3 彼の求婚
宵の明星が見える頃、祭は始まった。
千の鈴の音を風に乗せ、龍の神輿が立ち上がる。腕まくりした男衆が雄々しく声をあげ、そのたびに担いだ龍が空を駆ける。蛇の胴体が上下にうねり場を圧倒する。
火を上げる松明と龍の恐ろしい口が目前に迫ると、村人は歓声をあげた。子どもたちが泣きわめき、それでまた皆が笑う。
涼しい夜風が、人々の火照った身体を優しく包んで過ぎていく。
姫役の結と近侍役の達は、神輿のあとに続いていた。
好奇の目とからかいを一身にうけるので、結はしぜんとうつむいてしまう。笠に垂れ布が付いていて良かったと心底思った。上気した頰を見られるなんて、まっぴらごめんだ。
薄布越しに隣を見やれば、横笛を吹く達の姿がある。本来、近侍は姫に付き従うだけで良いのだが、達は笛の名手なので乞われて吹いているのである。
その音色は冴え渡っていた。人の渦と熱気を突き抜けるように、どこまでも清涼に響く。澄んだ水のように、旋律がまっすぐ心に染みてくる。
だがしかし、当の笛吹きは何か不服があるかのように、眉間にしわを寄せていた。松明に照らされた顔立ちは、それでも端正で美しい。
若い娘らの黄色い声が達に飛ぶ。結は小さく肩をすくめた。「人気ね」とぽつりと呟く。
「そうでもないさ」
声に振り向けば、達が笛を下ろしていた。
「だって、ほら……」
「あの子らはおれのことを何も知らない。知らないから熱をあげているだけだ」
「そうかな」
「そうさ」
結は少しの間黙り、また口を開いた。
「……わたしが知っている達も、みんなが思うような達だよ。たぶん」
十年の間、同じ家で兄妹のように過ごした幼馴染だ。村娘より多少は達のことを知っている。それでも、結から見ても達は出来が良く、およそ欠点の見つからない男だった。優しく誠実で、男らしい。結だって、村娘の気持ちがわかるのだ。――達が本性を隠しているのでないかぎり。
達は驚いたようにこちらを見た。
「本当にそう思うか」
結は素直にうなずく。
「――なら」。達が身を乗り出そうとしたとき、観衆から口笛があがった。酔った男たちだ。結をじろじろと見て、何くれとなく野次をとばす。
「わたしはただの見せ物ね」
結は自嘲した。――そして、供え物ね。心のなかで言い足す。
とたん、ぐいと腕を引かれ、あっという間に達に肩を抱かれた。見上げれば、彼は男達を射抜くようににらんでいる。松明に照らされて、達の薄茶の瞳が赤く見える。結は力強い腕のなかで動くことも出来なかった。
野次を飛ばした男達は、一斉に鳴りをひそめた。
神輿は大いに観衆を沸かせたあと、村を出て沢へと向かった。
まもなく日暮れだ。薄ぼんやりとした景色のなか、水面に浮かぶ紅葉の赤が映える。
男衆は神輿を高く担ぎ、沢のなかへざぶざぶと入った。結も袴を膝までたくし上げ、達に手を引かれてあとを追う。
白い足に清流がまとわり、過ぎ去っていく。その感触は結の愛するもののひとつだ。梢からは紅葉と樹影が落ち、それをせせらぎがゆっくりと押し流す。柔らかな水音が響いている。
結は一時、まぶたを閉じた。
川は静かだ、と思う。その有り様が静かだ。
山を下り大海へ流れゆく己の運命のせいなのか。あきらめでなく、ただ淡々とすべてを受け入れているような、そんな寛大さが川にはある。激しく岩を叩く滝や瀬にも、その響きの底にしんとした静けさがある。それが結を惹きつける。
結は衝動的に沢に飛び込みたくなった。
全身を流れに預けて、そのまま溶けてしまいたい。春の雪のように、溶けて川のひとつとなりたい。
そう心を飛ばすと、本当にできるような気がするのが不思議だった。人に溶け込むより自然に溶け込む方が、はるかに容易い。そう思えてならない。
「……結にはどっちがいいんだろう」
ぽつりと達が言った。夢から醒めたように振り返ると、彼は困ったように笑う。
「龍になるか、人のままでいるか。結はどちらが良いんだろうね。……沢での結を見ていると、龍の方が性に合っているんじゃないかと思うよ」
結は言葉に詰まった。美しい沢に焦がれる自分を、達は見抜いている。
「……わたしは、人のままでいたいのよ」
声は思ったよりも小さく響く。達は苦笑した。
「結」
「なあに」
「もし人として生きるなら」
達は結を見つめた。
「おれと一緒にならないか」
結は危うく川底の石につまずきそうになった。達が腕を引いてそれを支える。
「危ないな」
「ごめんなさい」
「驚いた?」
結は頷いた。繋いだ手を意識してしまい顔が赤らんでくる。
達は笑みをこぼした。
「結に関しては、おれは大分わかりやすいと思うけど。相変わらず鈍いんだな」
「だって……」
言いさして結はハッとした。ここがどこだかを思い出し、顔が青ざめる。
ここはまさしく、龍神に求婚された場所ではないか。
――龍神さまがわたしたちを見ていないはずがない。
「達、ここで話すのはやめよう」
慌てる結に、しかし達は悠然としたものだった。
「なぜ」
「だってここは」
「だから言うんだろう」
彼は繋いだ手と逆の手で結の片頬に触れた。こわれものを扱うように、長い指がそっと輪郭をたどる。ひんやりとした指。けれどそう感じるのは、結の熱が上がったからかもしれなかった。
達のまなざしは静かで、そして苦しげだった。
「いま言うことに意味があるんだ。人になるか龍になるか、結の瀬戸際なのだから」
さやさやと水音がする。薄暗くなった沢で、水面に浮かんだ紅葉がふたりの間を抜けていく。
「――結はこの沢で、おれを見つけたね」
達は囁く。
「ひとりで川べりに居たおれに、声をかけてくれた。昔から大人しくて上手く人と付き合えないくせに、野苺を摘んでおれに分けてくれた。村にまで連れて行ってくれた」
こちらを見る薄茶の瞳。見慣れたはずのその瞳の、そこに宿る温度を、結ははじめて知った気がしている。
「嬉しかったよ。おれはいろんなことを学んだ。新しいこと、新しい気持ちを沢山知ることができた。それはいつも結をとおしてだった」
彼は照れたように微笑し、両手でそっと結の手を包んだ。
「結、好きだ。出会ったときからずっと好きだった。人として生きるなら、おれを選んでくれ。おれはおまえを手放すつもりはないんだ」