ティアラの事情1(ティアラ視点)
「ティアラ、お前がシオン王子の婚約者に選ばれた。つらい思いもするかもしれないが……家のためだと思って耐えてくれ」
お父様にそう言われ、私は静かに頷いた。
私は公爵家の娘だ。誰のところにでも嫁ぐ覚悟はできている。
美しく類まれなる才能を持ち、冷徹で人を寄せ付けないというシオン王子。
彼には『氷の王子』というあだ名とともにいくつもの噂が流れている。
――十歳で魔術学院のカリキュラムをすべて履修し、十五になる頃にはこの国の魔道士の誰もが敵わなくなった。
――十二歳で王立学院のレベルの教育をすべて修めてしまわれた。
――氷のように冷徹でどんな美しい女性も寄せ付けないらしい。
シオン王子の天才的な才能に関する噂と、彼の潔癖さに関する噂と。
それらを総合するに彼は為政者としては優秀なのだろうが、夫にするには難のある人物なのだろう。
私の感情を抜きにすれば、為政者として優秀ならばなんの問題もない。
夜に支障があるくらい潔癖なら困ってしまうけれど。その時はその気になる薬でも使ってもらうしかないのかしら。
実は私はシオン王子のお姿を舞踏会で一度だけお見かけしたことがある。
豊かに艶めく金髪、美しい蒼の瞳、抜けるように白い肌。噂に違わぬその美貌に私は思わず見惚れてしまったものだ。
しかしシオン王子は自分に群がる令嬢たちに冷たい一瞥をくれると、令嬢たちの手を虫でも避けるかのように払ってその場を立ち去った。
その光景を見て私は『氷の王子』というのは噂だけではないのだと知ったのだ。
あの人に……嫁ぐのね。気をしっかり持たないと。
なにがあっても動揺しない。なにがあっても笑顔で彼の側にいる。
あの氷のような視線を向けられても、いくら手を振り払われても。
……それが、私の務めだから。
そう覚悟を決めて、私はシオン王子との顔合わせに挑んだ。
☆
顔合わせの当日。
王宮の薔薇が咲き誇る庭で……私はあの人の前に立っていた。
近くで見るシオン王子は遠目で見た何倍もお美しかった。
彼は私を値踏みするような視線で眺める。その冷徹な表情に私は体を緊張させた。
……だけど。
「シオン・チェスタトンだ。君のような愛らしい令嬢が婚約者だなんて嬉しいな」
そう言ってシオン王子は金色の髪を揺らしながら、表情を崩してふっと優しく微笑んだのだ。
その不意打ちの笑顔に、心臓が大きく跳ねた。鼓動が巣穴を駆け回る鼠のようにドクドクと騒がしくなる。
ああ、ダメ。こんな不意打ちは。
貴方のような恐ろしい人を――好きになってしまうじゃない。
ダメ、ダメ、ダメ。きっと私は試されているのよ。だってこの人は『氷の王子』なのよ!
ここで少しでも隙を見せたら『お前を試したんだ』なんて言われて突き放されるに違いないわ。
私は思わず少し視線を泳がせた後に、シオン王子に視線を戻す。
彼は……優しい笑みを浮かべながら可愛く小首をかしげていた。
……ふぁ、素敵……!
胸がぎゅっとなるのを我慢して、私は唇を引き結んだ。
多少表情がおかしなものになったかもしれないけれど、足元をすくわれるような蕩けた顔にはなっていないはずだ。
シオン・チェスタトン! 私は絶対に……罠にはかからないんだから!
深呼吸を気づかれないように何度もしてなんとか美しすぎる王子の攻撃から立ち直った私だったのだけれど。シオン王子からの攻撃は続けざまに飛んできた。
「王族しか入れない庭を案内しよう。女性が気に入るような花もたくさん咲いているから、楽しんでくれるといいのだけれど」
乙女だったら誰でも蕩けるような笑顔で白い手袋に包まれた美しい手を差し出され、滅多なことでは立ち入ることができない王族専用の庭園へ誘われたのだ。
潔癖な方だと思っていたのに――なんだか、手慣れてませんこと?
私はそんなことを考えながら差し出された綺麗な手を意図を図るように見つめた。
しかしどれだけ見つめても、その手がため息が出るほど綺麗であることしかわからない。
ちらりと王子の表情を窺うとその美しいかんばせは優しげな笑みを湛えていた。
――はふ。しゅ、しゅき……!
胸に訪れたそんなそんな気持ちを振り払い、王子の美しい手に自分の手を乗せる。
そうよ、これは罠。セイヤーズ公爵家の者の品格を見極めるための罠よ。
気を引き締め……にゃやぁあああ! 手を、優しくにぎにぎされた!
やっぱり、潔癖なんて嘘よ。ずいぶんと女慣れしてらっしゃるわ!
ああ、どうしよう。いざ婚姻したら側室がいっぱいだったら。そんなの私、焼きもちを……いえ、違うの。節度を持った結婚生活じゃないと外聞が悪いから止めて欲しいの。
……今からちゃんと、釘を刺しておかないと。
不敬かもしれないけれど私は彼の婚約者なのだ。間違った道に、は、は、は、伴侶が進みそうなら私が止めるのがその役目で……!
「……ずいぶんと、慣れてらっしゃるのですね」
できるだけ凛々しい表情を作って睨みつけると、シオン王子はきょとんとした顔を私に向けた。うう、なんですかその無防備な表情。胸がぎゅんっ! としてしまったわ。
「慣れてなどいないよ。君のような愛らしいご令嬢を連れて行くのは、人生ではじめてだ」
そう言ってシオン王子は微笑んで軽くウインクをする。
「――ふぐっ」
直撃した。間違いなく心臓に直撃した。
ひどい、こんなのひどい。試されているだけとわかっているのに、乙女心にぎゅんぎゅんと王子からの攻撃が刺さっていく。
……しゅ、しゅき……
零れだしそうな言葉を堪えるために、私は下を向いた。
呼吸を整えよう。そうよ、私はセイヤーズ公爵家の娘。こんなことで動揺し、ボロを出してなるものですか!
そうして呼吸を整えていると目の前に影が差し、手が……温かいものに包まれた。
これは、シオン様の、おてて?
ゆっくりと顔を上げると絶世の美貌が目に飛び込んでくる。目が合うと彼は眉尻を下げて心底申し訳なさそうな顔をした。
「ティアラ嬢。俺はなにか、気に障ることをしただろうか?」
甘い声音が耳を打ち、真摯な視線が私を射抜く。体を身じろぎさせたくても、手をしっかりと握られていて身動きが取れない。
視界いっぱいには『氷の王子』の白い頬を淡い赤に染めた美しいお顔。
……私の混乱は、ついに頂点に達してしまった。
「なんなんですのよぉおお!」
そんなティアラさん側の心境でした。
二人とも最初から実はデレデレなのです。