあったから、やらせてほしいと改めて願い出た次第で」
「……ボクとの」
「そうなんです」
「カッちゃんが」
「専門学校の講師になりました」
「なんでそんな」
な ん で ?
改めて考えたことはなかった。
ぅううう~ん。
「そうだなぁ。於菟さんの質問にうまく回答できなくなってきたし、もっと上手に説明しようと思ったら、学校で教えるのが手っ取り早いかなぁと考えてのことで。ここのテキストなら参考になるし、それに経験だって積めるでしょ?」
「ボクのために講師になったのか?!」
「結果的にですが」
「どうかしてるよ」
「そうでしょうか」
「まぁいいだろう」
「いい、なにが?」
「解決したよ」
「解決した?」
「終わった話ではなかった、というわけだ」
グイッと目元を拭ってからネコミミフードを上げた金子さんの表情は、なにかが吹っ切れたのか晴れ晴れしいものだったが、安心したように少しだけ細めた目尻や鼻のまわりは痛々しいほど充血して、赤く腫れあがっていた。
金子さんが反動をつけて「よっ!」と椅子から飛び上がる、プリーツスカートの端が絶妙にギリギリ「見えるか?見えないかーっ!」という境界線を波打ちながらなぞっていったので、着地後思わずスッと目をそらした。
「セキュリティ意識に欠けた拙速に過ぎる前回の行動、なまなかな方法で守秘義務を履行できないたぐいの人間らしい。少々痛い目をみてもらうしかないね」
頭上から降ってくるような厳しい声が、進路指導室に響いた。
「痛い目、ですか」
「ここから先、面と向かって話せそうにないな」
「対面で話せない」
「ボクはひどい赤面症でね、少々失礼するよ?」
「まだお話は途中で……ぇ? え?」
立ち上がってから「失礼する」と言うので、てっきり離席するのかと思ったが、事務机を迂回してペタペタとこちらへ歩いてきたので、もう少し続きがあるのかとホッと胸を撫でおろした。
金子さんは解決したようだが、その内容を私は知らない。
これでは学校側へ本日の進路指導について報告できない。
ギ ギ ィ !
最後の一歩は椅子に座る私の、椅子があった位置だった。
あまりに近くへ来たので咄嗟に横へ避けた。
背中が机にあたる鋭い痛み。
それよりも。
細い肢体がフワリと抱き付いてきた柔らかい感触。
「ちょっと金子さん!」
「於菟だよ」
「於菟……瑞花さん?」
甘い香りに包まれて、動けなくなった。
しなやかに身を寄せる背中が肩越しに見える。
頬にあたる真っ赤に染まった耳が熱い。
それよりも耳に届いた声音は熱を帯びていた。
「生徒に恋したんだってね?」
「は? ……はい」
「それは誰だい?」
「えぇ?金子さん、ですけど」
「きっとその子は、交際を断った覚えはないよ」
「あ! ……はい」
「女性と思って相談した、優しく教えてくれたから憧れたんだよ。なのになんだ?講師のひとりは同一人物としか思えない男、確認の必要があるからカマをかけた。就職希望を聞きたいんだったね? ……カトリーヌ☆カツミ」
「え? ……はい」
「お嫁さんじゃ月並みか?ボクは高い理想像を描いているよ」
「お嫁さんですか」
「君は理想的だ、期待してもいい?」
急いで2度頷くと、緊張がほどけたのだろう。
くたりと細い腕の力を抜いていく。
この45時間は同じ問題について考えていた。
やっと解放されて安堵したということらしい。
同じタイミングで、同じ長さの溜息をついた。
金子さんは顔にかかった長い髪を耳にひっかけながら身をよじって目の前に移動してきて、窓の外を横目で見ながら1つの提案をしてきた。
「ではNDAを結ぼうか」
「NDA、なんですか?」
「Non-Disclosure Agreement。秘密保持契約だよ、カツミさん」
「あ、でも印鑑は教室に――――
矢のような速さだった。
しっとり潤んだ薄く柔らかい感触が唇に触れて、頭の芯から痺れるような感覚が駆けあがってきた。
どれくらいの時間そうしていたのか、感覚は曖昧。
あまりにも近すぎる距離でさらに充血していく耳。
その淡紅色に見惚れながら過ごした。
そのうち、ゆっくりと、離れていく。
潤んだ瞳と、僅か数センチの距離で、目が合った。
「於菟さん……なぜ突然こんなことを?」
「秘密の共有。平たく言えば、口封じか」
「っあ、秘密保持契約……」
ネコミミフードをスッポリ被って、机の上に置いていたタブレットを手に取り、それを使って顔を隠したリンゴマークの向こうからボソボソと声がした。
「決して口外しないと誓約するように。 ……職を失うぞ?」
キョトンとしか表現できない心境になった。
タブレット越しに指令が下っているようだ。
くるりと振り向いた。
オレンジ色のパーカーの下の茶色いスカートが揺れる。
オーバーニーソックスは、白地にオレンジの水玉模様。
同じく、白にオレンジの水玉のシッポ。
2日前の印象よりも、ずっとお洒落だ。
思わず苦笑する。
「 あ っ !! 」
本当に学校側へ進路指導の結果を報告できなくなった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「人数分揃ってるなぁ、ありがとう渡辺さん」
「なんのなんの楽勝楽勝、お安い御用でさぁ」
「では12の4から説明します」
「カッちゃん、残り8分じゃん」
「8分間。 刮目して見よっ!」
「 「 「 「 「 おおぉぉお? 」 」 」 」 」
「……と、キーボードショートカットを多用すればできます」
スマホを取り出し電源を入れて時計を表示。
7分、思っていたより時間がかかったなぁ。
手の平に汗がにじむ。
危ないところだった。
「ボクからの質問だよ、カッちゃん先生」
「っへ?! ……なんでしょう金子さん」
「キーボードが無い場合は?」
「そうか……タブレット端末」
タブレット使用者か。
他にも数名いるなぁ。
あぁ、金子さんには。
「じゃバナナのお礼に」
キ~ン コ~ン カ~ン コ~ン♪
「あ――。 ……授業ここまで」
さきほど自分で作成したファイルに08金子深雪と入力して保存した。
手荷物を鞄へ入れているうちに提出されたファイルのコピーが終了。
ふと白地にオレンジの水玉模様をあしらったオーバーニーソックスが視界の端に入ってきて、「なんだろう?」と顔をあげる。
「バナナではなくてね?キーボードが……」
「バナー画像のお礼はキーボードにします」
「なにを……バナー画像?」
「ええ、一昨日に頂戴した」
「一昨日か。ボクが贈ったリンク画像のことだ、ね……」
柳眉を逆立てていた金子さんが、この一言で一気に顔色を失った。
さきほど眺めていた耳と同じ淡紅色の唇が、青紫に染まっていく。
ここいらの方言で附子色と呼ぶ色。
つまり内出血の青さだ。
相当まずい発言だったのか……あ!
「今の発言は秘密保持契約に違反してた?」
「秘密保 …… っ じ ぃ ―――― ぃ ?! 」
「 「 「 「 「 ねこにゃん? 」 」 」 」 」
両手で隠しているが本当に真っ赤っか。
顔から火が出るとは、このような状態をいうのだろう。
「おとさん……メッチャかわいいよ?」
「よさないか、カトリーヌ☆カツミ!」
「 「 「 「 「 カトリーヌ? 」 」 」 」 」
手配するにしても純正品は高額だ、高評価の社外品から物色?
しかし、私は送付先を知らない。
生徒の住所氏名などは個人情報。
その持ち帰りは学校側と交わした守秘義務に違反するだろう。
これは困った。守秘義務契約を守る、良い方法はないものか。
講師に来るたび課題を持ち帰る、この現状を打破しなくては……