転生王子と婚約披露パーティー3
「ピナ・ノワルーナ伯爵令嬢」
俺が声をかけると、華奢な背中がびくりと震える。恐る恐る振り向いたピナの表情は盛大な苦笑いを湛えており、顔を滂沱の汗が伝っていた。ピナが持つ盆には客に振る舞うワインが乗せられている。それが彼女の体の震えに合わせて揺れて、びちゃびちゃと盆に零れた。
……秘密を知ってしまったから、消される。
彼女がそんなことを考えているのだろう気配が、ひしひしと感じられた。うん、誤解は早めに解いておかねば。俺のためにも、ピナの精神状態のためにも。
「どどどどどうして私の名前をご存知でぇ」
動揺しすぎだ!ピナの声は上ずり、目を左右に忙しなく泳いでいる。
「王宮に勤めるもののことくらい、すぐに調べはつく。少し、話をしようか」
こんな会場で堂々と『ブリッツには、キスの作法を教わっていただけだ』なんて言ったら、確実に根も葉もないアレコレが広がる。どうにか人気のないところに行けないものか。
「……頑張れ、落ちるな、私の首」
大きく体を震わせながらピナがつぶやく。首なんて落とさないから落ち着いて欲しい。婚約披露パーティーという晴れの場で、メイドの首を落とすなんてことするわけないだろう。俺はどんな暴虐王子に見られているのだ。
「首は落とさないから。俺について来てくれないか」
「ひゃぃい!」
「その前に、一つグラスを落として。俺にワインがかかるように」
「ひゃいい!?」
「早く」
ピナがグラスを落とす。それはガシャン! と音を立てて床に落ちる。うまい具合に赤ワインの飛沫が散って、俺のトラウザーズにかかった。
会場の人々の注目がこちらに集まる。俺はわざとらしく、トラウザースの汚れを彼らに見せつけた。
「ふむ、汚れてしまったな」
「ももももも申し訳ありません!」
ピナはすっかり涙目だ。悪いようにはしないから、そんなに怯えないで欲しい。
遠くでティアラ嬢が少し腰を浮かせるのが見える。大丈夫だというように、俺は少し手を振ってみせた。
「ふむ……これくらいであれば履き替えるまでもないか。君、染み抜きはできるか?」
「ひゃ、ひゃい。一応……」
「じゃあ来てくれ。誰か、床の片付けを。皆様、少し失礼する」
メイドを用事もなく連れ出したら、妙な噂になりかねない。俺のでっちあげに涙目になりながらピナは俺について来た。
「あああ、後でメイド長に怒られる。待って、あのトラウザーズうちで弁償できるの? うちは貧乏伯爵家なのに……」
背後でブツブツ言ってるのを聞くと、罪悪感が刺激される。メイド長には叱らないように後で言っておこう。トラウザーズの弁償も当然させるわけがない。そもそもはピナが俺から逃げ回ったからこうなったのだが!
控えの間にピナを連れて行くと、俺はゆっくりと扉を締めた。
「さて、ピナ・ノワルーナ。君の誤解を解かないとな」
「ご、誤解でございますかぁ? な、なんのことでしょう。私、なにも見てないですよぉ」
泳いでいる、目が思い切り泳いでいる。そして心の底から誤解をしている。
「あー、あの日ブリッツとしていたのはだな」
「わわわわ私、男色には偏見はございませんのでぇ」
「そんな事実はない!」
「ひぇっ!」
結局、ピナの誤解を解くのに二十分程度を要した。
……ブリッツ、マジで覚えてろよ。
「つまりはブリッツ様に恋愛相談をしていたら、キスの作法を教わる流れになったと。これはこれで、BLがはじまる流れな気がするんだけど……」
俺の言葉を聞いたピナは唸りながらブツブツとなにかを言っている。最後の方はよく聞き取れなかったが、誤解が解けたようでなによりだ。
「俺はティアラ嬢一筋だから……困るんだ、妙な噂が立つのは」
ピナは跪いてトラウザーズの染みを抜きながら、大きな目を丸くした。なんだ、その顔は。
「……言いたいことがあるなら、正直に言ってくれ」
「婚約者に一途だなんて、意外だなぁと」
「本当に正直に言ったな」
「いえいえいえ! 失礼しました!」
なんだかおかしくなって、俺は思わず声を立てて笑ってしまう。このメイドと話していると、前世の友人と話しているような気分になる。彼女の気さくさがそう思わせるのだろうか。……まぁ、前世の俺の友人なんて中二病を患った同性しかいなかったわけだが。
ティアたんともこんな風に、話せるようになればいいんだけどな。
「さて、そろそろ戻るか」
「そうですね! 私もお仕事がありますし!」
ピナはふんふんとうなずいて俺の言葉に同意した。この少女は、本当に俺に興味がないらしい。実に気楽でいいな。
俺とピナは連れ立って廊下へと出た。そこで俺は、ティアラ嬢の好みを教えてもらった礼のことを忘れていたな、と思い出す。
「そうだ。先日はティアラ嬢の好みのことを教えてくれて、ありがとう。本当に助かった」
「いえいえ、お安いご用ですよ。ドレスは喜んでもらえましたか?」
「……感想は、まだ聞けていないな」
「きっと! お気持ちは伝わっていると思います!」
ピナは両手をぎゅっと握りしめて、俺を励ますように言ってくれる。
口調も態度もかなり砕けてなかなかの不敬罪ものだが、励ましてくれる彼女の気持ちが素直に嬉しい。そしてこの子はなんというか……ヒロイン属性という印象だ。ピンクの髪だし。
「伝わってると、いいな」
ティアたんの姿を思い浮かべて、俺はふっと笑みを浮かべる。そんな俺をピナもなんだか嬉しそうに見つめていた。
前方を見ると戻りが遅い俺を心配したのか、ティアラ嬢とブリッツがこちらへと向かって来るのが見える。ティアラ嬢の姿を見たピナは、とたんに怯えた表情になった。
「ピナ?」
「ひ、ひぇええ」
ピナはなぜか慌てて俺の後ろに隠れる。なにをそんなに怯えているのかとティアラ嬢を見ると。
その表情は……なぜか激しい怒りに満ちていた。
「ひぇ」
俺の口からも思わず怯えた声が漏れる。なぜだ、なぜティアたんは怒っているんだ。待たせすぎたか!?
ティアたんは俺の前に立つと、上目遣いで俺を睨んだ。
……可愛い。上目遣いのティアたん、最高に可愛い。ちょっとほっぺが膨らんでるのも可愛いな。ああ、ツンツンしたい。むしろそのもちもちのほっぺをはむはむしたい。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「どうしたんだ、ティアラ嬢」
「……婚約者を放置して、メイドごときとずいぶんと楽しそうにしていらっしゃるのですね」
ティアラ嬢の言葉に俺とピナは固まってしまう。
そしてブリッツは……声を殺しながら、腹を抱えて笑っていた。




