13.厚顔の猫耳美青年
きゅぽんっ
軽い音を立てて、ペンの蓋は外れた。
「うん? これペン先どうなってんだ? 尖ってないけど……先端、これ布製?」
「細かい仕組みはよくわからねえけど、行燈の油と灯芯の関係がどうのこうのって」
「ふたりとも、その話は今は良くないかな」
ぼんやりと燭台に照らされた、リューク様のご尊顔。
やや顔色が青褪めて見えるのは、やはり体調が回復していないからだろうか。
3人の男に取り囲まれて、見下ろされて。
その圧迫感を無意識に感じ取っているせいかもしれない。
スペードか、アッシュか。
ミヒャルトじゃないだろうが、誰かの唾を呑む音がごくりと響く。
僅かに緊張の滲む顔……一度書きこんでしまえば、それがしばらく相手の顔を着色するのだ。
気負いが全くないのは、ミヒャルトくらいである。
ミヒャルトは失敗したら失敗したで、それが残っても構わないと思っていそうだ。
「いざ」
覚悟を決めたように、スペードがすちゃっと構えたペン先をリューク様のお顔に近づけ……
「何をしている」
背後から、お声がかかった。
びくりと震え、間一髪のところでペン先が止まる。
あと5ミリも動けば、リューク様のお顔に赤い色が乗りそうだ。
恐る恐ると悪戯小僧共が背後を振り返れば、そこには仁王立ちの獣人……
水玉イエローのナイトキャップを装備した、ラムセス師匠がそこにいた。
ちなみにナイトキャップは昨年の誕生日にエステラちゃんが手作りしてくれた逸品である。
「ら、ららららむ、ラムセス師匠……っ」
「アッシュ、どもりすぎじゃない?」
「いや、こんな見咎められた状況で平然としすぎだろ!? お前、心臓鋼かよ!」
「動揺するなんて後ろめたいことがあると言っているようなものじゃないか。こういう時はむしろ堂々としているべきだよ」
例え、マジで後ろめたい事実があろうとも。
堂々とさも「何か問題が?」という顔をしていた方が切り抜ける活路が開けるものなのだ。
例えマジのマジで後ろめたい事実があろうとも。
そしてあろうことか。
「若造の可愛い悪戯ですよ。ラムセスさんも童心を思い出して参加します?」
この心臓が推定鋼製の猫男は、ラムセス師匠を誘いすらした。
あまりの強心臓ぶりに、アッシュの顔が引きつっている。
スペードは今までの経験からここはミヒャルトの口八丁に任せようと思ってか、静観の構えだ。
しかしその手は油断なく、いつでも落書きが続行できるように身構えている。
ラムセス師匠は腕を組んだまま溜息を吐き、眉間の皺を揉みほぐすような仕草をした。
ミヒャルトがあまりに堂々と悪戯宣言をしたからだろうか。
うっかり、無害判定をしてしまったのかもしれない。
実際はかなり有害なのだが、悪びれるところのない猫男からそれは鍵取れなかった。
そして。
「……早く寝ろよ」
ミヒャルトのあまりのツラの顔の厚さっぷりに、ラムセス師匠は敗れた。
いや、別に負けた訳じゃないが。
負けてはいない、が、猫男の目論見通りに誤魔化されてしまったことは事実。
もしかしたら、ミヒャルトの相手をするのが面倒になってしまったのかもしれない。
もしくは本当に、可愛い子供の悪戯だと錯覚してしまったのか
なんにしても、まともに相手をして碌なことにならないことは確かだったが。
ラムセス師匠は寝た。
寝台に戻って、眠ってしまった。
それが愛弟子を見捨てたも同然の行為だとは、気付きもせずに。
そして後には愉快そうに含み嗤う猫男と、無音で賞賛の拍手を送る狼男と、2人の思惑を知らずに片棒を担いでしまったいざという時の生贄要員であるアッシュ青年が残された。
部屋の中には、安らかな寝息の音が広がっている。
乱れない呼吸は、リューク様の仲間たちが確かに眠っていることを示していた。
ああ、なんということか。
今この場に、悲劇を止める者はいなくなってしまった。
リューク様のお顔が悲惨なことになる。
身の危険を夢の中で感じているのか、リューク様は微かに魘されて小さく唸っていた。
だが、彼らは知らなかった。
洒落にならない悪戯に挑む小僧3人が、ラムセス師匠の詰問に足止めを食らっている間に。
夢の中で危機を感じたリューク様の、その不安を察した某竜神様(火)によって、救援要請がなされていたことを。
救援要請を受けた、まっしろふわふわな羊娘さんが弾丸のような勢いで出動していた。
自分をぐるぐる巻きにしていた毛布から、器用に脱して窓から飛び出して。
リューク様の無事を確認するまでは安心できないと、全力で。
彼女は目にしてしまった。
寝台に伏すリューク様の周囲を取り囲む、怪しい三つの人影(笑)を。
その内2名の頭から獣耳が生えている部分に関しては、目に入っていなかった。
ただもう、ひたすらに。
リューク様の身を害するものに。
鉄槌……もとい、蹄を食らわせてやらなければという使命感が胸を占めていたので。
そうして、彼女は。
使命感で頭をいっぱいにして、やらかしてしまった。
「リューク様に、な、に、するのぉぉおおおおおおっ!!」
ぱりーんっ☆
窓の粉砕される音が、闇夜に木霊した。
明日のお説教&弁償案件が発生した。
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
言い訳はしないよ。うん、しない。
だってなんていうかね、うん。
その、ただただ我慢ならなくって。
リューク様が襲われてる!? って。
そう思ったら頭に血が上っちゃって、我慢できなかったの。
それで、つい。
咄嗟に正体隠さなきゃって思って頭から紙袋被ってたから、正体ばれる心配ないよねって思っちゃったからっていうのもあるんだけど。
なりふり構わず、飛び蹴りで窓突き破って室内に乱入しちゃったの。
メイちゃん、自分でもこんな堪え性ないなんて思ってなかったよ。
言い訳はしないけど、もっとやりようはあったよねって反省はしてる。
窓粉砕するとか、大きな音するし、深夜だし、宿の備品だし。
ハッキリ言って、迷惑な破壊行為だったよね。
本当、他にやりようはあったのに。
窓を開けて、下手人だけを狙って室内に何か投擲するとか。
いっそ煙玉投げ込m……あ、メイちゃん危険物ギリギリの煙玉しか持ってないや。ダメダメ、これ投げ入れたら曲者以外の人まで被害に遭っちゃう。ラムセス師匠とか、サラス君とか。獣人相手には効きすぎるって注意受けてる煙玉だし、大惨事になっちゃうよね!
うん、煙玉はなしで。
投げ入れるんなら、それこそ竹槍で良かったよね。
なんにしても、やらかしちゃったことは変えられないんだけど。
うん、もう、手遅れ。
煙玉でも竹槍でもなく、メイちゃん自身が宿のお部屋に投擲されていた。
やっちゃったことは変えられないもん!
だから後はもう、うん、なんというか。
何とか後から誤魔化せる範囲内で、リューク様の安眠を害する曲者を排除するしかないよね!
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
室内に騒音巻き上げて飛び込んできたのは、頭から紙袋を被った怪しい人影だった。
月光を背負ったそのシルエットは、若い女性のもの。
だけど頭の紙袋以外は、全身見事に黒づくめで怪しいことこの上ない。
不審者だ。不審者レディが現れた。
混乱しまくったアッシュ青年の頭に、そんな単語が思い浮かぶ。
いや不審者レディってなんだよ。脳内に浮かんだだけの単語には、そんなツッコミも入らない。
そして混沌が、宿の一室で吹き荒れた。
見本のように美しい姿勢で、部屋に蹴り込んできたお嬢さんはバランスを崩すことなく着地する。
そのまま床を滑るように、奥の方へと。
一直線に向かう先は、リューク様の眠る寝台。
即ち、リューク様を囲む3人めがけてまっしぐらだ。
突然の衝撃と破壊音に、部屋が騒然とする。
誰もが飛び起き、混沌のままに状況を確かめようと首をきょろきょろさせる。
就寝したばかりのラムセス師匠も、ナイトキャップを激しく揺らして飛び起きた。
手には武器を握り、「敵襲か!?」と侵入者の姿を探す。
部屋で安全な一夜を過ごすはずだった彼らは、すぐに音の原因を見つけた。
窓から差す月明りは、室内を十分に照らしている。
青白い月光に、彼らの姿は浮かび上がって見えた。
エステラちゃんやスタインさん親子、クレイグ……4人は疑問符たっぷりにその光景を見た。
何しろ眠る前には室内にいなかったはずの人影が、3つも増えていたのだから。
ラムセス師匠も、戸惑いたっぷりに武器を構えて立ち上がる。
だけど彼らの様子を気にする余裕もない有様で、黒づくめに紙袋の不審者はまっすぐと3人の青年を見ていた。
混沌とした深夜の宿の一室で、向かい合う不審者VS.不審者。
猫耳&狼耳の青年達は、最近目にしたばっかりだ。顔見知りだ。だけどなんで此処にいるんだ?
そして何故、リューク様の寝台を取り囲んでいるんでしょうか?
加えて疑問は、なんでそこにアッシュが混ざっているのかということ。
状況を計りかねる、リューク様の仲間達。
猫耳&狼耳の青年達が緊迫感を滲ませて対峙する、黒づくめ紙袋の女性は一体何者なのか?
答えは、青年達が知っているようだが……
混沌に思考を侵食されつつある可哀想な傍観者達に何の配慮もなく、不審者達は彼らだけで話を進めつつあった。
若い女性の柔らかな声質が、苦悩を滲ませて放たれる。
「まさか……まさか、ふたりがこんなことするなんて。思ってもいなかったんだよ? ぺーちゃん、ミーヤちゃん」
「お、おおっ? どどどどうしたんだ、おい? なんで頭から紙袋なんて被ってるんだよ……ってかその呼び名、久々だなっ?」
「ふふ。懐かしい呼び名だね……僕らだって、思ってもなかったさ。君は、彼らに接近しすぎるのを警戒しているみたいだったのに。それこそまさかだけど、なりふり構わず乱入してくるなんてね」
僕達が実害のあるようなこと、すると思った?
いっそ穏やかな声音で、後ろ暗いことなんて微塵もありませんよ、と。
そう思わせる冷静さと優しさの見える態度を崩さないミヒャルト。
だけど付き合いの長い黒づくめ紙袋は、そんな仕草だけじゃ騙せやしない。
「ねえ、そんな見え透いた偽りの無害さで、私を騙せると思った?」
「騙されてくれたらチョロいのにな、とは思ったかな。でもそう易くはないよね」
「そうだよ。私、そんなに簡単じゃないもの。貴方の手口は、15年間見てきたんだからね。
――ねえ、ミヒャルト? スペード? その手に持ってるそのペンは、なぁに? 」
その時、発された愛らしい声は。
無邪気で好奇心をたっぷり含んだ、少女めいた声に聞こえたのに。
声の奥深くに、ぞわっと背筋が泡立つような不穏当な気配をこれでもかと詰め込まれていた。
声を聴いて、状況がつかめずに傍観していたエステラちゃんやサラス君が、恐怖に青褪めて毛布の中に思わず顔を隠してしまうくらいに。
ミヒャルトはそんな声にも、怯むことなく。
にっこりと、それはそれは可憐な笑みを浮かべた。
作り物めいた可愛さが、凄まじく胡散臭かった。
「可愛い若者の悪戯ってヤツだよ? ちょっと顔に落書きしてやろうって思っただけ、ね」
「ほ、ほら、若い内はこういう『おふざけ』も特権の内、だろ?」
ミヒャルトが変わらぬ面の皮の厚さを披露し、スペードも目を泳がせながらそれに便乗してなんでもないと装って同意を求めてくる。
2人の言葉に対する、メイちゃんの反応は。
頭から被った紙袋に遮られて、顔色なんてわかりもしない。
ただ、滴るような怒りを纏って、静かな声が室内に響いた。
「そのペンのインク、肌に着いたが最後、下手したら一年は洗っても落ちないヤツだよね」
ぎょっとした顔で、アッシュが目を見張る。
黒づくめ紙袋の声が聞こえたらしく、ラムセス師匠も顔を引きつらせている。
がばっと真相を知ってしまった彼らは勢いよく猫耳&狼耳の2人組に目をやるが、そちらの悪戯野郎どもは平然とした態度を崩さない。
ゆる~い態度で、いけしゃあしゃあと首を傾げてみせさえした。
「あっれ、そうだっけ?」
「さあ、どうだったかな。ねえ?」
「そうだよね、うん。そうだったはずだよね。ミヒャルト? 貴方がウィリーと開発したインクだよね? 当然、十分に知ってるはずだよね」
紙袋で表情の見えないまま、少女の背中に怒りの炎が燃え上がる。
誰の目にも見えたそれは、果たして幻だったのか。
怒りの炎が実体化するはずはないので、きっと錯覚だろう。
だけど確かに見えた、とこの場に居合わせた者達は思った。
炎はなくとも怒りだけは、確かに存在したのだから。
「あ、あはははは……待って、落ち着け!」
「そんな言葉、聞いて止まると思う? ねえ、思う?」
「君が僕やスペードより強いのは残念ながら本当のことだけど……1対1なら、だよね。だったら1対2なら……勝算があるのはどっちだと思う?」
「その言葉で踏みとどまる段階も、超えちゃったよ! 問答無用!!」
強い言葉で、言い切って。
黒づくめ紙袋の少女は、強く踏み込み……勢い任せに、ペンを握った青年達へと飛び掛かった。
まずはその凶器を奪う――。
強い気持ちを込めて繰り出された右手は、それこそまさに凶器のような鋭さを秘めていた。
「リューク様のお顔に落書きなんて、そんなの私、許さないんだから! 2人には反省してもらう! そんでそんで、もう二度とリューク様に酷いことはしませんって誓約書にサインしてもらうんだからね!」
「絶対に御免だな! 悪いが俺にその誓約書は無理だ!」
「僕も遠慮させてもらうよ! これだけは譲れない……!」
月明りが差し込む、破壊された窓の奥。
羊と狼と、猫。
3人の若い獣人が、その肉体を駆使して互いの意地をかけた勝負に身を投じる。
この世に『メイファリナ・バロメッツ』という名の少女が生を受けてから、15年。
ずっと一緒に育ってきた、彼ら。
親同士の仲が良かったから。
そして2人の男の子が、女の子を大好きだったから。
だからずっと、いつも一緒に過ごしてきた。
女の子がいきなり「メイ、つよくなるのー!」と突拍子のないことを言いだしても。
他者の理解を必要としていない夢に向かって、一途にまっすぐ、ひたすらに、強くなろうと決めて、実際にぐんぐん強くなっていっても。
いつの間にか男の子たちより強くなって、彼らの焦りを煽りまくっても。
男の子の見栄と誇りとちょっとの打算。
女の子に実力で引き離されまいと、必死で追いすがって、強くなろうと。
それぞれに理由は違ったけれど、本心から強くなるために3人は腕を磨いてきた。
10年間、本気で。
そして今、その本気で磨いてきた腕を互いに向けようとしている。
あんなにいつも、一緒だったのに。
互いの気持ちが離れてしまったのか、そもそも最初から心はすれ違っていたのか。
そこは本人達の認識次第で意味を変えるだろうけれど。
友として仲間として幼馴染として、いつも一緒だった彼らは。
今までの人生で、初めて本気で対立しつつあった。
獣人だからと獣のように牙を剥きはしない。
ただただひたすらに磨いてきた、拳と拳を向け合って。
日常の影に隠してきた強さを剥き出しにして、敵対する。
リューク様一行の宿泊している、宿のお部屋で。
どういう流れでそんなことになったのか。
状況が掴めないまま、スタインさんは思った。
どうしてここでおっぱじめるんでしょうかね、と。
他所でやってほしい。それがスタインさんの偽らざる気持ちだった。
予測できる未来。
メイちゃん達にこの後――!?
a.たぶん15分くらいしたらヴェニ君が殴りこんでくる
b.5分と経たず、ラムセス師匠に窓から摘まみだされる。
c.場外乱闘
d.リューク様が目を覚ましてメイちゃん逃亡
e.「サプラーイズ!」と叫びながらピエロが乱入してくる
f.宿のおかみさんが怒鳴り込んでくる