地獄の特訓
辺りが薄暗くなり始めた天倉神社の鎮守の森。
その森の拓けた場所で憑纏状態の燐は空を見上げるように地面に伸びていた。
春輝や虎次郎と共にアパートを出た時は小雨だった空は今は茜色に染まり、カラスが大群が道路を走る無数の車のように縦横無尽に飛び交っている。
一方で彼女の周りはあちらこちらで焼け焦げたような跡があり、焚き火のような煙と匂いが辺りに充満していた。
鎮守の森で火気使用……天罰が下ってもおかしく無い状況であるものの、そんなことを気にするほど今の燐に余裕は無かった。
「はぁ……はぁ……」
疲れとソウルライフの使用により身体には力は込められず、息をするのがやっとの状態であった。
なぜ、こんなことになったのか?
―――時間は燐が虎次郎と修行を始める為に鎮守の森に入った所まで遡る。
「……さて、ソウルライフの膜張りが出来るようになったお前にはいよいよ憑術の習得に入ってもらう」
「待ってました!」
厳かに話す虎次郎とは違い、燐は明るい調子で声を上げる。
緊張感の欠片も感じられないが変にやる気が削がれるよりマシだろう、と虎次郎は敢えて咎めなかった。
そんな彼女とは違い、一緒にいる陽炎と煙々羅はただ黙っている。
煙々羅は興味津津といった様子で余計な口を挟まない為であるが、対して陽炎は神妙な顔つきになっている。
「まずは憑纏してみてくれ」
「分かった! 憑纏!」
燐は御守を取り出し、それを自身の頭上に掲げて力強く握る。
傍にいた陽炎と煙々羅が炎となって彼女を包み込み、やがて炎の中からオレンジ色の髪に猫の耳が付き、昔の踊り子のようなゆとりのあるズボンに袖の無いベストとサラシを巻いたような格好で両腕には炎の腕輪と煙のように薄いヴェールを肩に掛けた燐が姿を現した。
「よし!」
「……五十嵐から少し聞いたが、既に憑術を一つ持っているらしいな?」
「うん! 憑纏憑術、火煙球!」
御守の錦の袋を開け、その中から守札を取り出した燐は憑術を唱える。
すると右手に火の玉、左手に煙の玉が宿った。
「……そこまで」
それを見た虎次郎は二つの玉を合わせようとする燐を制止する。
「それがお前の憑術か?」
「うん! これを合体させて投げつける……バジリスクの時に使ったんだよ!」
「ならば、それを俺にも投げてみてくれ」
「えっ!?」
「構わない、遠慮しなくていいぞ」
虎次郎はそう言いながら燐から少し離れて距離を取る。
一方、燐は人に向かって投げるとは思ってみなかったらしく少し戸惑っていたが、やがて意を決して二つの玉を合わせ大きく振りかぶって虎次郎目掛けて投げつけた。
「ふんっ!」
迫り来る火煙球……それに対して彼は左腕を前に出し、力を込めると飛んできた火煙球を払うように左腕を振り払った。
バジリスクの時のように虎次郎も炎と煙に包まれるのか……だが、そんな燐の懸念とは裏腹に結果は予想外なものだった。
左腕に当たった火煙球はなぜか破裂することなく、燐の元へ返球されたのだ。
「えっ!? なん―――うわぁ!」
返ってきた火煙球はそのまま当たり、燐を炎と煙に包み込む。
予想外なピッチャー返しを受けたものの燐はほとんど無傷で済んだ。
「……なるほど、大した威力だ。それに色々なバリエーションも出来そうだ」
「……あれ、痛くない……なんでなんで!?」
「それはお前が膜張りをちゃんと習得出来たからだ」
混乱し騒ぐ燐に近づきながら虎次郎はその訳を説明した。
「膜張りは自身のソウルライフを身体に鎧のように纏わせるもの……対して、憑術は己のソウルライフを具現化させるもの元が同じソウルライフだからただ吸収されるだけで怪我はしないんだ。もし、膜張りが未熟ならばさっきのでも怪我はしている……つまり無傷で済んだというのはそういうことだ」
「なるほど……でも、それならどうして燐の憑術は跳ね返ったの?」
「それは俺とお前のソウルライフの膜の質量が違ったからだ。俺はさっき左腕にソウルライフを集中させた。これによりソウルライフの膜が厚くなり、強靭で柔軟なものとなる。分かりやすく例えるならシャボン玉を手で返そうとしても割れてしまうが、手を振った際の風圧なら割れずに返せる……そんな原理だ。だが、これをやるには膜張り以上にソウルライフを上手くコントロールすることが必要だ。憑術とはソウルライフをいかにコントールすることが出来るか、それが鍵となる。逆に言えばそのコントロールが出来れば急に新しい憑術を戦いの最中に生み出しても失敗する確率が少なくなる」
「おぉ……!」
「だから、今度はさっきの火煙球を俺と打ち返し続けて百往復することが目標だ」
「ひゃ、百!?」
「あぁ。ただし、俺が返せなかったらそこまでで良いがお前が失敗したらまた始めからやり直しだ」
状況から見れば憑纏している燐の方がまだマシに見える。しかし、燐はまだ憑術を弾き返すなんてことはしたことが無い。
しかも、そんな燐に追い打ちを掛けるように虎次郎は更に付け加える。
「そして、ここからは俺も弾いた火煙球に俺自身のソウルライフを少しずつ込めて打ち返す。すると、どうなるか……」
「どうなるの?」
「お前自身のソウルライフだけなら膜に触れるだけで吸収されるが、俺のソウルライフという別のものを混ぜて不純物な状態にすることで、膜張りをしたとしてもお前にダメージが入る。しかも、打ち返す回数が多くなるほど、俺のソウルライフも貯まるから後半につれて失敗した時のダメージが大きくなる」
成功に近づく程、失敗した時に自身に降りかかるリスクが大きなものとなる……ストレートに言い放った虎次郎の言葉に燐は思わず息を飲んだ。
だが、恐れて動けなくなるより痛い思いをしてでも動いた方が良い……そんな考えが自然と燐の頭に浮かんでくる。
何より、燐自身はもういざという時に動けなくなるのが嫌だった。
バジリスクの時は初めての憑纏だったせいもあってかすぐにフェードアウトしてしまったし、滝夜叉姫と邂逅した際には彼女の憑装であるがしゃどくろの骨にヒビを入れた程度で軽くあしらわれてしまった。
自分の力不足をその身をもって実感している。陽炎や煙々羅や春輝、小鈴……美優や花子がいなければとっくに戦いの中で死んでいただろう。
自分は周りに助けられ、恵まれている……だからこそ、もう足を引っ張りたくも無いし、自分のこの力で春輝のように誰かを助けたい、という想いが強くなっていた。
そんな燐だからこそ、虎次郎の半ば脅しに近い修行内容の説明を受けても“やめる”という選択肢は無かった。
「なるほどぉ……うん、分かった! やる!」
「……そうか、じゃあ早速始めよう。俺を倒す気で打ち返してこい」
虎次郎は頷き、いつ来ても良いように構える。
それを見た燐は再び火煙球を作り出し、風を切るように投げつけた。
投げられた火煙球を先程と同様に虎次郎が返す。
そして、その火煙球が今度は燐に迫ってきた。
燐はソウルライフの膜を張った後にその膜が自身の右腕に集まるイメージを持ち、集中する。だが、その途端に火煙球が燐に当たり、彼女を炎と煙の渦に包み込んだ。
「うわぁ!」
尻もちをつくようにその場に軽く倒れ込む燐。
虎次郎の言った通り、始めに弾き返されたものと違ってかすかに痛みを感じる。
ただやはり燐が生み出した炎の為か熱さは感じなかった。
取り敢えず火傷の心配をしなくて済み、ホッと息を吐く燐だったがすぐさま緊張した面持ちとなる。
というのも、これは彼女が思っていた以上に難しいものだったからだ。
ソウルライフの膜を張り、それを一箇所に集中させる……原理としては以前、春輝の目の前で披露した膜の移動を一点に集めるという至極単純なものだ。
だが、実際に実践でそれを行うとなると時間が掛かるのだ。
ソウルライフの膜を全体に張り、移動させ、なおかつその強度を上げる……動作としては三段階ほどだろう。
けれども、その段階を一つずつ行っていては飛んでくる火煙球に対処出来ないのだ。
対処するには一箇所にソウルライフを集めた状態で膜を張るより方法はない。
燐は意外にもその答えにすぐに辿り着いた。
しかし、実際にやろうとするも何度やっても上手くいかない。
見当違いな場所に膜を張ったり、膜の強度が弱く跳ね返せなかったり……そんな状態のまま一球も返すことが出来ず、夕方を迎えてしまった―――。
「今日はここまでにしよう……休め」
地面に伸びている燐に向かってそう告げる虎次郎の言葉には悲観も呆れも含まれていなかった。
急に難しいノルマをやれ、と言った無理難題であることを自覚しているのだろう。
だが、現時点ではこの方法しか無かった。
燐はもう基礎は出来ている……あとは回数をこなして慣れるしか方法は無い。
かくいう春輝も昔はこの修業で詰まり、彼の憑纏憑術の鬼火ラリーで虎次郎は一週間も付き合ったことがある。
それほどまでにこれは難しいのだ。
でも、これさえ乗り越えられればあとはもう憑術の作成だけなので何とかはなる。
だから、今は付き合えるところまで付き合って山場を越えさせるしか無い。
今回の虎次郎の役割はその山を登る燐のトレーナー役だ。
「……くれぐれも休まず一人で練習しよう、なんて考えるんじゃないぞ。もしやったら、修行は無しだ」
地面に伸びている燐はビクリと身体を震わせる。
こうして、釘を刺して正しい方へ導くのもトレーナーの役目……虎次郎は一息吐くと天倉神社の境内へ戻っていった。