炎水の交わり
互いに憑霊使いの証である媒体を手中に対峙する燐と朧。
そんな彼女達を見守るように両サイドの憑霊は臨戦態勢へと移行する。
そんな中、朧は自身の傍にいるスレンダーマンへ釘を刺した。
「スレンダーマン。手出しは無用よ。あなたはここに向かってくるであろう邪魔者の相手をしてちょうだい」
「かしこまりました。朧お嬢様、ご武運を……」
一礼して沼に沈むようにその場から闇へと消えるスレンダーマン。
「待て!」
燐はスレンダーマンを止めようと叫ぶが足を動かす前にダム湖を撫でる強い夜風に当てられ、一瞬目を瞑ってしまう。
そうして、目を開けた次の瞬間にはスレンダーマンの姿はおろか気配も完全に消えていた。
「あなたの相手は私よ。燐、せいぜい楽しみましょう?」
朧は笑みを浮かべたまま銀の懐中時計の蓋を開き、その針を“6”に合わせる。
対して、燐は手に持っている朱い御守を強く握りしめた。
「憑纏!」
ほぼ同時に宣言し、御守を高く掲げる燐と懐中時計の蓋を閉める朧。朧の手の甲には蒼い“666”の三つ巴模様が綺羅びやかに輝く。
互いに炎と水に身を包んだ後、先にそこから出てきたのは踊り子のような姿をした燐であった。
彼女は未だ水に包まれている朧に向かって蹴りを入れる。
だが、その足はなぜか硬い物に当たって止められてしまった。
「先制とはやるじゃない」
その言葉と共に水柱から姿を現した朧は首に蒼い襟巻きをし、黒い喪服のような着物と袴の上に蒼い三つ巴模様の数字を背負った浅葱色の羽織を纏っていた。
彼女は燐の足を刀の鞘で防いでいた。
そして、そのまま刀の鯉口を切ると柄を握る。
それを見た燐は咄嗟に猫のように身体を翻す。
その瞬間、燐の太もものあった場所に怪しげな紫電が煌めいた。
あのまま組み合っていたら恐らく太ももの付け根から切り落とされていたかも知れない……だが、そんな恐れに冷や汗を流す間もなく、今度は横薙ぎに刀が振られる。
燐は大きく後方に飛んで刃を避けつつ距離を取る。
「……ふー……」
緊迫した状況を脱し、思わず息を吐く。
油断をしているわけではない、全神経を集中していた為に呼吸をするのも忘れたいたからだ。
夜叉丸、蜘蛛丸と対峙した時でさえちゃんと呼吸は出来ていた。
そんな当たり前なことですら出来ないほどに集中する……たった一分程の立ち合いで戦いの経験が少ない燐ですらそう思わせる、実力があるということを本当に身をもって知った瞬間であった。
胸に手を当てるまでもなく分かるほど身体全身が脈打ち、鼓動が早くなるのを感じる。
普段からよく動く燐にとってこれほどの運動はそう激しいものではない。
それ以外の何かがそうさせている。
その何かが何なのかを知るのは造作もないことであった。
「……よく反応したわね。並の人間なら今のでとっくに仕留められているのに……」
残念そうな朧の口から発せられる言葉にはどこか冷たいものがあった。
先程までの何かを楽しんで遊ぶような口ぶりとは違い、冷水のような声であった。
その言葉を浴びた燐の背筋が凍える。思わず腕を見るとうっすらと鳥肌が浮かび上がっていた。
けれども一瞬視線を落とし、少し眺めたその刹那、燐の前方に僅かな気流が起こる。
ふわっと一秒程手で仰いだ際に出る風のようなものを感じ、目を向けるといつの間にか離れていた筈の朧の顔が目の前にあった。
ハッと息を呑むと共に彼女の手元に鋭い光が瞬く。
斬られる……そう思い、足に力を入れて離れようとするも咄嗟の出来事だった為か足はもつれ、バランスを崩し、尻もちを着くように倒れかかる。
だが、幸いにもこの転倒により、燐の首を斬り飛ばそうと振った朧の刀は彼女の前髪のみを斬るに至り、燐には傷一つ付くことは無かった。
同時に半ば恐怖心に支配されかけていた燐の心はこの一瞬で現実へと還り、背が地に着く前に彼女の身体を動かして手を先に着くことで受け身をとることに成功した。
もし、朧が時間を少し置いて燐の心を恐怖で蝕んだ後に行動を起こしたら燐は身体を完全に動かせずに成すがまま斬られていただろう。
だが、朧は早期決着を着けるために行動を起こした……結果、動けなくなった理性に代わり本能が代わりに反応して身体を動かした。
戦術としては間違っていなかった……が、些か早計であった。
「……ッ!」
チャンスを逃して思わず舌打ちする朧。
すると、今度は燐がその隙を突いて朧の足首目掛けて強く蹴り込んだ。
足払いをして朧を転ばせようとする作戦だ。
けれども、朧はなぜか倒れない。
それどころか身体すら揺らいでいなかった。
(なにこれ!? 木の枝どころか木そのものみたいに固い!)
「……これでも体幹は少し鍛えているのよ」
微動だにしない朧はそのまま刀を振り上げ、足元にいる燐に向かって振り下ろす。
それを見た燐は今度は朧の足を土台にプールで壁を蹴るようにしてその場から離れ、凶刃は回避した。
そして、すぐさま立ち上がって朧へ集中する。
もう目を離したりしない……そんな意志の込もった視線を彼女へ向けた。
「良いわね……とても良いわよ、燐」
軽く口元を緩ませつつも、朧は刀を握る手に力を込めて頭上高く構えた。
足を前後にめいいっぱい伸ばし、深く腰を落とす構えだ。
さらに同時に足元から野太い透明な何かが現れ、とぐろを巻くように朧を守る。
「なにあれ……(何か……来る!)」
朧のあからさまな構えに燐は身構え、いつでも対応出来るような形をとる。
しかし、朧はそれを見ても構えを解く気は無く、今度は両足にも力を込めた。
「神道無念流……無上剣!」
囁くように呟くと同時に一気に燐へと間合いを詰める。
あまりの速さに彼女の通った後には旋風が巻き起こり、その旋風の風圧が余波となって身構えていた燐の顔に吹きつけた。
朧の接近を許してしまった燐だが、顔に当てられた風圧に怯まず、負けじと足を前に出す。
狙うは朧の刀を持つ手。
(振り下ろされる前に止めるつもりね……でも、甘い!)
燐の蹴り出した足の足底が朧の手に当たる。
だが、朧はそのまま力一杯に刀を振り下ろした。
振り下ろした衝撃は凄まじく、止めようとした燐のみならずその近くにある塵一つすら残さず吹き飛ばす程の威力をもたらした。
「うわぁーッ!」
叫びながら地に叩きつけられながら倒れ、転がる燐。
やがて身体の動きが止まり、すり傷や衝撃による痛みに堪えながら朧の方を見ると彼女の周辺にあった欄干は台風一過の稲穂のようにグニャリと折れ曲がっていた。
足で攻撃を止めようとしたものの、実際は身体が支えきれずにすぐ足を離し、刀の軌道を変えただけであったが、もしあのまま無理して踏ん張っていたら燐の足は簡単に折れていただろう。
もし、春輝や虎次郎がこの場にいたら未熟故の無謀な行動、と咎められていただろう。
しかし、その未熟さが同時に危機を救っているのもまた事実であった。
「随分と悪運が強いみたいね」
起き上がる燐に向かって朧は微笑しながらそう声を掛ける。
とはいえ、彼女にとってこの状況は少し誤算であった。
早期に……技を出すまでもなく一撃で屠る、そのつもりであった。
しかし、蓋を開けてみれば結構粘る。しかも良いところを突いてくる。
(少し楽しめるかしら……)
だが、心の中には苛立ちや怒りといった感情は無い。
寧ろ嬉しい誤算が起き、楽しんでいる……そんな奇妙な感情が湧いていた。
「でも、良いわよ。もっと足掻いて見せてちょうだい」
「いっつつ……なんて力……でも、燐だって! 憑纏憑技、陽足!」
朧の挑発に乗る形で燐は起き上がり、その場で高く跳躍するとそのまま朧に向かって行き、蹴りは繰り出す。
朧は憑技の宣言に警戒するも返り討ちにする為に再び刀を構えた。
だが、向かって来た燐は朧が刀を振るより早く、足で彼女の手から刀を弾き、続けて顔目掛けて二撃、三撃と宙にいる間に連続で蹴り込む。
得物を失った朧は燐の足を腕で防ぐものの、最後に燐の放った蹴りの時はふっ飛ばされてしまった。
しかし、蹴り込んだ足が顔に入ったわけでも、当たりどころが良かったわけでもない。
それは蹴りを繰り出していた燐が一番よく理解していた。
(さっきは足を蹴っても動かなかったのに、今は動いた……多分、わざとだ)
そんな燐の考えは的中していた。
朧はふっ飛ばされるフリをしながらも刀を弾き飛ばされた方へ自身も移動しすかさず回収。その刀を手に取るや否や猛然と燐の方へと向かって行った。
けれども、今度ばかりは燐も先を読んでいた為、即座に対応する。
姿勢を低くし両足で踏ん張り、走り出す瞬間に一気に力を入れて駆け出す。
刀を持った手を引き、斬りかかろうとする朧と足を引いて蹴りかかろうとする燐。
両者は勢い付いたまま邂逅する。
そんな状況下で先に仕掛けたのは燐であった。
いち早く蹴りを繰り出し、朧の胴を狙う。
駆け出した勢いで身体は自然と前に出る。それは朧も同じであった。
急に止まることが出来なければ攻撃を防ぐ手立ても無い。
そう見越しての行動であった。
だが、朧の表情に変わりは無かった。
「憑纏憑技、龍尾」
胴体に足が当たると思われた寸前、朧はねじるように身体を翻して攻撃をぎりぎりのところで回避する。
そして、燐の横を通る形で背後に回り込むとそこでようやく刀を振った。
燐はその行動に驚きつつも、刀を振った先を先導するかのように身体を倒す。
倒した際、刀の切っ先が僅かに見えて闇に煌めく。
その光を見つつ、燐は受け身を取ることなく天端通路のアスファルトに叩きつけられるように倒れ込んだ。
そんな燐の姿を朧は驚きながら眺めた。
「……まさか、今のを避けるなんてね。正直、驚いたわ」
「はぁ……はぁ……! あ、危なかった……」
息を切らしながらゆっくりと立ち上がり、胸を押さえる燐。
極度の緊張と無理な身体の使い方をして、流石に息が上がっていた。
これまで大きな攻撃は受けていないしダメージも負っていない。
だが、着実に追い詰められている。
真綿で首を絞められるかのように徐々に魔の手が伸びてきていた。
動きが悟られつつあるのだ。
これ以上、無駄に動けば必ず捉えられる。
(やるなら……今……だよね)
燐は覚悟を決め、朱い御守を握りしめた。
「あら、それは……どういうつもりかしら?」
面白そうに燐に尋ねる朧。
無論、彼女は燐が憑纏した際に御守を使用している所を見ているので、何をしようとしているのか察しはついている。
「こういうつもりだよ! 憑纏憑術、火煙球!」
御守を強く握りしめ、念じながら憑術を唱える燐。
それに呼応するかのように彼女の右手に火の玉が……左手には煙の玉が出現した。