憂鬱な雨
夜間から降り続いた雨は朝になって勢いを増し、上倉町全体を濡らしていく。
そんな憂鬱な水に塗れた町で虎次郎と雪羅は彼のアパートに来ていた。
「五十嵐、俺だ」
玄関のドアを叩き、呼び掛ける虎次郎。
だが、中から彼の反応は無い。
仕方なく、ドアノブに手を掛けて力を込めて回す。
ガチャ、という音と共にドアは動いた。
確かにこの部屋を出る時に鍵などは掛けていなかったが、それでももう朝である。小鈴あたりが既に起きて戸締まりをしていてもおかしくはない筈だ。
訝しげな表情で傍にいる雪羅と顔を見合わせた虎次郎は「入るぞ」と呼び掛けてから中に入る。
部屋の中はカーテンがまだ閉められており、居間にいた筈の小鈴の姿は見当たらない。
どこに行ったのか……そう考える間もなく、小鈴は春輝の寝ていた居室にて彼の隣に鎮座していた。
「なんだ、居るんじゃないの……居たら返事くらい―――」
そう言いかけて彼らに近付こうとする雪羅を虎次郎は突然、手で制した。
異様な空気……それは感じずとも目で見て分かる。
虎次郎達が来たにも関わらず、二人は静寂を守っていた。
何かあったのだろう……そう察した虎次郎は彼らに静かに声を掛ける。
「……らしくないな。どうした?」
「……虎次郎か」
今更、気付いたかのように春輝がその声に反応した。
覇気が無い……彼らの中に巣食っていた蛇の憑霊は排除した筈なのにその様子は悪い意味で以前と変わらない。
だが、これは疲れ体調不良という訳ではなく寧ろ精神的なものに見えた。
「俺は……美優にフラレちまったようだ」
「どういうことだ?」
力なく自嘲する春輝に虎次郎は尋ねた。
昨日から聞いてばかりいるが、いかんせん事情が分からなければ手の施しようがない。
春輝はそんな虎次郎に昨日の晩に美優が来たこととその内容について語った。
それを聞いた雪羅は「信じられない」といった様子で驚き、小鈴は能面のような表情になる。
そんな各々の反応の中、虎次郎は冷静に聞いていた。
何かがおかしい―――話しを聞き終えた後の虎次郎の最初の感想はそのようなものであった。
というのも、腑に落ちない点がいくつかある。
まず時間帯……恐らく、春輝は時間など確認していなかったであろうが、虎次郎達が春輝達のアパートを出たのは午後22時……その後に美優が訪ねてきたということは深夜帯に訪問してきたということである。
普通に考えたら訪問先の相手に対し失礼だ。燐から教えてもらったにせよ、普通は翌日にお見舞いに訪れるものである。
そして、様子……春輝からの聞いた状況でしか分からないが、彼女はあまり話していない様子に見える。
一方的に要件だけ告げて、早くその場から離れたい……そんな様子である。
話しというのは事大事なものであれば尚更、順序よく話さなければならない。
虎次郎と美優は一度しか会っていないが、少なくともあの時の彼女からはそんな非常識を平然と行う人間には見えなかった。
これは何か裏がある筈……そう思った虎次郎は春輝へ尋ねた。
「……月見里が今どこにいるのか、分かるか?」
「多分……天倉神社だ。最近は修行をしているらしいから……」
「そうか……分かった。本当は今日、お前と今後のことについて話し合っておきたかったが……少し保留だ。雪羅はここに居てくれ」
「えっ、ちょっとどこに行くの?」
「こういうややこしいことは直接本人に確かめた方が良い」
そう言うと虎次郎は一人、春輝の部屋を出てアパートの階段を降りる。
ふと、そんな最中……彼は階段の下にいる人物の存在に気が付いた。
「あ、やっぱりお兄ちゃんだ!」
「こんな雨の中、どこに行くつもり?」
「……お前達か」
階段の下にいたは燐と陽炎と煙々羅であった。
恐らく、虎次郎が階段を上がるのを見つけたのだろう。
「少し用事があってな…………一緒に行くか?」
「うん!」
長靴にカッパと完全装備な燐の様子を見た虎次郎は渋々といった様子でそう聞く。
返事は聞くまでも無かったが、これは彼にとって渡りに舟であった。
というのも、燐に聞きたいことがあったからである。
そして、神社に行く道中……虎次郎はそのことを尋ねた。
「えー! 燐、美優のお姉ちゃんにそんなこと言ってないよ!」
「……やっぱりか」
虎次郎は自身の予想が当たり、内心確信する。
やはり燐は美優に春輝のことなど伝えていなかった。
恐らく、そう思ったのは春輝の早とちりであろう。
事実、虎次郎が聞いた春輝と美優の会話の中で彼女は誰から聞いたのか自らの口で語っていない。
何者かが裏で工作している……ということはそれはもしかすると美優も同じかも知れない。
そんな思考を巡らせる内に彼らは天倉神社へと辿り着いた。
鳥居の前で一礼し、手水舎で手を洗い、社殿にて挨拶を済ますと虎次郎達は社務所に行き、明日香に会いたい旨を伝える。
社務所に居た受付の巫女はそんな虎次郎のいきなりの申し出にも関わらず、訝しげることも困惑することもなく、すんなりと明日香を呼びに行ってくれた。
寧ろ、用件を伝えた虎次郎の方が訝しげに思った程である。
だが、彼がそう感じた理由はそれ以外にもあった。
神社の境内は穴ぼこだらけで地面は泥でぬかるんでおり、門前に鎮座している狛犬はかわいそうなほどに砕けている。
本来、荘厳な聖域である筈の境内が何者かに襲撃されたかのように荒れ果てている有様に虎次郎も燐も驚きを隠せずにいた。
「……一体、なにがあったんだ?」
「お待たせ致しました……あら、あなた達は確か―――」
虎次郎のそんな呟きと共に呼ばれた明日香がやって来て彼らの姿を見るなり、表情を変える。
「改めまして……一つ、伺いたいことがあるんですが、本日月見里はこちらに来ていますか?」
「月見里さん? そういえば、今日はまだ来ていないわね……でも、最近何かと調子が悪かったから……」
少し思案した後、明日香はそう答える。
だが、それを聞いた虎次郎は、遅かったかも知れない……そんな考えが頭を過ぎった。
「……もし、月見里が五十嵐のことで何か様子がおかしかったら伝えてもらえませんか? “お前の遭遇した五十嵐は違う者だ”と……」
「えっ? どういうこと?」
いきなりの虎次郎の言葉に明日香は困惑するが、当の虎次郎はその疑問には答えず気になることを尋ねた。
「ところで……何か水に関わる神事でも行っていたんですか?」
「それだったらこんなに派手にやらないんだけどね……でも、あなたも五十嵐君と同じ憑霊使いなら信じてくれるかも……」
そう独りで呟いた後、明日香は神社が葵という謎の憑霊に襲撃されたことと正吾から聞いたカルマの話しを伝えた。
自分の知らない所でそんな大変なことが起きていたことと改めて朧の正体を知った燐や陽炎、煙々羅は驚きと困惑に包まれる。
だが、虎次郎だけはそれを聞いても驚かず、なぜか確信に満ちた顔をしていた。
「……これを聞いても驚かないなんて、流石は憑霊使いね」
「いや、そういうわけじゃない。寧ろ、その話しを聞いてようやく……合点がいったということですかね」
「どういうこと?」
二度の明日香の疑問にようやく虎次郎は自身と春輝達に起こったこととここに来た経緯を伝える。
それを聞いた明日香はまさか自分達が葵と戦っていた同時刻に別の場所でそんなことが起きていたとは知らず、驚きを隠せないでいた。
「別の所でそんなことが起きていたなんて……」
「今回の一件、恐らくご想像通りカルマの雨海の仕業でしょう。あなた方が関わっている滝夜叉姫の件とは無関係……とはまだ断言は出来ませんが、タイミングが見計らったかのように良すぎる。もしかすると、裏で密かに結託していたのかも知れません。もし、そうなれば滝夜叉姫にとっての切り札……いや、隠し札といったところでしょうか」
「でも、その葵っていう子は? 燐が病院で朧と会った時にはいなかったよ?」
「ボクが遭遇したのも、のっぺらぼうのスレンダーマンだったし……でも、滝夜叉姫配下の憑霊にそんな憑霊はいなかった筈……」
「あぁ。葵は滝夜叉姫の下にいる憑霊では無い。カルマ所属の憑霊だ」
「ということは……その朧っていう子の憑霊?」
「とも少し違う」
そうなると、朧の憑霊でも滝夜叉姫配下の憑霊でもないとなればカルマ直属の憑霊なのだろうか?
混乱する燐達と明日香に虎次郎はその訳を説明した。
「葵はカルマの大幹部である裁司のみがカルマのリーダーから与えられる憑霊だ。通称“生き人形”と呼ばれている。それぞれ、憑霊における七行……すなわち火・水・土・金・木・光・闇をそれぞれ司っており、同じくその行を司っている裁司のサポートを主としている。奴らは自らの意思で行動し、自らの意思に純粋に従う……つまり裁司の命令を聞かずに思うがままに行動出来るということだ」
「生き人形……人形?」
「生き人形は依代の素材の中に人間の身体の一部である五臓六腑や四肢などの生身のパーツが使われている。憑霊本来の実力を十分に生かす為に……そして、通常の依代に憑依した憑霊と違う所は依代が駄目になった時、その人間のパーツを別な物と取り替えることでソウルライフの強弱高低に関わらず何度でも蘇るという点だ。新霊組は当初、そのことが分からずに何度も蘇っては殺し、パーツを変える生き人形単体によって多くの隊士や隊員が死んだんだ。今回、神社で暴れたのは水を司るその生き人形……強い弱いに関わらず、そのまま戦い続けていたら恐らく皆殺しにされていただろう。現に俺達もまだ奴らの詳細については掴めていない部分も多いんだ」
パーツ……しかも人間の身体の一部を取り替えるだけで何度も蘇る不死身の憑霊。
その実態を聞いた明日香は無意識とはいえ自分達が対した相手の恐ろしさに背筋が凍え、同時に今生きていることのありがたみを感じた。
「だが、そうなると少々厄介なことになる。五十嵐が完全に戻るまではあと2日……月見里の行方も気になるが、それまでにこちらも雨海の裏を搔く必要がある」
そう言って、虎次郎は燐の方へと顔を向ける。
それを受け、燐は不思議そうに首を傾げて虎次郎を見つめ返した。