(二)京
(二)京
「近ごろ五条大橋の近くに、珍奇な見世物が現れるそうな」
「これはこれは。すでに所司代様のお耳にまで達しているとは恐れ入ってござる」
「わしを誰だと思っている、この板倉を侮るでないぞ」
「ははっ」
「見たか」
「はい。噂はまことでございます。身の丈わずか一寸の、若いきれいな娘でござった。作り物ではござらぬ。我が家中の雛人形の半分にも満たない大きさじゃが、からくりではなく、まぎれもなく生きている人間でござった。それがまた、天女のような澄んだ声で、唄を謡いまする。それを聞くともう、浮世の憂さも忘れて…」
「楽しそうじゃのう」
「いえ、滅相もない」
「して、その勧進元は何者じゃ」
「わかりませぬ。西国の訛りがある若い男で、物腰からは武士であったようにも思われます」
「西国の牢人か。大坂と繋がっているかもしれぬ。すぐに身元を調べて参れ」
「ははっ」
少し歩くとすぐにじんわりと汗が染み出てくる初夏の暑さも、日が傾くと一段落する。これがあと半月もすれば、日が落ちても蒸し暑さが残るようになるだろう。健二郎は額の汗を拭うこともなく、家路を急いだ。
格別に急ぐ理由があるわけではない。しいて言えば、瀬戸内産の魚の干物が、思いがけない安値で手に入ったことが嬉しくて、一刻も早く咲に見せたかった。近頃は都にいても東国や西国の物産が手に入り易くなった。健二郎は久しぶりに故郷の魚を目にして、おそらく食したことがないであろう咲に味わって欲しくて、いてもたってもいられなくなっていた。
編笠を被り竹籠を背負って家路を急ぐと、川原に建つ粗末な小屋が見えてきた。思わず歩みが速くなる。
「今帰ったぞ」
「おかえりなさいまし」
「咲。今宵は魚ぞ。わしの在所の魚が売っておった。咲にもこの味を知って欲しい」
健二郎は腰をおろすこともなく、一服の水を飲む間も惜しんで厨房に向かった。武士だった頃には手に触れたことさえなかった包丁や鍋のあつかいも、今ではすっかり手馴れたものである。
健二郎の分は大皿に、咲の分は杯に、同じ料理を盛り付け終わると、健二郎は咲を呼んだ。今宵もいつものように二人で夕餉を摂る。昨日も一昨日も、そして明日も明後日も、同じ暮らしが続いていく。
咲の芸事によって生活の糧を得ることに、健二郎は最初は抵抗を示した。女に食わせてもらう、など武士の誇りが許さなかった。だが、主家の宇喜多も取り潰され、国許では親も親族も離散して、乞食か強盗をするしか生きる道はない。その時、咲はこう言った。
「わたくしは、ただ唄うことしかできませぬ。場所をとって、人を集めて、銭まで取るなど、相当の器量を持った人でなければ出来ないことです。中山様ほどの人物でなければ難しいでしょう。お願いします、どうかわたしを助けてください」、と。
生きていく希望を失った健二郎は、咲の姿を見ることだけが心の支えだった。一寸の体を懐に入れて、あるいは肩の上に載せて、なんとか飢え死にすることなく都にたどりつくと、いつのまにか今の生活が始まっていた。やがて生活が軌道に乗ると、健二郎に笑顔が戻った。
井戸の水汲みから、炊事、洗濯、かつて雑人にさせていた労働も厭うことなく、むしろ楽しんでやるようになった。
「この九月で十年になるな」
この生活が始まってから、過去を振り返る言葉を発したことのなかった健二郎が、珍しくそう漏らしたのは、やはり十年という区切りを意識したからかもしれない。
咲は箸を止めて、じっと歯を食いしばって、健二郎の目を見詰めた。
いつもとは違う咲の様子に、健二郎も箸を置いた。
「折り入って、お話ししたき儀があります」
無言でうなずいた健二郎は、咲の瞳から目を逸らさずに、自らの気持ちを引き締めるべく姿勢を正した。
「わたくしは、前世で夫を裏切った業深い女です。地獄で閻魔大王の裁きを受け、下された沙汰はカマキリでした。そう、輪廻転生での次の産まれ替わりがカマキリです」
「前世のことを、憶えているのか」
「普通なら、前世の記憶は産まれ替わる時に消えてしまいます。しかし、わたくしの罪は特に深いものでした。閻魔様は、人として生きた前世の記憶を留め残したまま、カマキリとして生き続ける、という特別な罰を下されたのでした」
「なんと…」
「産まれて死んで、また産まれ、何度も何度も繰り返し、やっと中山様に逢えました。罪多き前世を償う事により、はじめて人に戻れると、閻魔大王から言い渡されてから百年。ついに機会を得たのです。あの時お堂に現れた中山様を一目見て、このお方だとすぐわかり、愕然としたのでございます。カマキリとして産まれて以来、私の言葉は人の耳には聞こえません。しかし中山様だけは、私の言葉を聞きました。不思議な事に我が体、その夜のうちに姿を変えて人の姿になりました。しかれども、いまだ小さなこの体。一人前の人間と認めてもらえはしないでしょう。閻魔様から言われたのは、『人の姿になっても、大きさはカマキリのまま十年留めおく。十年間、償い続けていくならば、人間の大きさに戻れる』と。今年の九月で十年になりまする。あと三月、出来うる限りのまごころで、お仕えしたいと存じます。唄う以外に何も出来ない我が身がはがゆくて、それなのに、これほどまでにしていただいて、咲は幸せ者でございます」
「何を言う。そなたがいなければ、わしはとっくの昔に野垂れ死んでおったわ。そなたは命の恩人ぞ」
「もったいなきお言葉」
「それにしても、虫となって耐えて忍んだ百年を、そなたはどんな思いで過ごしてきたのか、わしには想像もつかぬ。いっそ虫なら虫らしく、前世の人の記憶など無くしてしまえば楽なのに、憶えていながら生かされるなど、いかに閻魔の沙汰といえ、あまりに酷いこの仕打ち。閻魔大王の奴、許せん。あの世に行ったら、わしがこの刀で一刀両断してやるわ。まあ、そうしたら殺された閻魔は地獄に落ちるのかのう。すでに地獄にいるのだから、地獄のまた地獄というのがあるのか、それとも極楽にでも行くのか、極楽送りじゃ殺した甲斐がないのう」
「ふふふ」
「ははは」
「咲よ」
「はい」
「そなたの体が大きくなったら、祝言を挙げよう」
「えっ」
「正式に夫婦になろう。一緒に街を歩こう。祭りにも行こう。もう侍に戻る気はない」
「わたくしのような者に、もったいのうございます」
「なんだ。嬉しくないのか」
「滅相もない。咲は、咲は。とっても、嬉しゅうございます」
「おい、泣くな。いや、泣いてもよい。夫婦になれる日が来るのを、わしも心から待ちわびているぞ」
外ではまだ日が沈みきっていない。戸の隙間から差し込む初夏の西日が、咲の座っている少し後ろを赤々と照らしているのが、健二郎の目にはいつもよりも眩しく見えた。
「見世物小屋の勧進元は分かったか」
「はい。伊賀者に調べさせました。関ヶ原で改易になった宇喜多の牢人で中山健二郎」
「宇喜多牢人じゃと。これはまた穏やかでないな」
「奴は親類縁者とも、宇喜多の旧臣とも会っている様子はなく、自分の食い扶持を稼ぐだけで精一杯。川原に掘っ立て小屋を建て、ほとんど乞食とかわりなし。ご政道に障りが出るとは思えませぬが…」
「大御所様が怪しげな見世物を毛嫌いしている事は知っておろう。民の心を惑わし、浮華なやり口で銭金を稼ぐ不逞の輩を野放しにすれば、人心は腐敗し、世は乱れ、再び元亀・天正の世が再来せぬとも限らぬ。大御所様はそういう風紀の乱れを嫌うのだ」
「ははっ。して、いかがいたしましょうや」
「わしからは何も言わぬ。全てそちに任せる。大御所様のお気持ちが安んじられるよう心掛けよ。くれぐれも、それだけは忘れるでない」
「ははっ」
今年の梅雨はいつもにも増して長かったが、明けた途端にうんざりするほどの暑さが都を覆った。さらに立秋を過ぎても茹だるような残暑は続き、人々は夕刻になると涼を求めて河原に出たが、期待に反して吹く風は生温かった。
上方の町人は今なお豊臣家の威光を忘れてはいない。五条通りの賑わいは太閤在世の頃と少しも変らず、市には物産が溢れ、街を行き交う商人や武士や僧侶は途切れることがなく、日が落ちるまでその賑わいは続く。
(もうすぐ咲は大きくなる)
そう思うと不思議なことに、目に入る物の全てが美しく見え、耳に入る音のすべてが心地よく聞こえた。
健二郎は咲と出会ってからの九年間、一度も女を抱いていない。都には美しい女はたくさんいるが目もくれなかった。ましてや遊女など論外だった。かといって、咲との交わりはもちろん不可能で、ただひたすら小さな一寸の姿を見つめて愛しんできた。
咲の体が大きくなれば男女の契りが可能になる、その事に気がついた時、不覚にも股間が膨らんでしまった自分を秘かに恥じた。咲に悟られることを恐れ、「こらっ、鎮まれ」と自らの「男」に心の中で言い聞かせたが体はいうことを聞いてくれない。我ながら煩悩の塊だと苦笑せざるえない。
少し歩くとじんわりと汗が染み出てくる初秋の残暑は、日が傾いても一段落することはない。これがあと半月もすれば、日没後はしのぎ易くなるだろう。健二郎は額の汗を拭いながら、家路を急いだ。
格別に急ぐ理由があるわけではない。しいて言えば、東国の山菜が思いがけない安値で手に入ったことが嬉しくて、一刻も早く咲に見せたかった。近頃は、都にいても東国や西国の物産が手に入り易くなった。健二郎は馴染みのない山菜を目にし、おそらく食したことがないであろう咲に味わって欲しくて、いてもたってもいられなくなっていた。
網笠を被り竹籠を背負って家路を急ぐと、川原に建つ粗末な小屋が見えてきた。思わず歩みが速くなる。
「今帰ったぞ」
「おかえりなさいまし」、という声は聞こえない。
小屋の中は、泥にまみれて汚れきっていた。何者かが泥草鞋で闖入し、荒らし回っていったのだ。鍋はひっくり返って囲炉裏の灰にまみれ、竈にはひびが入り、皿は割れて粉々になって散乱していた。食膳は無造作に放り投げられたように横倒しになり、釜には槍で突いたような穴が開いていた。
「咲、咲、咲。どこにいる」
健二郎は茶碗の下を確認し、割れた皿の後ろも確かめ、厠の穴も覗いて見たが、咲の姿は見当たらない。
「咲、咲、咲。どこにいる。返事をしてくれ」
声の限りに叫んだが、次の瞬間には空しいほどの静寂がその場を支配した。健二郎は目は真っ赤に充血させて、部屋中の考えうる限りの場所を確認した。しかし、そう広くもない小屋のこと、少し前に見たばかりの場所を二度も三度も見てしまうが、やはりいない。
「咲、咲、咲。どこにいる」
何度叫んでみたところで、次の瞬間襲ってくるのは、恐いばかりの静寂だ。全身から滝のように流れ出た汗は玉になって床を濡らし、心臓は倍の速さで脈をうった。叫び疲れた健二郎は、やがてへたりと尻餅をつき、そのまましばらく動けなくなった。
それからの三日間、健二郎はありとあらゆる可能性を考え、思いつく限りの事をした。しかし咲は見つからない。
次の三日間は、小屋に引き篭もってひたすら泣き暮らした。あまりに頻繁に涙をぬぐうものだから、目尻のまわりと鼻の下の皮膚が赤く炎症を起こした。
さらに三日が過ぎると、泣くことさえもしなくなった。まるで木像のように、何もしないで、いつまでも座り続けた。
東山の美しい紅葉も、すでに心が停止してしまった健二郎の目には入らない。人々が愛するという都の晩秋も、健二郎にとっては、早朝の冷え込みが身に染みる季節でしかなくなっていた。
稼いだ木戸銭を使い果たし、腰の刀も金に替え、咲との思い出の詰まったあの小屋を捨て去って、五条大橋の橋脚に居ついていた。髷など結わぬサンバラ髪で、無精ひげを伸ばし、骨と皮とに痩せこけていた。
健二郎はふと思う。
(長い夢を見ていたのかもしれない)
百姓の鎖鎌に追われて、息も絶え絶えに朽ちた古寺に逃げ込んだ。そこでそのまま眠りこけ、奇妙な夢をずっと見続けていたのではあるまいか。咲など初めからいなかったのではないか。カマキリが人語をしゃべったり、小さな人間が現れたりするはずがない。
体の反応も頭の回転も全てが緩慢になっている。きっと鈍くなっているから生き続けていられるのだろう。鈍感と無気力こそが、精神が崩壊するのを防ぐための唯一の防御機能かもしれない。健二郎の顔からは喜怒哀楽が消え失せた。
「あんさん、何年か前に、一寸くらいのちっちゃな娘に唄、謡わせてたお人やね」
健二郎と同じような汚い身なりをした浮浪者が、突然話しかけてきた。健二郎は首を縦にも横にも振らず、目の前の中年男を無視して川面から視線をそらさずに無言でいた。男は構わず続けてきた。
「最近見んようになったなあ、思うてたら、こんな所にいてはったんやな」
「うるさい。あんたには関係ない」
「あのちっちゃい娘なあ、二条城におるで」
「何、…」
「所司代の板倉伊賀守がさらってきて、鳥篭に入れて飼うてるらしいで」
健二郎の両手が、男の襟に乱暴に絡みついて激しく首をゆすった。
「飼う、だと。咲は人間だ。言葉に気をつけろ、変な言い方したらぶっ殺すぞ」
「わてが言うてるのと違いますねん。みんなが言うてますねん。今、洛中ではもっぱらの噂でっせ」
「出鱈目ぬかすと許さんぞ」
「でも、あの娘にとっては良かったんと違いますか。あんさんみたいな貧乏牢人よりも所司代のもとで、うまいもん食って…」
飛んできた拳が、京言葉を途中で遮った。流れ落ちた鼻血を拭う間もなく、首根っこを掴まれた男は、晩秋の鴨川の冷たい水に叩き落とされた。しばらくは白い水飛沫の中で無意味に手足をバタつかせていたが、徐々に下流に流されていき、やがて見えなくなった。
(咲は本当に二条城にいるのだろうか)
不愉快な中年男を川に突き落とす前までは、何一つ考える意欲もなかった健二郎だったが、最近は橋の上の通行人の会話に耳を傾けるようになった。どうやら怒りの感情は人を能動的にさせるらしい。
橋の下に居座って、ひたすら聞き耳をたてていた健二郎は、奴の言っていた事が本当だと知った。だとすれば、敵はとてつもなく大きい。京都所司代、板倉伊賀守勝重などは、その手先に過ぎない。敵は駿府の大御所だ。そう、主家の宇喜多家を滅ぼして健二郎から生活の糧を奪ったのもまた家康ではないか。健二郎はこの時、復讐すべき敵をはっきりと認識した。
とはいえ、二条城に忍び込んで咲を奪回することなど出来るはずもない。何ひとつ現実的な対抗策を考えつくことが出来ずに悶々としていた健二郎だったが、やがて大坂の豊臣家が牢人を募集し始めたことを耳にした。
(そうか、大坂がある)
長らく無為に日を過ごしていた健二郎に、何らかの行動を起こす目標が見つかった。このままずっと橋の下にいても、飢え死にするのは時間の問題だ。人間、どうせいつかは死ぬのだ。どうせ死ぬならこんな所で朽ち果てるより、甲冑に身を堅めて槍を持ち、武士らしく戦って討ち死にするほうがずっとましだ。
武士を捨てたはずなのに、いつの間にか武士の血がふつふつと沸き上がっていた。亡き太閤とその遺児への思いは何もないが、そんな事はどうでもよく、戦場に出る機会が得られるのなら、それでよかった。
健二郎は淀川を下った。