ベストセラーの行方
最近、落合陽一という人の本がベストセラーになった。出版社がうまい事やったという話なのだろうが、こういう才能ならば、よく出てくるようである。天才だそうだ。
で、本屋でパラパラと立ち読みしたのだが、特になんという事はないと思う。結局、こうしたベストセラー本というのは、大衆の作った神話に巧みに迎合していく。「日本再興戦略」というタイトルもそうだし、「テクノロジーが世界を変える」なんてのもそうで、こうした本では、クリエイティブな要素、作者の新しい知見は確かに見られるものの、それは常に、我々の神話に向かって流れ込んでいく。
この手のベストセラー本を総合すると、「陶酔」ではないかと思う。酒を飲んで一時的に気が大きくなる、ドラッグをやれば一時的に気持ちが良くなる。バブルなんてのも、その時は、最高のものに思えるが、夢が覚めれば現実がやってくる。現実がやってくれば、夢はもう用無しとなってしまう。
社会にも躁鬱病というものがあるのではないかと思ったりもする。テレビのバラエティから、ユーチューバーのはしゃぎっぷりまで、一種の躁状態で、この反動はいつかやってくるのだろうと感じるし、鬱状態も同時に発生していて、鬱になりたくないから、躁に逃げ込むのかもしれない。また、異様に生真面目に正論が撒き散らされ、何かをサディスティックに叩かないと、正気が保てないというのは、躁状態の一種なのかもしれない。いや、それこそが鬱なのだろうか。どっちにしろ、表面的な明るさ、前向きと、極端に生真面目で、融通が利かず、相手を叩き潰すまで正義を走らせようとするのは裏表で現在を構成している気がする。
落合陽一の本に戻ると、ああいう本を読むと、なんだか新しい未来がやってくるような、自分が変われるような、気持ちの良い感覚になるが、そういう感覚が陶酔であると思う。また、この陶酔は、現代の社会の歩いていく方向性に従って生まれてくる。ああした本を読んで、我々は陶酔するが、その陶酔はいずれ消える。消えれば、厳粛な現実がやってくるが、それからまた目をそむける為に人はまた違うベストセラーを生み出す。それらは「売上」という名のもと、正当化される。右に逃げても左に逃げても、大衆の作った神話からは逃れられない。
ベストセラー本というのは、わかりやすいし、読みやすい。また、人生の哀しく暗い部分には基本的には触れない。それは、ただ悲惨な事件だとか、犯罪だとかいうのではなく、人間の「業」とでも言うもので、人間が人間であるから生まれてくる悲しさだ。この悲しさに触れると、人は怯えて、それを遠ざける。この社会は戦後の何十年間で、自分達の神話を作り上げた。
あるいはそれは、人間の基本的な性向かもしれない。つまり、「幸福」という神話である。自分が敬愛するシェストフはこの神話を破壊し、混沌を露出させる事に人生をかけた人だが、シェストフは今読まれないだろう。幸福は、秩序と共にやってくる。秩序を守る事、人としてのルールを守る事、自分達の常識を守る事、そうしたものと幸福であるという事実は一致しなければならない。こうした神話を、外的な偶然性(と本人の「努力」)から、信じ続けて死ねた人は、「幸福である」とされる。だが、果たして彼らは幸福だろうか。本当に幸福なのだろうか。
ベストセラー本は我々に陶酔を約束する。我々の神話を汚しはしない。ただし、ちょっぴり、創造性というものを混入させておく。それによって、新しさが目立ち、何か今までとは違うものが発生しているような見かけが生まれる。そうやって、「少しだけ新しいが、根っこは古い」というものが社会の表面を「アップデート」し続けていく。
今、ゾンバルトを読んでいるが、ゾンバルトは落合陽一よりはるかにラディカルで新しいと思う。何故そう感じるかと言うと、ゾンバルトは我々が常識としている観念を相対化して見ているからだ。その分、彼は一歩引いている。その分、彼は陶酔から遠ざかる。しかし、陶酔が去ってもゾンバルトは残り、落合陽一は陶酔と共にどこかの空へと消えていく。その時、我々の称賛と非難も忽然と消えるだろう。我々はいつか、夢が覚める日が来るのだろうか。いつか、忽然と、「自分達は何故こんな事をしていたのだろう」と愕然とする日が来るのだろうか。自分の姿を見る日が来るのだろうか。そんな日が来たら…陶酔は去り、人は己と真面目に向き合うだろう。しかし、そんな日が来るまではベストセラー本は絶えず形を越えてアップデートし続けるだろう。そしてそれは、千年以上にも渡る長い歴史なのかもしれない。