トイレは綺麗だった。だが紙はなかった
「君は完全に包囲されている。おとなしく出てきなさい」
拡声器から出るその声があたり一面に響いた。
「うるせー。俺の要求が通らない限り、ここから一歩も出て行かないからな」
男は公衆トイレから大声で叫ぶ。
「男がトイレに立て籠もっていて、まったく出てこない。おかげで、ちょっと漏らしてしまった」
と、近隣の住人から通報があったのが午前10時。通報を受けた警察官はすぐさま、 公園の公衆トイレから半径10mを封鎖した。警察官30人を動員して万が一の事態に備える。
もうすぐ時刻は午後18時を回ろうとしていた。男が公衆トイレに立てこもってから、8時間経過した事になる。
「今、出て来れば罪は軽いぞ」
拡声器で喋るのは、今回この立て籠もり事件を一任された警部の大下。
大下は何度も立て籠もり事件を解決しているその筋のプロだ。
かの有名な『北村家立て籠もり事件』を解決したのも大下だ。20年間、自室に立て籠もる一人息子のYを説得して、一人の死傷者も出さずに自室から出したのだ。
おまけにYの今後の就職先も見つけて、立て籠もり再犯防止にも繋げる行動をとったのだ。立て籠もり事件を任せたらこの大下の右に出る者はいない。
「誰が出て行くか。それより俺が要求した物はまだか」
男は依然、公衆トイレから出てくる気配はない。そればかりか、警察にある物を要求していたのだった。
「もう少し待ってくれ。まだ時間がかかる」
「いつまで待たせるんだよ! さっさとトイレットペーパーを用意しろ」
男の要求はトイレットペーパー1ロールだった。
「分かっている。今、上層部と掛け合っているからもう少しだけ待ってくれ」
「いいかげんにしろ! さっきもそんな事を言っていたぞ。 糞! こうなったらここにとことん立て籠もってやるぞ」
男は自分の要求が叶わない事に苛立ち始めている。切羽詰まった状況だ。このままでは男が癇癪を起して、何をするか分からない。最悪の場合、死人が出るかもしれない。
「どうしたものか……。おい、まだ来ないのか!?」
大下は窮地に追い込まれていた。だが、大下はこの状況を打開する秘策を手配していたのだ。
「警部、今、来られました」
大下の元に部下が急いで駆け寄ってきて、耳打ちをする。
「よし、間に合ったか!」
用意した秘策は間に合った。その秘策を用意するために、ここまで時間を要していたのだ。
「おーい。聞こえているか。今、お前のお袋さんが来られたぞ」
「なに! お袋が!!」
男の声色が変わる。明らかに動揺していた。大下は男の母親に拡声器を手渡す。
「たかし、あんた何でこんな事しとるばい。あんたは昔から優しい子供じゃったけん。それがどげんしたと。こんな人様に迷惑かけるような真似して。よそのトイレに入る時は、ちゃんとトイレットペーパーがあるか確認しろとあれだけ言ったけん!」
「お袋……。なんでこげな所にいるんか。田舎から来たんか!?」
「警察の人からお前が立て籠もって出てこないってきいて、わざわざ飛行機で来たんだ。早く、出て来んしゃい!」
拡声器から放たれた声は、男を叱りつけるオカンの言葉だった。これで男はトイレから出て来るはずだ。その場にいた、警察官達は皆そう思った。だが。
「……だめだ。お袋の頼みでも、トイレットペーパーを持ってこがんと俺は出て行けんと」
「……んもう!」
男の母親はもう何を言っても駄目だと悟った。大下が母親から拡声器を受け取る。
「わかった。お前の言うとおりにする。今、トイレットペーパーの準備が出来た。そこに持っていくから早まった真似はするなよ」
「ああ、分かった」
大下がトイレットペーパーを片手に男がいるトイレまで歩いていく。トイレにたどり着いた大下はドアを『コンコン』と二回ノックした。
すると、ドアが開き、ドアの隙間から男が手を出してトイレットペーパーを受けとろうとした。
その時だった。大下はその隙を逃さなかった。トイレットペーパーを取ろうと伸ばした男の手を力強く掴んだ。
「確保!!!」
大下のその合図と同時に、周りを取り囲んでいた警察官が一斉にトイレへとなだれ込む。
「やめろ! 離せ! 糞!」
大下はがっちり掴んだ男の手を離さない。大勢の警察官がトイレのドアをこじ開けて、男の身柄を抑え込んだ。
「うぐ、……ぐあ」
公衆トイレから、引きずり出された男はズボンとパンツを下ろしたままの状態だった。
抑え込まれた、男の元に母親が駆け寄ってくる。
「あんた、なしてそげな恰好をしてんだ! トイレに立て籠もってなにがしたかったんだべ」
「うう。俺、トイレットペーパーがなかったから、お尻が拭けずに立て篭もって。それでトイレットペーパーを要求したんだ。ううっ。ごめんよ。お袋!!」
男はそう言って泣き崩れた。
「バカだねあんたは。ちゃんと刑務所で反省してきんしゃい!」
気丈に振る舞う男の母親だが、瞳には涙が溜まっている。必死でそれを堪えている様だ。
「お母さん。逮捕はしませんよ」
大下が優しい口調で男の母親に言う。
「えっ!」
男と男の母親は同時に声を出した。
「幸い、死傷者もいません。息子さんも悪気があったわけじゃない。ただ、そこには紙がなかった。それが全ての立て籠もりの原因だったんです。この事件、水に流しましょう」
「ありがとうございます。刑事さん」
深々と頭を下げた男の母親の瞳からは一筋に涙が流れ落ちた。
「ありがとうございます。俺、もう二度とこんな馬鹿な真似はしません。トイレに入る時は、ちゃんと紙があるか確認します」
男も涙ながらに大下に礼を言う。
大下は男の肩を『ポンポン』と叩く。
「うむ。今度からは気を付けろよ。沢山の人と、あとお母さんにも迷惑をかけたんだ。いいか。これだけは覚えておけ、自分のケツは自分で拭くんだ」
そう言うと、大下はトイレットペーパーを差し出した。
「ほら、これで、涙を拭け」
「……刑事さん。ありがとうございます」
男は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をトイレットペーパーで拭いた。
こうして、無事、立て籠もり事件は解ケツされたのだった。