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(一)美濃

揺籃社清水工房tel 042-620-2626 より出版されamazon で好評発売中

(一)美濃


青竹の水筒を逆さにしても、一滴の水も落ちてこなかった。

健二郎は水筒を投げ捨てると、用心深く周囲を窺った。静まり返った闇夜に、満月を少しだけ過ぎた下弦の月が、情け容赦なく健二郎の顔を照らした。月の光が怖ろしいなどと思ったことは、今まで一度も経験したことがなかった。

笹の葉が擦れる音がすれば、百姓の落ち武者狩りではないかと怯え、遠くに小さな火が見えても、東軍の残党狩りではないかと怯えた。

光も音も、何もかもが、とてつもなく怖ろしく感じられた。

健二郎には政治の事など分からない。分かりたくもなかった。人が死ぬ悲惨さなど、たかが知れている。だが、人の心の卑しさをこの戦場では嫌というほど見せつけられた。

お味方だったはずの小早川の兵が横っ腹になだれ込んで来た時には、常日頃偉そうにしていた二千石取りの侍大将が、兵たちを省みることなく真っ先に遁走したのには驚いた。だがゆっくり驚いている暇などなく、大将を失ったお味方の足軽は、あっという間に四散して、やがて西軍そのものが総崩れになった。

健二郎は訳が分からぬまま夢中で走り回っているうちに、気がつけばあたりはすっかり暗くなり、いつの間にか一人っきりで闇夜をさまよっているのだった。

どれくらい歩いたことだろう。眼下に集落の灯が見えてきた。

久々に人々の日常生活の匂いを感じた健二郎は、無性に飯が喰いたくなった。命の危険にさらされている間はすっかり忘れていた空腹感が全身を襲ってきた。

粥の一杯でも恵んでもらおうと思った健二郎だが、すぐにその考えを改めた。関ヶ原での東軍の勝利は、すでに近隣の百姓にも知れ渡っているはずである。とすれば、いかにも落ち武者然とした自分の姿を見て百姓どもはどうするだろうか。

首を取って恩賞にあずかろうとするにちがいない、そう思った刹那、身震いするほどの嫌悪をおぼえた。命が惜しいからではない。名のある武者と勝負して命を落とすなら、何の未練も残さずに三途の川を渡れるだろう。だが、落ち武者狩りにかかっては名誉も何もありゃしない。

健二郎は腰の刀に視線を落とした。すでに鎧も槍も旗指物も、戦場を離脱する時に捨て去っていたが、唯一腰の刀だけは捨ててはいない。

健二郎はまだ人を斬ったことがない。初陣だった一昨日の戦場でも一人の敵も討ち取っていない。ただ逃げ回るばかりで今に至っている。侍相手には逃げてばかりいたくせに、無抵抗の哀れな百姓を殺そうとしていることに、少しばかりの罪悪感をおぼえたが、他に腹を満たす方法を思い浮かべることができなかった。

茅葺屋根が下弦の月に照らされて、軒の干柿がかすかに揺れている。足音を忍ばせて慎重に近づくと、健二郎は中を窺った。薄汚れた野良着を着た中年夫婦と、十四、五くらいの少年が、囲炉裏を囲んで粥をすすっている。

健二郎は、ゆっくりと息を吸ってから刀を抜いた。心臓が早鐘のようになり、息が苦しくなった。なんとか気持ちを落ち着かせようと、右手の刀身をじっと見つめると、少しだけ勇気が湧いてきた。覚悟を決めて、刀を持っていない左手で、おもいっきり戸を曳いた。

かたかたと情けない音をたてたが、しかし戸は開かない。健二郎は眉間に青筋をたてて、足を上げて蹴り破った。

埃が一通り舞い上がった先には、鎖鎌を手にした男と女と少年が、射るような眼光でこちらを睨み付けている。

三人は無言のまま、鎖鎌の分銅を小さく回し始めた。

「か、粥を恵んで欲しい。三日前から何も喰っていない。たのむ」

「これはなあ、朝から晩まで働いて、やっと喰える粥なんだ。お前なんぞに喰わせる分は、一粒たりともありゃしねえ」

分銅が唸りをあげて飛んできた。危うく一歩飛び退くと、今度は右から飛んできた。刀を使って防御するわけにはいかない。刀に鎖が絡んだら、もうそれで終わりだ。鎖鎌とは何と恐ろしい武器だろう。

健二郎は後ろを見ることもなく脱兎のごとく逃げだした。走って走って走り続けた。逃げても逃げても、後頭部を分銅で粉砕されるかもしれない恐怖を拭い去ることができなかった。

一町ばかり走ってようやく少し安心したのか、忘れていた疲労が一気に押し寄せてきた。竹薮の中に倒れ込むと、自分が生きているのか死んでいるのか、分からなくなっていた。

(ここは冥土へ続く道なのだろうか)

鎖鎌の分銅が飛んで来たことまでは憶えているが、鎌で首を斬られたり、分銅で頭を割られたという記憶はない。それにこの呼吸の苦しさと脚の疲労はどうだろう。すでに魂魄が肉体から離れてしまっているのなら、このような肉体の疲れを感じるはずがない。おそらくは、まだ生きているのだろう。

少し落ち着いて夜空を見上げていると、徐々に目が闇に慣れてきた。闇の先にじっと目を凝らすと、竹薮の向こうに何やら小さな建物があるように思えてきた。

(とにかくあそこまでは行こう。そこで殺されるなら、それまでだ)

健二郎は腹をくくった。一歩ずつ、今度はゆっくり歩き出す。それが地獄へ続く道か、それとも故郷へ帰りつける道か、もうそんな事は、どうでもよくなっていた。


疲れ果てた体を限界まで酷使してようやくたどりついたのは、荒れ果てて捨て置かれた小さな古寺だった。中に誰かいないか注意を払いながら、健二郎はゆっくりと本堂の中に歩を進めた。

闇に慣れた目を凝らして見れば、正面の壁に古びて色あせた掛軸が掛かっていた。描かれているのは阿弥陀如来で、仏像が安置されていないところをみれば、この仏画がご本尊らしい。

健二郎は、どっかりと腰を降ろして、やがて大の字に寝そべった。今夜は雨風を凌げる室内で横になって寝ることができる。

(地獄で仏とは、このことだ)

常日頃それほど信心深いとはいえない健二郎も、この時ばかりは仏の慈悲を心から感謝したいと思った。

ふと見ると、仏画のすぐ脇に大きな蜘蛛の巣が張っていた。五寸ほどの大きさで、糸に絡め取られたカマキリが懸命にもがき苦しんでいる。

(こんな所に蜘蛛の巣があるんじゃ、美しい阿弥陀様が台無しじゃ)

自分を助けてくれた仏様を汚された、という軽い憤りを感じた健二郎は、おもむろに立ち上がって、蜘蛛の巣を乱暴に払いのけた。蜘蛛はあわてて天井へと逃げ、糸を脱したカマキリは床へと落下していった。

「危ないところを助けていただき、本当にありがとうございます」

若い娘の声だ。

緩んでいた警戒心が、再び健二郎の全身を覆った。

「何者じゃ。どこにおる。姿を隠して声かけるなど、怪しい所業ではないか」

健二郎は刀の柄に手を掛けて、前後左右を見渡したが周囲には誰一人いなかった。

「お武家様には、私の声が聞こえているのでございますね」

「だから、どこにおる」

「すぐ足元におりまする」

声のする方、足元に視線を落とすと、先ほどのカマキリがじっとこちらを見上げている。気のせいか、つぶらな瞳が何かをうったえている。

(これはいかん)

虫がしゃべるはずがない。極度の疲労が心を蝕み、空耳まで聞こえるようになってしまったようだ。

(とにかく今はゆっくり寝て、心と体を休めることが肝要だ)

健二郎は再び横になった。やがて押し寄せた疲労が全身を覆い、気絶するように深い眠りに陥った。


目覚めた時には、すでに日が高くなっていた。健二郎は上半身を起こすと大きく伸びをした。屋根のある場所で寝たのは何日ぶりだろう。溜まっていた疲れが少しだけ抜けて、蔀戸の隙間から差し込む細い日の光が心地いい。

「お目覚めですか」

昨夜の娘の声だ。あわてて立ち上がった健二郎は、声の聞こえた方向を見て小さく声をあげた。目を見開いて、それ、を凝視した。今自分が見ているものが信じられない健二郎は、息を大きく吸い込んだ。

そこには、身の丈わずか一寸の小さな人間がいた。赤い小袖を清楚に着こなし、武家の娘らしく、きりりとした目をしている。

「そなたはいったい何者じゃ」

「咲と申します」

健二郎はゆっくりとしゃがんで、掌を娘の足元に差し出した。娘は、よいしょ、と健二郎の掌の上によじ登った。ちょうど奈良の東大寺の大仏の掌に、人間が乗っているのと同じような感じだ。

「御伽草子では一寸法師というのは聞いたことがあるが、一寸娘とは聞いたこともない。そなたは、この世の者なのか」

「妖怪でも、あの世の者でもございません。この通り、生身の体を持っておりまする」

一寸娘こと咲は、目だけで小さく微笑した。訳がわからない健二郎は、ただ目を白黒させているだけだった。


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