5 龍の巣穴
村の巫女が龍の巣穴の前で待ちかまえていた。
壮年の、恰幅のよい女だ。厳めしい顔つきで、気性も荒い。なにかと村人たちに小言をこぼすのが日課で、だから村人は彼女を腫れもののように扱っていた。
「遅い。年配者を待たせるとはいいご身分だ」
このときも巫女は相変わらずの不機嫌さで、やってきた結をにらみ据えた。
「すみませんでした」
あわてて結は、深く腰を折って詫びる。
巫女は思いきり渋面をつくり、そして結の腕を強く引いて洞窟の入口に立たせた。
結とともに洞窟にやってきた神輿の男衆たちも、すでにそのまわりに集まっている。もちろんそこに達の姿もある。彼のまなざしの真摯さに、結の心臓が小さくはねる。
巫女は榊と幣を持った。
結をひざまずかせ、清めの儀式をおこなう。龍神に嫁ぐべく、身を清めるのだ。結は身を硬くしながら祈祷を受けた。
終わると、巫女が今度は朱塗りの盃をとりだす。これには神酒でなく、清水が満たされている。轟音をあげて岩を叩くこの滝の、滝つぼの水だ。この水こそ、龍神のご神体であると考えられている。だからこれを呑むということは、龍神と身をひとつにする、という意味あいがあった。
一息に飲まなくてはいけない。結は小刻みに震える手で盃を受けとり、思いきってすいと飲んだ。
のどにつめたい清水がすべり落ちる。清浄なものが身体中にひろがる感覚がある。
とたん、自分の身体の熱が立ちどころに冷めるのを感じた。ひんやりと清らかな心持ちがする。まるで身の内に一瞬の間、川が生まれたようだ。
これは結が愛するものだ。
ひと口の清水でそう思いだし、すると憑き物が落ちたように、落ち着きをとりもどすことができた。
巫女は最後に盃からすくった清水を、祝詞をとなえながら結の頭にふりかけた。
結は背筋をぴんとのばしてこれを受けた。
「巫女さま」
ふと思いたち、小声で巫女を呼ばわる。
「……なんだ」
巫女はぶっきらぼうに応えた。先ほどとは打って変わり、けろりとした表情の結を戸惑い気味に見つめている。
結はしばし沈黙し、そして思いきって口を開いた。
「たとえば。もし、本当に龍神さまに求婚されたら、どのようにすればよいのでしょう。断ってもよいものでしょうか」
巫女はうろんな顔をした。
「そんなこと、おまえにあるはずないじゃないか」
「いえ……あくまでたとえですから……」
巫女はおかしなものを見るような顔つきで、ため息まじりに声をあげた。
「どうするも何もない。求婚を受け入れなければならない」
「どうして」
「神だからに決まっているだろう。それは運命だ。求婚の申し出を受けるのは、あたりまえのことだ。断るだなんて、考えることすら不敬だ。そんなことをしたら、龍神さまがお怒りになって、かならず村に災厄をもたらすだろう」
やはりか、と結は言葉を失った。
「でも……華姫さまはお断りになりました」
この地につたわる伝説の姫、“華姫”のことだ。いままさに結が務めている役である。龍の再三の求婚を断ったといういわれがある。
巫女はため息をついた。
「おまえはわたしを怒らせたいのか。華姫は、最後には龍神の求めに応じた。契りを結び龍となった。それが結末だ。今年の“姫”のおまえが、それを知らないなんてことはないだろう」
結は押し黙った。
「さあ、御託を言っていないで、立ちなさい」
巫女が結の腕を強く引っぱり上げる。気付けば式は終了していた。
あわてて立ち上がり、あたりを見回せば、神輿の男衆たちが膝をついている。“姫”を送りだすために礼をとっているのだ。達は探さなくてもすぐに見つかった。いったいどういうわけか、佇まいが洗練されているのでよく目立つのだ。
結はふと母加耶の言葉を思いだした。
“達はもしかして、やんごとなき所の落とし子なんじゃないか――”
そうかもしれない、とふと思った。――達はわたしたちと違うのかもしれない。
達と目が合う。乞うような、熱のあるまなざし。
結は胸をそっと押さえた。自分の鼓動が鼓膜に響く。
鈴の音が鳴る。
われに返ってうしろをふり向けば、巫女が神楽鈴を振っている。ぶどうの房のように鈴をとりつけたもので、さざめくような良い音がする。
送りの鈴だ。もう洞窟に入らなければならない。
後ろ髪を引かれて、結は達と見つめあった。達は言葉を発しなかった。ただ結だけを想う、強いまなざしを投げかけるだけだ。
結は頬を染め、しばらくののち、ようやく視線をはがした。達を背に、意を決して洞窟へと足をふみだす。
先ほどよりかはずっとましな気分だが、やはり空恐ろしかった。
洞窟に龍神があらわれる。それはもう、わかりきっていたから。
*
洞窟には、赤々とした松明が等間隔に設置されている。
結は足元に気をつけながらゆっくりと歩いた。奥深く進めば、もう外の光は見えない。洞窟のしじまに、松明のはぜる音が小さく響く。外よりもずっと冷えている。
しばらく歩くと、松明が途切れる場所に来た。そこには茣蓙が布かれ、榊が立てられている。結はそこにおそるおそる座った。“姫”はそこでひと晩祈りを捧げなければいけないのだ。
袴裾と薄衣の袖をきれいになおし、結はひざに両手をおいた。
今年の収穫の感謝と、翌年の五穀豊穣を願う。――はずなのだが、いまの結には到底できそうになかった。いつ龍神が来るかと思うと、とても祈願に専念することができない。
心臓がどきどきと鳴る。
洞窟はひどく静かだ。
――求婚を受けるべきなのだろうか。
結の心は揺れた。断れば災厄が降りかかるというのなら、わたしは龍神に嫁ぐべきだ。
人のままでいたい。そう思っているけれど――。
“それがおまえの本心か?”
達の声がふいによみがえった。
両手をぎゅっとにぎりしめる。となりに据えられた、松明の火花がぱちぱちと鳴る。
結のたたずむ場所から先は、真の暗闇がひろがっている。奥に龍神が棲んでいるとされ、足を踏み入れてはならないのだ。
目を凝らしても、本当に何も見えなかった。あまりに闇が深いので、結の目が悪くなったかと思うほどだ。
おそろしさをこらえながら、そうして半刻ほど経った。
身体を硬くし、うつむいて念じていると、ふと水のにおいがした。清く甘い水のにおい。水浴びをするたびに嗅ぐ、清流のかおり。どういうわけか、洞窟のなかでそれが香っている。とたん、結はたまらず沢に飛び込みたくなった。過度な緊張でよけいにそう思ったのかもしれない。身体を水にひたして、思いきり泳ぎたい。水の流れを感じたい。
そうだ、と結は認めた。
わたしは透きとおる水に、流れゆく川に焦がれている。
水のにおいが濃くなった。同時に気配を感じた。ひどく大きな、何かの気配。眼前の暗闇の奥で、ぞろぞろと、とぐろを巻くようにそれが動く。
ああ――。結は絶望的な気持ちでそれを見守った。恐怖でからだが大きく震える。歯の根が合わない。衝動的に駆けだそうとする自分を、なんとかして押しとどめる。動かずにいること、声をあげずにいることは、途方もない努力が必要だった。
ここで逃げても状況が悪くなるだけだ。そう念じて、からだになけなしの力を込め、平伏する。
眼前の闇がゆらめいた。直後、赤い光がふたつ灯る。星のように輝く、それは紅玉の瞳だ。
松明の炎の明かりで、うごめく金の鱗がきらりきらりと光る。
『迎えにきた』
洞窟じゅうにひびく、低く深い声で。
龍神は結にそう告げた。