謀り
―――時は戻り。
上原ダムの堤体の上の天端にて燐達と朧は対峙した。
そんな彼女達の姿を天端通路に設置してある外灯が照らし出す。
その儚げな光の周囲は宵闇が支配しており、光どころか音すらも吸い込んでいるのか、辺りは静けさに満ちていた。
無と静寂が覆う状況の中、笑みを浮かべていた朧は独り言のように言葉を発した。
「……まさか、こんな所まで来るとはね」
「申し訳ございません。朧お嬢様……」
そんな朧の言葉に呼応し、彼女の隣の暗がりからスレンダーマンがぬっと急に出てくる。
「まさか、あとをつけられていたとは……しかし、このスレンダーマン。幼き女の子にストーカーされるとは夢にも思わなかったので、つい胸が高なって―――」
「黙りなさい」
「はっ!」
朧にピシャリと言葉を遮られたスレンダーマンは低頭平身しながら一歩下がる。
「それに途中から気付いてここまでわざと連れてきたのでしょう?」
「……お気付きでしたか」
「まぁ、結果……仕留め損ねてしまったから、今回のことは不問にしてあげるわ」
「はっ! ありがたき、お言葉!」
「それに元はといえば、あの時バジリスクの餌にちゃんとしなかった私の責任だもの」
そう言って燐を見る朧の目はどこか楽しげであった。
言葉こそスレンダーマンの非を咎めているように聞こえるが、この状況を面白がっているようにも聞こえる。
「ねぇ、朧……やっぱり朧がこの町をおかしくさせていたの?」
「あら? 私のやっていることがもうバレていたのね」
「どうして、そんなことを! 皆、苦しんでいるんだよ!」
「何を言っているの? 苦しませる為にやっているのよ」
「なんでそんなことを!」
「質問が多いわね」
朧は燐の方には行かずダムの湖面の方へ向かって歩き、その欄干に手を添えながら語り始めた。
「率直に話すと一番の目的は巫女姫を守る憑霊使い……そいつをおびき寄せる為よ。人々が苦しめば、お人好しな憑霊使いは動く。でも、それでも鈍いと分からないんじゃないかと思って守っている巫女姫にもちょっかいを出そうと思ったの。その両方を同時に行うにはこの町の人間が必ず使うであろう水に蛇を混ぜて、取り憑かせるのが手っ取り早かったってわけ。でも、身体の中に入り込んで憑いてしまったから、逆に分かりにくくなっちゃったわね」
「まさか……自分の存在を敢えて知らせる為にわざと!?」
「それが一番の目的ね。あとは、その期に乗じて巫女姫と憑霊使いの仲を裂こうとしたの」
「仲を……裂く?」
朧の真意が明らかとなって驚く陽炎とは裏腹に燐は彼女の放った一言に思わず反応した。
「えぇ、蛇というのは憑いた者の心と身体を不調にし、性格を悪くして、自己中心的なものにする。そして、身体の不調も相まって他人のことなんか無関心になってしまう。巫女姫の中に蛇が憑けば彼女は憑霊使いのことなんて無関心となる……筈だったんだけど、意外と巫女姫はそうはならなかったわね。でも、予想外にも憑霊使いの方が蛇に深く憑かれて彼女に無関心となっていったわ。誤算ではあったけど、計画に支障は出なかった……」
「なんて奴だ! 自分の目的の為に他人の心を弄んだのかよ!」
朧の言葉を聞き、煙々羅は憤慨する。
一方、燐は彼女にしては珍しく顔を俯いて静かにしていた。
「そのままジワジワと仲を裂いていこうと思ったのだけれどね。私の連れの葵って子が手伝ってくれる、って言ってくれたから後のことはその子に任せて引き継いでもらったの。あの子、神社を襲うフリして巫女姫の詳細な情報を得ようとしていてね。巫女姫を水の中に一時的に閉じ込めた時に水を通して、彼女の記憶を垣間見たのよ」
「垣間見た!? そんなこと出来る筈が……」
「一憑霊の子猫ちゃんには想像がつかないと思うけれど、葵は生き人形という少し特殊な憑霊でね。自身の司る行のものなら自在に干渉が可能なの。彼女は水行……そして、人間の身体もほとんどが水。干渉するのは造作も無いわ。そして、そこから得た記憶を元に偽物を作り出すこともね」
「偽物…………まさか!?」
葵の能力を聞いた陽炎は何かに思い当たったかのようにハッとする。
それを見た朧はニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
「ど、どういうことなんだよ!? なにか分かったのか?」
「うん……何となくだけど分かったよ。お姉さんがお兄さんに別れ話をした話し……覚えている?」
「あ、あぁ」
「話しを聞いて、虎次郎のお兄さんはどこか腑に落ちない様子だった。話しを聞いたボクも同様だ。でも、お兄さんが偽物から伝えられたとしたら……そして、お姉さんがお兄さんの偽物と遭遇したら……」
「春輝も巫女姫も互いに惑わされたってことか!? 確かに今の話しを聞いて、巫女姫の偽物を作ることは可能だ。でもよ、春輝は葵と会ってもいないのにどうやってアイツの偽物が出来るんだよ!?」
「会っているじゃないか。先にアパートで……お姉さんの姿をした葵に。葵はお姉さんの姿を装ってお兄さんと接触した。人間の身体のほとんどが水……そしてそれに干渉出来る能力。恐らく、葵はお兄さんと話しをしている最中にお兄さんの身体の一部に触れた。そして、そこからお兄さんの記憶を垣間見たんじゃないかな? そして、それはほんの一時、お兄さんの偽物になってお姉さんと会うには十分過ぎる情報だよ」
陽炎の推理通り、美優の姿をした葵は蛇の大群と戦い、休んでいた春輝の見舞いに訪れ、その際に声を荒げようとした春輝を制しさせるように人差し指を彼の唇に当てている。
その接触を介し、春輝の生体情報を得た。
そして、彼女は今度は春輝の姿をして美優に接触してきたのだ。
「お兄さんがお姉さんに遭遇した日は雨だった。神社を襲った葵は話しを聞いた限り、水の分身体だったと聞く……つまり事を終えた葵は雨と共に姿を水に変えてその場から消えた。だから、お兄さんがすぐに追いかけても追いつけなかった……」
「……そういや、春輝が巫女姫に会った時刻には雨が降っていたな。おまけに、その後の朝方も雨だ。……ってことは、なんだ? 葵は偽物にも偽物を使ったってことか!?」
「実際に見たわけじゃないし、その後のお姉さんのことも知らないからほとんど憶測に近いけどね……」
「あら、すごいじゃない。たった数個のヒントだけでここまでこぎつけるなんて」
「彼は見た目に似合わず、聡明ですから」
朧が感心したように陽炎へ賛辞と拍手を贈る。
だが、その拍手を受けても陽炎は嬉しくない。
逆にキッと朧の方を激しく睨みつけた。
「燐、随分と良い憑霊を手に入れたわね」
拍手をした後に朧は燐に向かってそう話し掛けた。
しかし、燐は相変わらず俯いたまま何も答えない。
その代わりに彼女の手だけが拳を作り、震えていた。
「まぁ、満点ではないけれど及第点くらいはあげるわ」
「……ということは、他にも何か仕掛けていると?」
「正確には仕掛け終えたって言った方が正しいかしら?」
「へぇ~……もののついでに教えてくれないかな?」
「残念だけどそれは秘密よ。とっておきのサプライズなんだから」
「……楽しそうなサプライズじゃなさそうだね」
「あら、そう? 私には楽しいサプライズよ」
「……もういいよ」
朧と陽炎の言葉の応酬を聞いていた燐はようやく口を開き、たった一言そう告げた。
それを聞いた朧と陽炎は同時に口を噤む。
燐の声には今までの彼女らしい太陽のような明るさは感じられない。
同じ太陽でも発した声には真夏の太陽のような激しい熱を感じる。
「もういい……もうたくさん。関係無い人達まで苦しめて……お兄ちゃんやお姉ちゃんまで苦しめて……まだ苦しめようとする。もうこれ以上は聞きたくない!」
「なら、これからあなたはどうするの? 聞きたくないなら、目を瞑り、耳を塞いで関わらなければいいじゃない」
「……ううん。燐は知らんぷりなんてしない。そんなこと出来ない……これ以上、苦しむ声を聞いたり、苦しむ姿を見たりしたくないから……燐はそれを止める! 今の燐には、それが出来る!」
燐はそう言い放つと御守を取り出し、身構えた。
その姿を見た朧はおかしなものを見るかのように笑い始める。
「フフフ……つい最近、憑霊使いになったばかりのあなたが私に勝てると思っているの?」
「そんなことやってみなくちゃ分からない!」
嘲笑う朧と戦意を露わにする燐。
その両者を見比べながら、陽炎は考えを巡らせた。
本来の陽炎であれば相手の憑霊も何か分からない、しかも実力差が目に見えて分かる相手に無謀な戦いは仕掛けたりしない。
三十六計逃げるに如かず……戦線離脱を優先する。
けれども、この時の彼はそんな冷静な思いとは裏腹に激しい激情も渦巻いていた。
今まで、そこまで多くの者と関わってこなかった。だから、自分本位な考えが出来た。
しかし、燐と出会って彼女の憑霊として多くの者達と出会い、関わりをもった。
だからこそなのだろうか? 最も身近にいた馴染み深い者が酷い目に遭わされている……そのことに対する怒りが彼の身を焦がしていた。
燐の怒りの炎に感化されたのか、その炎が自身にも燃え移ったのか。
そんなことはどうでも良い。
打算や小細工無しでこの怒りを思うがままに朧にぶつける。
勝ち負けなど、恐らく燐は考えていないだろう。
事あるごとに燐を制してきたが、それも今は無駄……ならば、いっそのこと自身も今回は主に従おう。
同じ思いを抱いているのに朧の言った通り、無関係なフリをするなんて癪だ。
「そうだね……何事もやってみなくちゃ分からない」
「おや、意外ですね。この私ならばともかく……朧お嬢様の実力、あなたなら図り違えないと思いましたが……」
「無論、図り違えたりしないさ。でもね、ボクの主……この燐ちゃんは図ることは出来ない。いつも予想を超えたことをしてくれるんだよ」
「それはつまり……その子が朧お嬢様を倒せると?」
「さぁ……そこはボクにも分からない。でもさ、たまには思考や理論なんかに頼らず、運を天に任せる博打も面白いんじゃないかな?」
「はっは! 良いなぁ、それ! なんだい、陽炎。お前ぇも少しは遊び心ってのを分かってきたなぁ、おい!」
「……愚かな。こんな命のやりとりの中で遊び心に従うとは……あなたは聡明な判断が出来る。私はそこを評価していたのですが……」
陽炎の言葉にどこか嬉しそうな煙々羅と失望とも呆れにも思える落胆の言葉を口にするスレンダーマン。
けれども、陽炎はそんなスレンダーマンにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「悪いけど、ボクは他者の評価なんて望んじゃいない。ボクが望むのはいつだって自分自身の結果……たとえそれがどんな形であれ、自分の満足するものであれば十分だ」
「井の中の蛙……なんて馬鹿にしてくれても良いぜ。世界は広いがそんなデカイ世界ばかりを気にしたって仕方がねぇ!」
「陽炎……煙さん……」
陽炎と煙々羅の啖呵を切った姿に燐は静かに呟く。
その瞳は揺らぎ、目には熱いものが込み上がってくる。
そんな中、朧がせせら笑うような声でスレンダーマンを咎めた。
「そうよ、スレンダーマン。彼らを悪く言っちゃダメよ」
「朧お嬢様……」
「知らない者に知らないことを説いても理解は出来ない。それに百聞は一見に如かず……理を語るよりも力で示した方が早いわ」
そう言うと朧は自身の着ているドレスの隠しポケットから銀の懐中時計を取り出す。
それを見た燐達は一気に緊張感を高めた。
「それにこんなにやる気に満ちた相手に出会ったのは久しぶりだわ。最近は私の正体を知っただけで、すぐに戦意を失う連中が多かったもの…………だからやる気を削ぐようなことをしちゃダメよ」
恍惚な笑みを浮かべながら銀時計の鎖を手に持ち、懐中時計を回す朧。
その姿はどこかこのような展開を望んでいたかのように見える。
「さて……前置きが長くなってしまってごめんなさい。それじゃあ、井の中の蛙さん達に私が教えてあげるわ。大海というものをね!」
回していた鎖を手首に巻き付け、手中に懐中時計を収めた朧に対し、燐は御守を強く握り締め、自身の眼前に構えて対峙した。