6 龍神の求婚
ひれ伏した結の両の手は、小刻みに震えている。
ざあ、と川の流れる音がした。
龍神がとぐろを巻くたびに、その身に纏った水が踊るのだ。
「おまちください、どうか」
結は浅い息で、ようやく声をあげた。恐怖で気を失いそうだ。それでもなんとか踏みとどまる。
『待つとは異なもの』
龍神の声が洞窟に反響する。
『願いを聞き届けようというのに、拒むのか』
「願いだなんて、大それたものではないのです」
歯の根が合わないから声が震える。ぐっと噛みしめて、ようよう声を発する。
「わたしの愚痴、他愛ない繰り言でございます。龍神さまにお聞かせするのも恥ずかしいほどの、戯言です。これが願いになろうとは、露ほども思わなかったのです。どうか、どうかご容赦ください。これが祈願というのなら……どうか取り下げさせてください」
気付けば、隣で明々と燃えていた松明が消えていた。
暗闇のなかで、龍神の気配だけを感じる。龍神の纏う川が流れている。
『戯言とはいえ、三千回。――絶えず流れて汚濁を知らない川になりたい。光をくぐり空気をはらんで、透きとおる流れを身の内につくりたい――。そなたは、そう願ったではないか』
ああ、川が羨ましい、と。
願ったではないか。
「それは……」
結は思わず顔をあげた。性分で、まっすぐ龍神の眼をみつめてしまう。
龍神の眼は、静かな紅だった。その光は凶暴なものでなく、夏の空に輝く星のようだ。
『先刻も認めたではないか。透きとおる水に、流れゆく川に焦がれていると』
結の鼓動がはねた。
龍神はこちらの心中をすっかり見透かしている。深い声が結を包む。
『――そなたの性は“水”だ。すがるものなく、山から海へ流れゆく水だ。そなたなら川になれる。心が決まりさえすれば、すぐに溶けゆくことができる。そんなことくらい、わかっているはずだ』
「そんなこと――」
『覚えがあるはずだ』
重ねて云われ、結は言葉を失った。
清く静かな香りがする。水のかおりだ。どこかで嗅いだようなかおり。
たしかに――。
結は記憶を手繰った。
今日だって、沢を渡るときにそんなことを思った。人に溶け込むより自然に溶け込む方が、はるかに容易いと。全身を流れに預けて、そのまま溶けてしまいたい。溶けて川のひとつとなりたいと――そう思った。
そして本当にできるような気がした、けれど。
――いや。
ふと結はぴくりと指を震わせた。
もしかして、できたのじゃないか?
『そうだ。そなたならできる』
龍神は、やはり結の心の声を聞いて応える。
『水の性を持つから、執着が薄い。しかし人は、執着するから人なのだ。そなたは人でいることが辛かろう』
結は押し黙った。否定できなかった。
毎日の暮らしに満足しているなんて、そんなことはなかった。人の輪に入れず、馴染めずに心を痛めることの方が多かった。だから清流に身をひたして、心にわだかまるものを押し流していた。嫌なことを忘れていた。結はそうして、日々を過ごしてきたのだ。
『人でいること自体が、そなたを傷つける。そなたを人の生にとどめるものは、片手よりもすくないのではないか』
龍神が言葉を重ねる。
結は反論しようと息を吸い、しかし何も言えずに肩を落とした。
そのとおりだ。苦く思う。
――わたしを人の世につなぎとめるものがあるとすれば、かあさんと達しかいない。本当に、ふたり以外にいない。
村にいるより、川でたゆたうことの方がずっと落ち着くというのに。
“人のままでいたい”なんて、本当にそうだろうか――。
龍神の言葉が、つよい説得力をもって響く。思わずほろりと涙があふれた。人として生まれ育った歳月のぶん、涙がこぼれる。
『そなたを泣かせたくはない』
龍神の静かな声が落ちる。
どういうわけか、いまの段になって、結は龍神の気配に慣れはじめていた。こうして同じ場にいて、龍神の息遣いを肌で感じていると、かえって恐怖心が和らいでいく。
危害を加えるでなく、結の心を見透かし、ただ静かに諭す。その寛大さにも安堵しているが、結を最も安心させるのは、何より龍神の水の気配だった。
生まれてからこちら、この沢で――龍神の身の内で戯れていたのだ。
恐怖心を持ち続けることは難しかった。
『結』
龍神は初めて結の名を呼んだ。
『沢でのそなたは美しい』
結は涙で濡れる頬をそのままに、龍神を見た。
低く深く静かな声が、また“結”と呼ぶ。
『わたしの妻になれ。神の世を生きよう。雫となり瀬となり遥かな大河になろう』