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(五)夏の陣

(五)夏の陣


慶長二十年、多くの者が予想した通り、再びいくさが始まった。

健二郎は陣にはいない。天守閣にもいなかった。一人陣を抜け出して了海の庵に戻り、甲冑を脱いで僧衣を身に着け、仏の前に鎮座していた。

人の姿に戻れぬ事は、不幸な事ではあるけれど、堅く覚悟を決めたなら、かえってそれも面白い。人より強い体になって、おおいに暴れて戦いたい。面白い、人生じつに面白い。

過酷な行も、いよいよ最終日を迎えた。賊から命を救ってくれた健二郎のたっての願いを叶えるために、そして二人を真の夫婦にするために、了海は仏に向って一心不乱に経を読み続けた。

そして、ついにその時がやって来た。健二郎の肉体に、突然異変が湧き起こる。

(あんな小さな体をして、こんな痛みに耐えたのか)

自らの体を襲う激痛に、咲のことを思いやった。


伊達政宗の軍勢が、威風堂々と攻めて来た。黒で統一された軍装が粛々と進んでいく姿には、他を圧する威があった。政宗が馬上で手綱を操っていると、上空から巨大カマキリの飛翔音が聞こえてきた。

「来たな。ばけものめ」

三日月の前立ての兜の下で隻眼をきらりと光らせた政宗は、不敵な笑みを浮かべた。

が、次の瞬間、その表情は驚きに変わった。

なんと、巨大なカマキリは二匹もいるではないか。空を飛んでいるのが一匹、そしてもう一匹は天守閣の屋根にとまっている。

「中山様。そのお姿は…」

「咲。この事は自ら望んだことなのだ。そなたと同じ体になって、ようやく夫婦になれるのじゃ」

「なにゆえ、言うてくださらなかった」

「すまぬ。じゃが、言えば反対したであろう。わしは咲が羨ましくなった。大きな体で思う存分暴れてみたくなった。許せ」

咲は屋根から飛立って健二郎に近づいた。二匹の巨大なカマキリが、互いに後ろを追うように楕円を描いて旋回を始めた。

「眼下の敵は奥州の雄、伊達政宗。相手にとって不足なし。カマキリになって初めてのいくさじゃ。この体がいったいどれだけ強いのか試してみるのが楽しみじゃ。参るぞ、咲」

二匹のカマキリは急降下して敵に接近した。対する伊達の足軽は、臆することなく槍を揃えて応戦した。

健二郎は、予想していた以上に自分の体が軽いことに気を良くしていた。なんともいえず心地よい。鎌は鋭いし、機敏に動くことが出来る。

敵の突き出した槍の柄を、健二郎はすぱっと切って穂先を落とした。棒だけになった槍を握った奥州兵は、それでもひるまずに棒を振り回して攻撃してくる。さすがは手強い伊達の勢、剽悍なることこのうえない。

しかし二匹のカマキリは、大きな体を躍動させて次々と死体の山を築いていく。血飛沫が赤い霧のように広がり、胴体につながっていない手足があちらこちらに転がっていた。

左目だけを光らせた眼光鋭い政宗は、戦況不利と見てとるや、大音声を響かせた。

「退け、退け。ばけもの相手に無駄死にすること許さんぞ」

いくさ上手の政宗は、すばやく兵をまとめて引き上げる。そもそも今回のいくさは幕府の命令で出兵しているだけで、勝ったところで直接は伊達家の利益にならない。家康ごときのために、大切な自分の家来を失うのは馬鹿馬鹿しい。政宗は退却することに恥や後ろめたさを微塵も感じていなかった。


健二郎は興奮しきっていた。カマキリの体になって初めてのいくさで、武名の高い伊達政宗の軍勢を破ったのだ、まさに天にも昇るような気持ちになっていた。それなのに敵はあっさり逃げ去ってしまった。健二郎は物足りない。もっともっと戦いたい。

「行くぞ、家康本陣へ」

「敵情が分かりませぬ。家康本陣が今どのような状況になっているのか、知らずに行くのは危険です。真田様からのお使番を待って…」

「使番など、もはや来ぬわ」

「…」

「我らは了海和尚以外の人間とは話すことが出来ぬ。だから真田は我らに使番など出さぬ。だいたい、左衛門之佐に教えてもらわなくても、敵情くらい自らの目で確かめるわい。なにしろ我らは空の上から見下ろせるのじゃからな」

「たしかにそうです。しかし、家康の陣には伊賀の忍者がいるはずです。奴らの動きが読めませぬ。何やら罠があるやもしれませぬ。戦況が好転するまでは、行かぬほうがよろしいかと…」

「戦局が好転することは、…。ない」

この言葉が咲を沈黙させた。たしかにその通りと言わざるをえない。そもそもこのいくさは、大坂方が勝てないいくさなのだ。

「今行かなければ、いつ行くか。この場に及んで命など惜しくはない。それにカマキリとなったこの体に、戦う以外に何の価値があるというのだ」

「無駄死にするのは勇気にあらず」

「無駄に生きても意味がない。もし、このまま様子を見ていたら、その間にいくさが終わってしまうかもしれない。わしはそれを一番恐れているのだ」

「健二郎様…」

「たとえ体はカマキリでも、心は今でも武士のままだ。中山健二郎は武士なのだ。武士として思う存分暴れたいのだ。もはや人の姿には戻れない。出世して知行地を貰い、広い屋敷を構えて、家臣を大勢召抱えて、綺麗な着物を着て、美味しい物を食べて…。そんな浮世の幸せは、もはや無縁のものとなった。だが、戦って敵を倒す快感は、好きなだけ味わえるのだ」

二匹のカマキリは夕焼けに染まる空で旋回を続けている。

「咲を苦しめてきた板倉伊賀守、いや家康に、一矢報いてやらなければ、たとえ生きていたとしても意味のない命ではないか」

旋回していた健二郎は、進路を変えて東へ向かった。咲は無言のまま頷いて、健二郎の後を追った。二匹のカマキリが空を飛んで行く。その雄大な光景を、城方の兵も寄せ手の兵も、しばし手を止めて見上げていた。

やがて徳川方の大筒が、轟音を鳴らして火を噴いた。次から次へと火を噴いて空飛ぶカマキリを狙い撃った。しかしいくら撃っても当たらない。健二郎と咲は、弾道を予測して方向を変えたり高度を変えたりして巧みに弾を避けて飛んでいく。

はるか遠方に小さく金の扇の馬標が見えてきた。あそこが家康本陣だ、健二郎の全身にみるみる気力がみなぎった。

と、その時であった。

何やら黒っぽい固まりがいくつも現れて、地上から空中へと舞い上がって来た。その黒い何物かは、あきらかに健二郎と咲を目指して接近して来る。

だんだん近づくにつれて、空飛ぶ黒い物の形が見えてきた。角が一本、足が六本。カブトムシだ。それも巨大な体だ。おそらく健二郎や咲とほぼ同じ大きさだろう。

「あいつは敵か」

「おそらく伊賀者でしょう。カブトムシの化身になって、我らを襲う腹づもりに違いありません」

左から来た一匹が、立派な角をこちらに向けて健二郎めがけて突進してきた。健二郎は高度を上げて身をかわすと、左の鎌を背中に叩き込んだ。敵の動きは鈍い。攻撃は簡単に避けられるし、隙だらけだ。しかし全身が堅い殻に覆われていて、健二郎の鎌は撥ね返され、左手には鈍い痺れが残された。

「下から腹をえぐるか、顔面を突き刺すか、とにかく無駄撃ちせずに良く狙って急所を一撃するのです」

さすがは咲だ。一目で敵の弱みを看破した。敵の攻撃は単調で、まっすぐに角を向けて突撃して来るだけだ。ただその体は重厚で、後の世の言葉で言えば「重戦車」と表現できよう。二匹のカマキリは、カブトムシの突進に対して、低い姿勢で避けて下から反撃する作戦をとった。堅い殻の隙間を狙い、足の付け根や腹を下から刺し貫いた。

徐々に戦い方に慣れてきた二匹のカマキリは、次々とカブトムシの腹に鎌を刺し込んでいった。巨大な黒い塊が、一匹、二匹と落下していく。

しかし敵は数が多い。次から次へと襲い掛かってくる。一匹のカブトムシに対して時間をかけていては、別の奴に背後からやられてしまう。健二郎と咲は息つく暇もなく、敵を攻撃してはすぐに移動し、一箇所に留まることなく戦い続けた。

二人の羽は休むことなく羽ばたき続け、精神力と体力を限界まで出し尽くして、黒い敵を落としていった。あと二匹、あと一匹。荒い呼吸に耐えながら二人は力を振り絞った。一歩間違えれば、カブトムシの太い角がカマキリの華奢な胸を貫通するだろう。一瞬も油断できない状況で、敵の動きをしっかりと見極めてしのいでいった。

巨大なカブトムシと巨大なカマキリが、空の上で闘っている。この異様な光景を目にした地上の人間たちは、ただ呆然と見ているだけだった。

激闘は半刻ばかり続き、ついに最後の一匹を、咲の鎌が切り裂いた。やった、と叫ぶ気力さえ、もはや残っていなかった。近くに空き地が見えている。言葉も交わさずに健二郎と咲はその場に降りて一息ついた。披露困憊した二人は滝の汗を流していたが、充実感から笑顔が自然にこぼれ出た。

「中山様、お怪我はありはしませんか」

「幸いに傷の一つも負ってない。そういうそなたはどうなんじゃ」

「私も無事でございます」

二匹のつがいのカマキリは、お互いをいたわりながら寄り添った。夕陽が西に傾いて二匹の頬を赤く照らし出していた。

ふと見ると、咲の姿が艶っぽい。戦いで興奮しきった肉体の奥底から湧き出る色香に、オスカマキリである健二郎は激しく欲情を起こした。

「ああっ。いきなり何をなさいます」

「よいではないか、我らは夫婦。初めて同じ体となり、やっと夫婦の交わりが出来るようになったのじゃ。この日を長く待ちこがれ、ずっとずっと何年も待っていた。そなたが人に戻れぬのなら、わしが同じカマキリとなる。了海和尚に願い出て、今ようやく念願がかなったのだ」

「まあ、なんと中山様は好色な」

言葉でそうは言いながら、頬はうっすら紅潮して恥ずかしそうに照れ笑いをした咲も、まんざらではなさそうだ。健二郎は有無を言わさず咲の体にむしゃぶりつき、夫婦の契りにもちこんだ。快感が二匹の体を突き通し、愛情が夫婦の心を掛け巡った。健二郎は万感の思いを込め、体力の限りを尽くしてオスとしての責務に邁進した。咲は緑の体をくねらせて歓喜の声をあげた。声は絶え間なく続き、最後には絶叫になった。ようやく同じ体になれたのだ。二人の気持ちは通じ合う。

どれほど時が過ぎたのか、すっかり闇夜に包まれていた。昼は戦い、夜は交わり、疲れきった新婚夫婦は結合を解いて深い眠りに落ちていった。

夜が明けた。

「初夜」明けで、絆を深めたカマキリ夫妻は恥じらいながら見つめあった。しばし、目と目で愛情を確かめあっていたが、やがてきりりと心を引締めて侍の目を取り戻した。

二人は昨日の戦場跡へ情報集めに飛び立った。

「旦那様、あそこに転がる黒いのはカブトムシではないですか」

「ああ、あれか。行ってみよう」

戦場跡を発見すると、急降下して降り立った。昨日殺した敵の死体を確認すると、咲は溜息をついて天を仰いだ。

「こいつらは伊賀者自身ではありません」

「どういうことか」

「こいつらは本物のカブトムシです。伊賀者の妖術を受けて体が巨大化し、操られていたのです。そこいらの林で捕まえたカブトムシでしょう。自分たちは安全な後ろにいて、戦わせたのです」

「ならば昨日あれだけ戦ったのに、伊賀者を一人も討ってはいないのか」

「おそらくは」

「くそっ。臆病なやつらめ。だが、咲、このまま終わりではあるまい。伊賀者は必ず来るだろう。服部半蔵ほどの者がこのまま手を引くはずがない。次こそは虫など使わず、伊賀者自身が自ら攻めて来るかもしれない。その時は返り討ちにしてくれる」

と、その時であった。

激痛が健二郎の左の肩を襲った。見ると、十字の形の手裏剣が突き刺さっていた。

「分かってなさるな、その通り」

振り向くと、そこには天狗がいた。小天狗あるいは烏天狗といわれる種類で、鼻は高くはないが、烏のような大きなくちばしを持っている。一本歯の高下駄を履いて、山伏の装束を身に着け、背には大きな羽が生えている。こちらをにらみつける目は虎のように鋭かった。

次の瞬間、何かが光った。とっさに身を屈めたが、鋭利な手裏剣が次から次へと飛んで来た。咲はすばやく空へ逃げ、負傷した健二郎もやや遅れて飛立った。烏天狗も背中の羽をはばたかせて追いかけて来た。

戦いの場が空中に移っても、手裏剣は容赦なく飛んできた。

(妻の命を守らねばならない)

健二郎は、天狗と咲の中間にその身をもって行った。左肩の負傷箇所からは血が流れ激痛が続いているが、気力で飛び続けた。

手裏剣が続けざまに飛んで来た。一つは鎌でさばいたが、二つ目はさばききれずに健二郎の羽に突き刺さって破片が飛び散った。

天狗の体の伊賀者に、健二郎は蛮勇を奮って遮二無二近づいた。健二郎の左の鎌を難なくかわした伊賀忍者は、脇差しを抜いて腹を狙った。辛うじて中の足で防御した健二郎は、下の足で組みついた。手足が六本のカマキリは、四本の天狗よりやや有利だ。

巨大な天狗とカマキリが、折り重なって抱き合って、上になり下になり、くるくる何度も回転して、やがて地上に落下した。咲の悲鳴がこだまする。

地面の上でも組んずほぐれつ転がりながら、両者は死闘を繰り広げた。咲は夫を援護しようとしたが、両者の位置が目まぐるしく変わるので手出しが出来ない。

天狗の脇差が健二郎の腹を突き刺した。健二郎の顔が苦痛にゆがむ。だが気力を振り絞って天狗の腕を絞り上げた。天狗も苦痛で唸り声をあげる。健二郎は必死に体を入れ替えて上になろうとするが、敵も懸命に抵抗を続けた。

死闘の末、ついにカマキリが上になって、天狗を組み敷いた。馬乗りになったカマキリは、右の鎌を振り下ろすと、一撃で天狗の首は転がった。転がると、人の首に変化した。

「こやつの顔は知っている。服部半蔵の手の者だ」

それだけ言うと、健二郎はぐったりと倒れ込んだ。腹からは大量の血が流れ、呼吸は荒く、目はうつろになっていた。

「旦那様…」

夫に駆け寄る咲の目は、不安に満ちて潤んでいた。

「もうこれ以上は戦えぬ」

「何をおおせられますか」

「頼みがあるが、きいてくれ。わしはここで腹を切る。介錯を…、頼む…」

「なりませぬ。決して死んではなりませぬ」

「咲よ、今までありがとう」

咲には返す言葉がない。視線を落としてハッとした。健二郎の脇腹からは、破れた内蔵がはみ出ていた。深手を負ったその姿に、咲は初めて気がついた。先ほどの言葉を強く後悔し、誤りだったと瞬時に悟った。

死が不回避である以上、夫は武士としての名誉と威厳を守りたいのだ。命ある者、必ず死ぬ。死なない者はいない。少しばかりの「死の先送り」に意味はない。命に限りが有る以上、悔いのないよう生き抜いて、悔いのないよう死んでいく。それが夫の望みだろう。なぜなら夫は武士だから。咲にはそれがよく分かる。なぜなら武士の妻だから。人の体でないけれど、心は今も侍だ。咲は涙をこらえて健二郎の目を見つめた。

「こんな体をしていても、咲は今でも武士の妻。これより介錯つかまつる」

健二郎は姿勢を正し、咲はすっくと立ち上がる。二人の所作は舞踊のように美しかった。きちんと座る体力もほとんど残っていない健二郎だったが、気力をふり絞って、後肢を折り曲げて、背筋を伸ばして正座した。

ふうっと一息大きくついて、じっと空をみつめると、おもむろに右手の鎌を腹にあて、横一文字に切り裂いた。きれいに作法にのっとった武士の最期を演じきる。

「介錯を…、頼む…」

「…、御免」

咲はいったん目をつむり、涙にかすむ目を開くと、ゆっくりと右手の鎌を上げて、振り下ろした。夫の首が転がった。

中山健二郎、享年三十五。


了海の庵に戻った咲は、夫の首を持っていた。了海は目を閉じて数珠を持ち、静かに合掌した。

「拙僧が懇ろに供養するから、咲殿はしばしゆるりと休まれよ」

無言で涙をこらえつつ、咲は深く頭を下げて、かすかに声を絞り出す。

「私には、まだやることがありまする。裏庭に一晩置かせてくださいませんか」

「遠慮はいらぬ、心行くまで休まれよ」

その夜は静かに更けていった。了海が夜半にふと胸騒ぎがして目を醒ますと、裏庭から咲の大きな唸り声が聞こえてきた。

「いかがした」

「卵を産んでいるのです」

「なな、なんと」

「旦那様の忘れ形見となりましょう。こんな所に産みつけて、迷惑おかけしています。しかれども、安全に孵化できる場所は他にありません。卵が孵れば出て行きます。どうかそれまでお許しを」

「わしの事など心配無用。好きなだけこの庭におるがよい」

日が昇り、一番鶏が聞こえると、了海は咲の様子を見に行った。三尺ほどの泡の固まりがそこにあり、体力を消耗しきった咲がいた。巨大な緑のカマキリは、その目がきらりと輝いて、夫の仇を討つための武士の妻の顔になっていた。


本丸に東軍の人馬が殺到し、いよいよ最後の時が来た。咲は城に舞い戻り、天守閣の屋根に降り立った。鬼瓦の上で戦況を見つめて出撃機会をうかがった。

轟音が南の陣からこだました。咲を狙って大筒が放たれたのだ。大きな不気味な飛翔音が近づいて来ると、咲はひらりと舞い上がり、楽々弾から身をかわした。そして天守閣の周囲を旋回して、敵を見下ろしながら策を練った。

と、その時だった。

左の腰を激痛が襲った。真後ろから、鉄砲で撃たれたのだ。天守閣の中からである。

「大筒で天守閣が狙われるのは、あのカマキリがいるせいだ」、そんな言葉を吐く者が、城内には少なからずいるという。

左の羽に穴が開き、腰も痛めて降下する。墜落しないで無事に降りるのが精一杯だった。体はもとより、心も深く傷いて、本丸の前に降り立った。

ほっと一息つく間もなく、赤い具足の槍足軽が、穂先を揃えてやってくる。徳川譜代の井伊家の旗が見えてきた。最期の相手に不足なし。咲は鎌を振り上げて足軽の中に突っ込んだ。たちまち血飛沫が巻き起こり、無数の首が転がった。傷を負ったとはいえ咲の強さは健在だ。次々と敵を斬り裂いていく。

しかし敵は大軍だ。いくら死体の山を築いても、次から次へとやってくる。撃たれた腰の出血が、容赦なく体力を奪っていく。しかも昨夜は産卵だ。さすがの咲も息がきれ、動きが鈍くなってきた。

やがて敵は戦わず、距離をとって取り囲む。淀殿や大野修理亮の差し金か、お味方は一人もやって来なかった。真田の軍勢は遠く南に出撃していて、助けに来るのは困難だ。

鉄砲組がやって来て、片膝をついて弾を込めはじめた。疲労困憊した咲には、もう風を起こして火縄を吹き消す体力が残されているはずもなかった。天守閣からの銃撃で羽に穴が開いたため、飛んで逃げることもできない。

高価な鎧を身につけた大将が、馬上で鞭を振り上げて、大きな声を響かせた。ずらりと並んだ筒先が、鉛の弾を弾き出す。黒色火薬の破裂音が、白い煙を切り裂いた。

咲は両目を見開いて、耐え難き苦痛をじっと耐えながら、忍び難き敗北感を忍びながら、空の彼方に目をやった。白い雲が流れている。驚くほどに白かった。

槍組が穂先を揃えて前に出た。その時、咲は最後の力を振り絞り、目を怒らせて鎌を振り上げた。戦わずして悲鳴をあげて逃げる足軽の顔には、恐怖があふれ出ていた。

代わって弓組が前に出た。満を持して引き絞り、激しい弦音をたてて次々に矢を放った。緑の体に二尺五寸の矢が刺さる。全身にびっしりと矢が立って針鼠のようになった。それでも咲は倒れない。

「巴御前になろうとしたのに、最期の姿は弁慶か」

自嘲の笑みで、頬が緩んだ。

「旦那様に添い遂げられて、咲は幸せ者だった」

複眼の瞳から涙が溢れ出た。

緑の体に、赤い具足と槍の穂先が殺到し、羽が左右に飛び散った。

咲、享年はわからない。

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