(四)冬の陣
(四)冬の陣
いくさが始まってすでに半月が過ぎていたが、戦況に大きな変化は起こらない。難攻不落のこの城を、駿府の大御所は攻めあぐねているようだ。
健二郎にとっては、身の危険がないかわりに手柄を立てる機会もない。暇ができたので数日ぶりに了海の庵を訪れると、読経の声が響いていた。
袈裟を着た老僧と、人間と同じ大きさのカマキリが、二人並んで仏に向かっている光景は、二人をよく知っている健二郎の目から見ても妙な感じだ。咲は背筋をぴんと伸ばし、座布団の上で後肢を折り曲げて正座し、中肢で経典を広げ、前肢の鎌は合掌していた。なるほど手足が六本あると便利だと、健二郎は妙なところで感心していた。
咲と了海は祭壇に百目蝋燭を灯して一心不乱に経を読んでいた。何かの行をしているようだが、話しかけることも出来ない様子なので黙って見ているしかなかった。
それにしても咲と了海は、何の行をしているのだろうか。健二郎は気になりつつも二人に声をかけるができずに城内の侍陣屋へと戻って行った。
久しぶりに戦況が動いた。雲霞の如き寄せ手の軍は、功名手柄を求めつつ、なおかつ命を惜しみつつ、弱い敵を探しつつ、余裕を持って攻めて来た。
藤堂高虎の軍勢が城門に近づくと、塀の向こうに巨大な緑色の物体が動くのが見えた。それは旗でも幟でも馬標でもなかった。
「ばばば、ばけものだ」
悲鳴が周囲に伝播した。
そこにいたのは、見上げるような巨大なカマキリであった。身軽な動きで土塀を飛び越えると、大きな鎌を振り上げて藤堂の兵に襲い掛かった。両手の鎌の一振りで、三つの首が転がった。咲の体が躍動している。生き生きと楽しそうに暴れ回っている。鋭くて堅い鎌は、人間が作った甲冑など難なく切り裂いて鮮血を滴らせた。
この驚くべき情報を伝えるために、母衣武者が四方八方へと走り出した。しかし、「申し上げます。大きな虫が現れて…」という口上を聞いた諸将は、報告の内容を理解することが出来なかった。もっとも、理解出来なかったのは咲の姿を実際に見る前までの事ではあったが。
咲は翼を広げると、大きな羽音をたてながら大空高く舞い上がった。力強く羽ばたいて戦場の上空を飛んで行く。目指す地点は茶臼山、家康本陣だ。
徳川の旗本たちは、空を見て恐れおののいた。恐怖に顔をひきつらせて、散を乱して逃げ出した。あちらこちらで男の悲鳴がこだました。
咲は上空から家康を捜した。旋回しながら目をこらして地上を見下ろした。やがて有名な金の扇の馬標が咲の視界に飛び込んできた。
(ここだ)
咲の闘志に火がついた。高度を下げて接近しようとした。
「ばけものめ」
馬廻衆が騒ぎだし、大筒と無数の鉄砲の筒先が咲に向けられた。巨大なカマキリがいよいよ接近して来ると、鉄砲足軽大将は頬を真っ赤にして射撃準備の下知をした。足軽たちは青ざめながら弾込めを始めたが、手が震えていつもの作業が出来ない者もいた。
そこに咲が飛来した。低空に降りて留まり、翼で強く羽ばたいて強烈な風を吹きかけた。砂塵で足軽は目を痛め、烈風が火縄の火を吹き消した。鉄砲組は肝を挫かれ、あわてふためいて逃げ出した。
勇気を持って槍を向けた足軽もいたが、胴体を真っ二つに切断された。旗も幟もへし折られ、馬さえも倒され、家康本陣は大混乱に陥った。
弓足軽が勇気を持って矢をつがえ、鏃をそろえて引き絞る。それを見た咲は、翼をおもいっきり羽ばたかせて強烈な向かい風を吹きかけた。放たれた矢は逆風を受けて失速し、あらぬ方へと流れていった。あまりに強い向かい風に、足軽たちは二の矢を放つのをあきらめて、弓を抱えて退散していった。
咲の目に、「葵」の陣幕が見えてきた。陣幕の中には床几に座る武士たちが数名、いずれも高級品の甲冑を身につけている。その中でただ一人、陣羽織と小具足のみで、甲冑を着用していない白髪頭の老人がいた。
(家康だ)
咲の目が光った。
家康は必死に冷静を装っているが顔色は青ざめている。「あれは何じゃ」と周囲の者に問いただすが、答えられる者はいなかった。
「伊賀者じゃ。伊賀者を呼べ、今すぐに」
こんな時に頼りになるのは彼らだろう。早速五人の忍者が現れて、片膝をついて畏まった。いずれも一流の技量を持つ者どもだ。
「あのばけものを、何とかせい」
忍者たちは一礼するや、疾風のように走り去って行った。
健二郎は手にした槍を握りしめたまま、空を見上げて一心に咲の姿を目で追った。咲の体が数十倍の大きさになっていることには驚いたが、それ以上に、矢弾の中で戦う咲の身が案じられてならなかった。
そしてそのころ了海は、お堂に籠もって護摩を焚いていた。不思議な縁で結ばれた二人の武運を祈願するためである。
十字の形の手裏剣が、音もたてずに飛んで来た。矢よりも重い手裏剣は、翼の風では飛ばせない。急所に当たれば致命傷になるから、一瞬も油断できない。咲は手裏剣の軌道をしっかり目で追って、巧みに左右に身をかわした。
幸いなことに手裏剣の射程距離は長くない。咲は上空高くに舞い上がり、安全圏に逃げきった。
今日はひとまず引き揚げようと、大きく後ろへ旋回し、翼を広げて帰路についた。帰る場所は大坂城。悠々と天守閣を目指して飛んでゆく。
天守閣の上空に近づいた咲は、二回三回と旋回した後、ゆっくりと降下して鬼瓦の上に降り立った。大坂城の天守閣のてっぺんに、巨大なカマキリがとまっている。その勇姿に、大坂方も徳川方もあらゆる者が手を止めて唖然としながら仰ぎ見た。
「お城に守り神が降り立った」
城内では一気に士気が高揚し、兵の顔が引き締まった。
すでに本丸御殿の秀頼にも、巨大なカマキリが家康本陣を襲ったことは報告されている。聞き慣れぬ飛翔音を耳にした秀頼は、目を輝かせて御簾から飛び出した。中庭に面した外周廊下に出ると、右手に持った扇で、天守閣の咲を指し示した。
「皆の者、あれを見よ。天は我らに味方している。このいくさはかならず勝つ」
秀頼の力強い言葉を聞いて、太閤の盛時を思い出して涙する者も少なくなかった。
「中山健二郎殿は、おられるか」
「拙者が中山でござる。何か…」
「我があるじ、真田左衛門之佐が、貴殿に是非とも会いたいと所望している」
健二郎は耳を疑った。あの高名な真田左衛門之佐殿が、なぜ自分の名を知っている。まして自分に会いたいなどとは、全く考えられない事だ。健二郎はただ呆然として真田からの使者の顔を見つめるばかりだった。
真田左衛門之佐信繁またの名を幸村は、敵味方のあらゆる情報に通じている事から、地獄耳と評されている。幸村は、咲の活躍を耳にすると相好を崩して笑顔を見せた。
「あのカマキリがいる限り、お味方は決して負けはせぬ。おそらくは猛獣使いがいるのだろう。詳しく調べて参れ」
配下の忍者が、すぐさま健二郎の事を調べ尽くして報告を上げた。その上で幸村は健二郎を呼び出したのである。
真田の陣に足を運んだ健二郎は、驚くほどの厚遇を受けて幸村と対面した。真紅の具足に身を固めた幸村は、慈悲に満ちた表情で今までのいきさつ話に耳を傾けてくれた。
「中山殿は、あのカマキリと言葉を交わせると聞いたが、まことでござるか」
「はい」
「あのカマキリと兵たちがうまく連携してゆけば、もっと大きな戦果を得られるとはずじゃ。そのためには中山殿のお力が是非とも欲しい。我らとともに戦って欲しい」
健二郎は夢を見ているようだった。つい一ヶ月前までは都の浮浪者に過ぎなかった牢人者が、男として存在価値を認められ、働き場所を与えられたのである。意気に感じないはずがない。心が高揚しないはずがない。
退出した健二郎は瞳を輝かせて、天守閣の最上階へと向かった。
「咲、咲。聞いてくれ」
健二郎の声は弾んでいた。
三日後に早速出番がやってきた。加賀百万石の前田利常の大軍が、数を頼んでひた押しに押し出して来た。真田の軍勢がそれに当り、激しい射撃戦が始まった。
健二郎は天守閣の最上階で、咲は屋根の上で、真田軍から連絡があるまでじっと待機している。
「ふうっ。つまらん」
「ご不満ですか」
「下では、ああしていくさが始まったというのに、こんな所でただ待っているなど、つまらん」
「昨日までは、あれほど喜んでいらしたのに…」
「喜んだわしが愚かだった。わしは最前線で槍を振るいたかったのに、結局は伝令に過ぎないではないか」
「何を仰せられますか。誰にも出来ない立派なお仕事でございましょう。中山様の役まわりは、そこいらの一騎駆けの槍働きの何倍もお味方を利しているはずです。真田様には良くしていただいているのに、不満など言うたらバチが当たりますぞ」
「言われなくても、分かってるわい」
「私が、いつ、どの場所で戦うのが一番いいのか、私には分かりませぬ。いくさの玄人のご指示があれば助かります。中山様は、都にいたころも私の芸を支えてくださったではありませぬか」
咲の言葉はよく分かる。贅沢な愚痴だということも理解している。だが、都で芸人をしていたころは、段取りを全て健二郎自身がやってきた。今回は、咲の出撃についての判断を下すのは真田であって、健二郎は通訳に過ぎない。
「中山殿」
真田の使番が音もなくいつの間にか背後に来ていた。忍術の心得があるのかもしれない。
「咲殿にお伝えあれ、…」
使番は、咲の行くべき場所と作戦の目的そしてその注意点について健二郎に伝えた。咲には使番の言葉が聞こえているが、わざと理解していないそぶりをしている。健二郎がその言葉を伝えると、咲は大きくうなずいて、にっこり笑った。
「私が獲った首は、健二郎様が獲った首と思うてくだされ」
そう言い残して、咲は急降下して行った。
真田勢は正面きっての戦いを避けて、崩れたふりをしてわざと退却を始めた。前田の大軍は喜び勇んで追撃したが、それは罠だった。前田の軍勢は予定の場所へと、まんまと誘導されていたのだ。
隠れていた伏兵が突然姿を現した。次の瞬間、耳をつんざく射撃音が響きわたり、不意を突かれた加賀兵は、ばたばたと倒れた。
「謀られた」と、思ったまさにその時、上空から巨大なカマキリが飛来して来た。
「出たぁ」
浮き足立った加賀兵は一瞬で肝を挫かれ、一度恐怖に憑かれた心は、そう簡単には元に戻ることはなかった。
咲は鎌を振り上げて縦横無尽に暴れだした。面白いほど簡単に敵の首が落ちていく。咲が鎌を振るうたびに、首が三つ四つと転がった。あっという間の出来事だ。大損害を受けた前田の兵は算を乱して逃げ出した。
「あのカマキリがいる限り、我らは決して負けはせぬ」
真田左衛門之佐幸村は馬上で大音声を発し、日の丸の扇を高々と上げて大きく笑った。
危機感を持った家康は、謀臣の本多佐渡守正信を呼び出して対策を練った。
「佐渡守、いかがすれば良い」
「奴が戦場に現れぬようにいたします」
「調略か」
「御意。ばけもの使いの牢人は、宇喜多の旧臣、中山健二郎であることは、すでに調べがついております。さすれば中山についての悪い噂を流します。誹謗中傷、嘘八百、とにかく何でも構わぬから、淀殿付きの侍女に吹き込みます。淀殿の耳に入れば、秀頼も諸将も無視するわけにはいかないでしょう」
「佐渡守、おぬしも悪よのう」
「いえいえ、大御所様ほどではございません。中山がこのまま真田に見込まれて、重用され続けるのだけは、何としても防がねばなりません。そのためには、…」
「半蔵のせがれか」
「御意。服部殿のお力が必要です。くのいちを淀殿のお側近くに送り込んで、噂を広めてもらいましょう」
健二郎が中庭で待機するよう言われたのは、前田勢を蹴散らした次の日のことだった。戦勝に気をよくした秀頼は、「その者に会いたい」と強く所望したという。
無位無官の健二郎が、右大臣の官位を持つ秀頼に拝謁することは出来ない。ただし抜け道がある。このような場合、「庭で草木の手入れをしていたところ、偶然、右大臣秀頼が通りかかって、そこにいた者に声を掛けた」という形式をとるのである。
健二郎が躑躅の脇で片膝をついてうずくまっていると、庭に面した外周廊下を華やかな衣装を着た十人ほどの行列が進んで来た。男もいれば女もいる。健二郎はあわてて頭を下げて目の前の地面に視線を落とした。
「おや。そこにおるのは、中山健二郎ではないか」
首相格の大野修理亮治長が、予定通りの言葉を掛ける。
「ははっ。中山でごさりまする」
「上様。この者が、大きな虫を操る者でござる」
「そうか、そなたか。苦しゅうない、おもてを上げよ」
「ははっ」
健二郎は平伏しながらも、わずかに秀頼の姿を見ることができた。二十歳を過ぎた立派な体躯の若者であった。
「そなたの働き大儀である。いくさが終わったら、一万石を与えるぞ」
健二郎は、驚いた。だがそれ以上に驚いたのは、側に控える淀殿と大野修理亮であった。
「上様。そのように簡単に知行地を与えしまっては、みなに示しがつきませぬ」
大野は眉間にしわを寄せて甲高い声を張り上げた。
「控えぃ、中山。恐れ多いぞ辞退せよ。家柄もなく兵も持たぬおぬしなど、二百石が関の山。ましてや、ばけものを使うなど、豊臣の家を傷つける者。恥ずかしいとは思わぬか」
「黙れ修理亮。差し出たことを申すでない。知行を家来に与えるは、予の専権の事柄じゃ。口挟なむど、許されぬ。この中山とカマキリが、どれほど大きな働きをしてくれたのか分からぬのか。あのカマキリがいる限り、我らは決して負けはせぬ」
「母の言葉も聞きなさい。修理亮殿の言う通りじゃ。ばけもの使いを大名に取りたてるなどと、とんでもない。我らもばけものの同類と、世の者どもに笑われるわ」
母親からきつく言われると、天下の右大臣が黙り込んだ。しばらく気まずい沈黙が流れ、それを嫌うように淀殿が足早にたち去ると、侍女たちも急ぎ後を追った。秀頼も彼女らに引き摺られるように健二郎を置き捨てて行ってしまった。
「中山、さがれ」
一人廊下に残った大野に言われて、健二郎は中庭を去った。体は疲れていないが心の疲れがどっと出て、足腰がぐらぐらするような気がした。
豊臣家が天下を回復できなければ、一万石など口約束にすぎないことぐらいは健二郎も分かっている。はなから期待などしていないが、秀頼公がそう言ってくれたことは素直に嬉しい。
それにひきかえ、淀殿や大野の態度はなんと不快なことだろう。獅子奮迅の活躍をした咲のことを、迷惑だとでも言わんばかりで、労をねぎらう言葉もない。
たとえ一万石をもらっても、あの体になってしまった咲には御殿の大名暮らしは望めない。戦って死ぬつもりでいた健二郎は、いくさの後のことなぞ考えてもみなかった。身の振り方を考えて、ふと愕然と目をつむる。
(大名になれなくていい、それよりも…)
健二郎は考えた。自分と咲はこれからどのように生きていくべきか、一晩寝ずに考えた。
和議の話が起きたのは、咲を狙った大筒の弾が淀殿の侍女の部屋に落ちてからのことだった。戦国乱世を生き抜いてきた百戦錬磨の家康は、硬軟使って揺さぶりをかけ、頭脳を冷静に回転させて、将棋の「玉」を詰むように巨城の主を追い詰めていく。
ここ数日、昼も夜も大筒が鳴り続けて、睡眠不足と不安から淀殿は精神不安に陥っていた。そこへ徳川方からの和議である。淀殿は和議の話に飛びついた。
和議にあたっては、徳川方から二つの条件が提示された。一つ目は、「巨大なカマキリを追い払え」という事である。二つ目は、「外濠を埋めよ」という事であった。
さっそく評定が開かれ、喧々諤々の議論がなされた。
一つ目のカマキリの追放には、淀殿は異存がない。むしろ渡りに船で、気味の悪い巨大カマキリなんぞ、いなくなって欲しいと思っていた。
しかし異を唱える者がいた。秀頼である。母親に激しく抵抗し、「咲の追放は絶対に認めない」と頑なに拒否した。産まれてこのかた母親に一度も反抗した事のなかった秀頼が、このような強い自己主張を見せた事は周囲を大いに驚かせた。
淀殿はなんとしても和議をしたい。日夜鳴り続けている敵の大筒が、一日も早く沈黙してくれればそれで良かった。しかし、咲の追放を秀頼が強硬に反対している。と、すれば、もう一つの条件「外濠を埋める」を受け入れる以外に道はなかった。
土塀が次々と壊されて濠へと放り込まれていく。和議が成立してもそのまま居座っていた東軍の足軽たちは、甲冑を脱いで人足となり、モッコを担いで土を運び、建物を壊して残骸を濠の中へと放り込んだ。大坂城の長大な濠が、みるみるうちに消えていった。さらには取り決めになかった内濠までも埋め尽くし、驚くほど短い日数で城は裸城になった。
このころ、大坂城内での咲の評価は二分されていた。最大の功労者であると賞賛する者が多くいる一方で、激しい憎悪と反感を抱く者もいた。
健二郎は暇を持て余していた。いくさが止んで用済みになったら、どうすればいいのだろうか。この先どうやって暮らしていけばいいのだろうか。例の一万石は、現実には無理だろう。
健二郎と咲の身辺に変化がないままに、つかの間の平穏な日々が続いていた。菜の花が咲き、梅が咲き、桜が咲き、そして若葉の季節になった。
健二郎には政治のことなど分からない。だが、近いうちに再びいくさが始まるであろうことだけは分かる。
(その時には…)
咲には黙っているけれど、健二郎には固い決意でやると決めた事があった。