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海桜に雪芒と  作者: 藤泉都理
一巻 天と地のせいめい編
10/66

天と地のせいめい 九

 本丸の紅凪専用の政務室にて。紅凪は一服しながら、秘密基地を糸口に昔へと物思いに耽っていた。



 幾度となく訪れる秘密基地がある森は、十年前の昔と風景は変わらなかった。出入り口となる周囲を囲む立ち入り禁止の立て看板を除いては。



 食欲不振の時に服用する薬の原材料である植物『ほの』。乱獲により数が激減し絶滅危惧種として認定されたこれがこの森の中で地生されていると知ったのは、二年前。森や林などは一年に一回大体的に調査されていた。この森も例外ではなく、しかしそれまでは確認できなかった事から、鳥がこの地に種を運んだのではないか、と言うのが専門家の意見であった。


 国はこの森を国有地として厳重に管理する、乃ち、専門家以外が入る事を禁ずる対応を即座に取った。


 その決断は英断だった。


 気候や土壌など、地生する条件が整っていたのだろう。『ほの』は他の動植物と共生しながら地生範囲を広げ続けている。



 森の中で。








 幼い頃。紅凪と仙弥は、竹が生い茂る区域で子どもが三人ほど横になれる、ぽっかりと空いた空間を見つけて、この場所を秘密基地にしようと決めた。



 取りかかったのは、竹の強靭性を利用した基地作りである。周りにある己の三倍ほどの高さの竹を折り曲げて対角線上にある竹を同じく折り曲げて、立てるくらいの高さ辺りで竹紐を結び合わせる。これを繰り返して竹を切らずに半円状の屋根と壁を作った。隙間だらけなので雨避けにと、家から持ち出した無色透明のビニール袋を切り広げて屋根を覆い、風で飛ばされないようにビニールに穴を開けて壁竹に竹紐で結び付けた。入り口にと、壁の竹をかがんで通れるくらいに真横に押し広げて、その延長線上より後方にある竹に竹紐を括りつけてその空間を固定させた。あとは中の地面にビニールシートを敷けば、三日かけての秘密基地の完成である。



 自分たちでやってのけたこの時の高揚感に勝る出来事に、二人はそうそう出会えていない。


 過ごし方と言えば、悠々気儘。お菓子や水筒、本、布を持ち込んで、座ったり寝転んだりしながら、飲み食いや読書、昼寝をして、今日はこれからどうするか、今日あった出来事を、明日はどうするかを話す。


 竹林の狭間に見える空。零れる光。葉擦れの音。土や雨や植物、太陽の匂い。ビニールシート越しに伝わる土の肌触りやひんやりとした温度。自ら創り上げた空間。自分たちだけの秘密の場所。


 過ごし方は家の中とさして変わらないはずなのだが、高揚感と解放感は常に抱いていた。




 紅凪が氷月をお化け呼ばわりしながらも、強引にこの秘密基地に連れて来たのは、それから十か月後。


 紅凪がこの場で攫われたのは、その二週間後の出来事であった。




 人攫いは綿密な計画を練っていた。気絶させた紅凪を穀物袋に押し込んで、全く人目に付かない道順を辿って、仲間が待っている中継地点の建物へと入った。そこで夜を待ち、また移動する手筈になっていたのだ。


 万が一目撃されていたとしても問題はなかった。肩に担いでいたのは穀物袋。駆け走っていたのは、いち早くこれを顧客の元へ届ける飛脚だから。不慣れな道を辿るのもその職業さ故だと。何かを気取られたとしても、飛脚と違わぬ足の速さの者に追いつけるはずはなかったのだから。


 だが、氷月はそれらを覆した。紅凪を穀物袋に押し込まれる瞬間を目撃し、仙弥に分かるように、忍びが追跡時によく使う後追い用の液体を真似て仙弥が作った『しのべに』を地面に垂らしながら、彼らを追いかけた。


 仙弥が忍びと称して氷月に蒸しぱんを食べさせて以降、仙弥は時々、遠巻きに見つめる氷月に近づいては、忍びの話をしたのだ。逃げずに仙弥の話を聴く氷月の姿に、全く懐かれていなかった紅凪はそれを面白く思ってはいなかったが、結果としては彼の危機を脱する形となったのである。



 否。紅凪だけではない。氷月も、であった。



 追いかけていた氷月が人攫いの入って行った建物近くで様子を窺い、仙弥が連れて来た警備兵に状況を説明すれば良かったのだが、あろうことか、彼女は建物の中に入り込んだのである。


 台形の大きな岩石の中を削ってできた建物には、入り口とその真反対にある小さな窓二つしか出入り口はなかった。持ち前の身体能力と火事場のくそ力で侵入を試みるも、窓は氷月の八倍ほどの高さに位置してあり、また、岩石も表面上に凹凸がないばかりか、蝋でも塗られているかのように、つるつるとしていて容易には叶わなかった。


 何か手段はないかと見渡すも、窓に届きそうな木々は立ってはいなかった。


 忍び熊手や鉤縄、手裏剣でも苦無でもいい。仙弥から聴かされていた忍び道具があればと、氷月は悔やむも、手元にあったのは『しのべに』だけ。


 これでせめてこの滑りをどうにかできないかと、氷月は窓下から飴玉の形状のそれを取り出し、岩石に叩きつけて赤の発光液体を噴出させた。すると、ぶくぶくぶくと無数の泡が出現したかと思うと、一気に固まったのだ。力強く手で掴んでも上下左右に引いても崩れないそれをとっかかりにして、氷月は登り続け窓へと辿り着いたのだ。



 こっそりと窓から中を様子見ると、橙の灯りで照らされている空間には何も置かれておらず誰もいなかった。奥と手前の光の濃さの違いと高さから、ここは二階か三階だと判断した氷月は、そっと硝子状の窓を押すと簡単に動いた。意外にも鍵がかかっていなかったのは、その窓の大きさが這った状態で氷月が通れるほどの小ささだったからであろう。



 窓を通り抜け、屈みながら忍び足で慎重に八歩進めた氷月は、柵の間から一階を見下ろした。二階の床面積は一階の半分で、どうやら二階の床部分も元の岩石の名残らしい。つまりは、一階の床、壁、天井、二階の床部分を除き、岩石は削り取られたのである。



 氷月は一階部分の見える範囲には紅凪の姿および彼が入れられていた穀物袋が視認できなかったので、柵を形成する棒の合間に頭を通して逆さまにしては、一階の残り半分を覗き見た。すると、寝かされている状態の穀物袋から頭だけひょっこり姿を見せている紅凪を見つける事ができたのだ。目を瞑っているのは、まだ気絶したままなのか薬が効いているのか。状態が分からず、もしかしたら、と、過った最悪の状態に全身から血の気が引いたと同時に、曖昧な痛みを覚えたと思ったら、一瞬で意識が遠のいたのであった。











 背格好からして年は二つか三つ上だろう金髪の少女の姿を視認し、俺たちの陣地に何を勝手に入っているんだと文句を言おうと思った時だった。突然、世界が暗転した。


 怒鳴り声で目を覚ました時、真っ先に確認したのは今の自分の状態。仰向けに寝かされている。頭だけを出された状態で袋に入れられている。狭い袋の中では一応身体の自由は利く。


 誘拐でもされたかと判断を下しながら、次は周りの確認をと、視線を真横に動かそうとした時だった。



『氷月!?』



 真上を過った何かを探るべく首を動かせば、壁を背に身体を崩し落としている氷月がいたのである。


 肝が冷えた。氷月の状態が知りたかった。


 演技でいい動くな。動いてほしい。犯人なんか気にするな。犯人を刺激するな。

 混乱へと走る思考を押さえつけて、一挙手一投足を逃すまいと注視しながら氷月の名を呼び続けたのだが、常とは違い身体を叩きつける心臓が、思考も視界もぶれさせる。煩わしい。苛立ちを生まれさせる。



(これじゃあだめなのに)



『ったく、おとなしく気を失わせとけばいいものを』



 背中越しに野太い男の、そのざらついた声音と舌打ちを耳にした瞬間、目の前が真っ赤になった。

 その怒りがやつに下ったのか。重たい身体が床に崩れ落ちる音が聞こえ、反射的に振り返って状況を確認しそうになる身体を必死に抑え込み、氷月から目を離さずにいる中。



『むやみやたらに乱暴を働くなと言っただろうが』



 耳に入って来たのは冷水のような声音だった。



『おい。あんたは俺たちと同等『こいつと同じ目に遭いたいなら、口を開いても構わない』



 冷水声の持ち主は一瞬でその場のざわめきを抑えた。

 同等との発言から、この場にいる者は雇われ人で上下関係がない事から初めて組まされたのだろうと、また、依頼主に届けて金を得るまでは命の保証の可能性が高いと推測。



(氷月は、)



 依頼主の狙いは何か。金か、嗜好か、発散か、怨恨か。どれも反吐が出るが、金なら氷月も今の時点では命を絶たれる可能性は低い。が、俺でなければならない理由が高い他だとすれば。



『氷月』



 不安と、疑問と、謝罪と、憤怒と。嬉悦、が、滲み出て、自己嫌悪に陥る。



 懐かれていない自分を、まさか、追いかけて来るとは、思わなかったのだ。



 だから。だからこそ、今この時、この状況で、湧き出るはずがない感情で、愚かにも、心が震えてしまう。


 ここにいるという事は、俺を少しでも、気にかけていたと、そう思っていいのか。


 呼びかけにその問いを込めて、深く息を吸い、思考を一本にまとめた。

 二度三度と累を及ぼさない為にも、自分は依頼主の顔を見るまでこいつらに従う。



 氷月は、



『逃げろ!』



 意識が落ちていたとしてもこの声に従ってしまうような、まるで電流を帯びる大喝を浴びせる。

 瞬間、鋭い視線が頭を貫いた。

 嫌だと、明確に拒絶する意思を以て。



『ひ』

『逃げられる状態だと思うのですか?』



 冷氷。違う。例えようのない底冷えする声音だった。

 膝をつき、自分を覗き込んでくる男は、瞳は茫洋とし、頬は痩せこけて、全体的に青白かった。病人と見まがえそうな印象を覆すのは、その深々と明確に響き渡る声音。



『まあ、逃げられるんじゃないか』



 次に覗き込んで来たのは、冷水声の持ち主。金髪で、秋空の瞳を持つ、一見すれば可憐な小柄の少女は呆れを含ませてそう言った後、つかつかと音を立てて氷月に近づいては、耳元に顔を寄せた。



『一人で逃げるか。おまえが抱えて二人で逃げるか。共に残るか。どれを選ぶ?』

『………私で、足りますか?』



―――ふざけるな!



 声を発した氷月に安堵する暇もなく、そう叫ぶ寸前の口を底冷え男に塞がれ、身体も簡単に抑えられてしまった。


 震えているのが、何の所為か。もう、見当がつかない。


 一瞬、視線を自分に動かした少女が、満足そうな笑みを口に湛えるのが見えた。

 その意味を探る間もなく、次には、氷月に戻してしまったが。



『…恐らく。そうだな。おまえでは駄目だ』

『………』

『…少年の代わりに連れて行き、首謀者の顔を見て、逃げられるとしたら。おまえは何処に帰る?』

『か………家に』

『……おまえは、あの少年の顔が見えていないのか?』

『……見えているから、ここにいる』

『…違うな。見えていない。些かもな』



 淡々としたやり取りが中断したのか。終わったのか。少女は嘆きとも取れる溜息を短く強く吐き出して後、つかつかと音を立てて近づくや、男に自分を解放させるように告げた。


 その発言にいち早く反応したのは、他の人攫いたちだった。

 ふざけるな。勝手に何を。金がもらえなくなる。仕事ももう。

 悲痛が滲んだり皆無だったりの怒号。音だけで感情は読み取れるも、通り抜ける。


 解放された理由も。人攫い同士の諍いも。首謀者も。今はどうでもいい。

 自由になった身体を氷月の前へと進める。思った以上に、しっかりとした足取りで。

 辿り着くや、氷月の両頬に手を添えて、愕然とする。

 片頬が熱を持って腫れているのだ。


 それなのに、それでさえ、怯えも恐れも見られない。

 躊躇い。それでも、両頬にそっと手を添えた。


 痛みを引かせたいのかそうでないのか。




 分からなくなる。




『気に食わねえ。何時も何時も吐き出さずに。ちったあ声に出してみやがれ!』



 全身の酸素を吐き出してしまったのか。

 目の前で光が点滅する。靄がかかる。苦しい。熱い。痛い。

 痛い。



『要らない!』



 目が見開く。

 初めて見る氷月の姿。

 眉根を寄せて。大粒の涙を溢れ出させて。唇を、身体を震わせて。紅に染めあげて。

 要らないと声を荒げる。



『要らない要らない要らない要らない要らない!』



 吐き出しているのは、分かる。だが。

 全ての煩わしさが引いて行き、茫然とする中、次に訪れた感情は悲哀だった。言葉の意味通りならば、俺が要らない、という事。


 気にかけているどころか、気にかけたくない存在だったのかと。

 泣きたいのはこっちだと、氷月に感情を露わにしろと言っておきながら、文句が出てしまう。



『攫われ中の身で痴話喧嘩とは、いい御身分だな』

『うるせえ!』



 こんな事が二度も遭って堪るかと思い、首謀者の顔を見るまではと静かにしていたが、莫迦莫迦しい。こいつらに吐かせればいいだけだ。だから可及的速やかに探しに来い警備兵!


 泣きっ面に蜂状態で目を三角にして振り返れば、少女と底冷え男以外の四人は床に横たわっていた。

 状態を視認するや、俺は氷月の突っ張りや蹴りを受けながらも、何とか氷月をおぶさった。


 靴にこびりつく土。髪や衣服に絡まっている植物の葉本体やその汁。皮膚には小さな傷が多数。そこから滲み出る血液や血痕。全身被っている土埃。加えて、思った以上にないその重みに。思った以上の温かみに。不意に潤む目を瞼で覆って弾き出してから二人に相対した。



『俺たち帰るから。警備兵に順良に捕まってくれ』

『その子を抱えておまえが?』



 できないだろと、あからさまに莫迦にした物言いに、できるわと嚙みついた。対し、少女は眼光を鋭くさせた。



『…それが依頼なら受けるが。おまえは何をくれる?金か?』

『……秘密基地』


 目を丸くした少女は、次には腹を抱えて笑い出した。底冷え男は表情を変えず。俺は赤面した。


『笑うな!』

『い、いや。悪い』


 背中を丸めていた少女は、何とか笑いを収めたようだ。仕上げとばかりに、呼吸を大きくしてから、背筋を伸ばして直視してきた。満足げな笑みを湛えて。


『秘密基地なんぞ貰ってもしようがない。故にその申し出は受け入れない。だが、警備兵には従う』


 少女は底冷え男を見上げた。笑みはそのままで。底冷え男に小さく頷き返され、次にはまた自分に戻す。


『おまえを攫おうとした首謀者も自白する』

『そりゃあ、有り難い』

『引き際をくれた礼だ……痛い思いをさせて悪かったな』

『全くだ。今度出て来た時は真っ当な仕事に就けよ』

『そりゃあ、私たちを担当する警備兵次第、だろ』



 少女が揶揄る声音で笑みを深くさせると同時に、警備兵の声が聞こえると、一つの塊が猪突猛進、入り口の扉を破壊して建物内に侵入してきた。



『紅凪!『よう、仙弥。早かったな』



 氷月が標を残している事を知らず分からずの俺は、すわ、その塊が本物の猪に見えて、若干焦っていたのを知られまいと、殊更気の抜ける声音で、仙弥を迎えた。


 血走っている眼。荒い息遣い。滴り落ちる汗。紅潮。衣服の乱れ。ボロボロだなこいつと、一笑を零した後、氷月を仙弥に任せた方がいいかと、仙弥に冷やす物を持っていないかを尋ねながら、氷月に仙弥に変わるぞと告げると。



『…氷月?』



 仙弥にすすり泣いている処を見られたくないのか。子啼爺よろしく背中にしがみつく氷月に、理由がどうであれ、心臓を鷲掴みにさせられた。

 先程の要らない発言の衝撃から立ち直れそうだ。今だけでも。



 結局、馬車の中でも俺にしがみついたままの氷月は天紅家までの道のりもそのままで。独りで出歩くなやら、鍛える気がないなら道具を持てやら、仙弥の小言を子守歌に眠りに就いたのだろう。雪晶殿がいかつい表情を変えず、未空が氷月を両の腕に抱いて、邸へ戻って行った。



 落陽が目に染みて、結構時間が経ってんだなと、ようやく肩の力が下りると唐突に、顔全体の腫れぼったさに気付いた。何だこれと疑問に思うと同時に、全力疾走の母親に体当たりされるように抱きしめられ、顔を両の手で挟まれ、泣いているじゃない怖かったでしょうと指摘されるまで、俺は自分が泣いている事に気付かなかったのであった。






 次の日。俺は一人で天紅家の門を潜った。

 昨日の礼と謝罪を言いに。


 氷月の要らない発言が、どうにも会いに行かない方がいいのではと足取りを重くさせるのだが、氷月の真意と状態も知る為にもと、足に気合を入れて一歩一歩、歩を進めたのであった。


 雪晶殿は仕事で家を空けており、未空が氷月の部屋まで案内してくれると言うので、俺は彼女の細高い背を追って歩き続けた。



 未空とは、氷月を邸まで迎えに来た際によく会っていたので、顔見知りになっていた。

 ビシィという効果音を背負っていると錯覚してしまうほど、頭の天辺から足の爪先まで綺麗に整えている彼女の年齢は不詳。普段は鋭利な顔立ちと雰囲気で近寄りがたいのに、笑顔だけは何処にでもいる妙年齢のおばちゃんみたいに温かく変化し、印象を覆す。滅多にその笑顔を見る事はできないが。



『昨日は災難でしたね』

『ああ。氷月にも怖い思いをさせて悪かった』

『あなたの所為ではないのですから謝罪は結構かと思います』

『ああ。いや、まあ』



 口を尖らせて、手に持っている或る物へと意識を向ける。



――氷月ちゃんのおかげで早く見つけられたんだから、ふか~く頭を下げて感謝の気持ちを言うのよ。怖い思いもさせたんだから、手ぶらで行くなんて論外だからね。



(……だったら、菓子やら花やら果物やらを買う金寄こせっての)



 それはそれで恥ずかしくてすんなり買えずに今日行く事などできなかったかもしれないが。

 だからと言って、やはりこれはなかったんじゃないかと後悔と羞恥が入り混じる中、強く握りしめてしまわないように、細心の注意を払いながら氷月の部屋まで歩き続けた。



『氷月さん。紅凪さんがおいでになりましたよ』



 未空が部屋の襖の前に立って、そう声を掛けてから、部屋の方へと手を向けて、どうぞと俺に許可を与えた。

 返事がないのはいいのかと頭の片隅で突っ込みながら、入るぞと、僅かに声を大きくして襖を開けた。



 この時占めていた感情は歓喜だったのだろうか。



 殺風景な部屋の奥。一段高くなったその場所。寝具の上で。上半身を起こし。日光が降り注ぐ窓を背に。灰影を覆いながら俺を見つめる瞳と確かに交わった瞬間。


 部屋に入れた事。氷月の生きている姿を目の当たりにした事。その事実が。胸を締め付けて。




 顔を綻ばせた。




『氷月』



 のは、氷月が布団を覆い被るたった一分にも満たない短い時間で。

 やっぱり嫌われている超嫌われている。地の果てまで落ち込む精神を、肉体はまだ何も為していないだろうと無視しながら、よたよたと氷月へと近づき、寝具に触れない距離で止まって崩れるように腰を床に下ろした。



『昨日はごめんな。ありがとう』



 伸び飛び続ける精神を一気に手繰り寄せ、据えて、真摯に頭を下げた。



『………』



 反応はない。落胆と怯えで伸び飛びそうになる精神を掴んで引き留める。



『氷月は、俺の事が嫌いか?』

『……嫌いじゃない』



 氷月は布団の中から出ずにそう返した。間が気になるが、とりあえず嫌われていなかったと、拳を握り締める。



『昨日の、要らないって、何が要らなかったんだ?』

『……必要なもの。でも、もう、貰えた』



 うん。さっぱり分からない。



『あなたのおかげです』

『氷月』



 知らぬ間に氷月に何かを渡して、感謝をされている事は、なんとなく分かった。が。

 捨て置けぬ発言をした事に集中した俺は神妙な声音で言葉を紡いだ。



『俺の事は兄ちゃんだと思え……兄ちゃんってのは別にあれだぞ氷月が可愛くて仕方がないからじゃなくてだな兄ちゃんって偉い存在で年功序列の師と弟子みたいな敬われて当然みたいな俺はそんな偉い存在になりたいし氷月は俺より年下だし年下で身近にいるのは氷月だけだしそういう間柄になるのに最良なだけで血の繋がりはないけどんなのはどうでもよくて』



 前半の腰を下ろした感は何処ぞへ消えてしまったのか。中盤から最後まで息継ぎなしの早口で紡ぎ続けた結果、息切れを起こしてしまったので軽く口を閉じた。そして静かに呼吸を繰り返しては口を尖らせた。



『だからあなたとかんな呼び方すんな』



 耳がやけに熱く感じた。



『……氷月』



 もぞもぞ。布団の中で体勢を変えているのだろう。ひょっこり額だけ姿を見せた氷月に、息苦しくないんだろうか無理矢理剝がそうかと思いながらも、そっと、手に持っていた花束を差し出した。


 庭に咲いていた、白と薄紅のれんげそう、黄のたんぽぽ、紫のすみれを白紙で包んだものだ。

 春を感じさせる花々で可愛いと言えば可愛いし和ませるとは思うが、そこらへんに生えているものなので、有り難さや特別感は皆無だろう。


 無言でのこの体勢に、ますます耳が熱くなるのを実感しつつ、受け取る気配のない氷月に、枕元にそっとそれを置いて、とりあえず言いたい事は言ったと、腰を上げようとした時だった。か細い声で呼び止められたのだ。


 まさかもう実践してくれるのかと期待で胸を弾ませていたら。

 新聞を読んでくださいと願われた。


 これは甘えられているのだろうかと浮上と下降を行き来しながら、その願いを叶えるべく寝具の傍に置いていた今日の新聞に手を伸ばしたのであった。

 そうして読み続けて一時間経ったか経たないか。控えめな寝息が耳元を擽ってから、氷月の部屋を後にしたのである。




 その次の日。俺と仙弥が天紅家まで氷月を迎えに行くと、頬の腫れを引かせていた氷月が紅兄貴と仙兄貴と、つっけんどんに呼んだのである。


 正直、歓喜より落胆が勝った。せめぎ合った結果である。

 兄ちゃんとかおにいとかが良かった。

 無論、純粋無垢な満面の笑顔付きで。はにかみ笑顔も歓迎です。






 後日、今回の誘拐の首謀者が捕まったと警備兵に教えられた。

 色々罪を犯していたらしく、もう流刑島から出て来られない事も。

 少女と底冷え男が実刑を宣告され遠くの牢に入った事も。

 甦るのは、去り際に伝えられた嘘か本当か分からない二人の名前。

 杏梨あんり風早かざはやだった。












 申請書を出せば許可を貰い森の中に入って確認できただろうが、紅凪はそうしなかった。

 朽ちているかもしれない現実を見たくなかったからかもしれない。

 確かに鮮明に覚えてはいる。しかし、心の中に永遠に。などと、言えはしなかった。今。恐らく、当分は。



 残っていてほしかったのだ。





(…楽しんでるな)



 紅凪は首を動かして開けられている窓から庭へと視線を映し、手合わせしている仙弥と杏梨に声を掛けた。








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