深まる溝と届かぬ思い
虎次郎と雪羅が去り、静寂が訪れたアパートに彼らと入れ違いになる形でとある人影が現れた。
その人影は口元に僅かな笑みを浮かべながらアパートの階段をゆっくり一段一段上り、とある部屋の前までやってくる。
春輝と小鈴のいる部屋だ。
そして、そんな彼らのいる部屋のドアノブに手を掛け、ゆっくりと捻りドアを開ける。
虎次郎達が帰った直後なので、不用心にも玄関の鍵は開いていた。
その人影は音も立てずに一歩一歩中に入り、眠りこけている小鈴の隣を過ぎると春輝のいる襖に手を触れた。
「誰だ?」
中にいる春輝が襖が開く前に問いかける。
だが、手を触れた主はその問いに怯みもせずに襖を静かに開けた。
その先には布団に寝ている春輝がいた。
「お前は……」
「ふふふ……」
「美優? どうして、こんな夜中に訪ねてきたんだ?」
布団に横になっている春輝の目に映ったのは口元に笑みを浮かべた美優の姿であった。
彼女はそんな春輝の問いには答えず、ゆっくりと彼の傍に近づくと膝を崩してその場に座り込んだ。
「大丈夫? 大変だったね」
「あ、あぁ……もしかして燐から話しを聞いたのか?」
「うん」
美優は短くそれだけ答えるとジッと春輝を見つめる。
それを見た春輝はなんだか不思議な感覚に囚われた。
確かに美優はこのアパートに遊びに来る。しかし、こんな夜中にわざわざ来るだろうか?
それほどまでに心配してくれたのだろうか?
そんな考えを巡らせる春輝に対し、美優はゆっくりと口を開いた。
「ごめんね。アタシのせいで……」
先程まで口元に笑みを浮かべていた美優は今度は申し訳なさそうに春輝に頭を垂れる。
それを見た春輝は慌てて布団から起き上がった。
「いやいや! これは別に美優のせいじゃ無いって! 俺が勝手に動いて勝手にやったことだし……寧ろ、今回は関係ないし!」
「……嘘」
「本当だって! 憑霊の蛇の大群なんて大したことねぇよ! 馬肝先生も少し安静にしていれば良くなるって言ってたし……」
「……少しってどれくらい?」
「確か……3日って言ってたな」
「そう……でも、あんまり無茶しないでね」
そんな会話の後、二人は暫しの間沈黙する。
このところ、二人ともあまり話していない為か普段と違って居心地が悪い。
しかも、きっかけが先程までこの部屋にいた虎次郎である。
話しを変えようにも話題が悪い。
今日は沈黙する間が多いな……と春輝がしみじみ思っていると、また美優が口を開いた。
「春輝君……実はちょっと相談があるんだけど……」
「相談?」
「うん。あのね…………もう、アタシを守るのやめて欲しいんだ」
「……はぁ!? いきなりなんだよ!」
春輝が声を荒げると美優は彼の唇に人差し指を当て「シーッ」と静かに囁く、そして視線を寝ている小鈴へ向けた。
それを見た春輝は状況を察したらしく、小声で囁くように尋ねた。
「なんでなんだよ?」
「……もう春輝君達が苦しむところなんて見たくないよ」
「だから、今回のは違うって言ってるだろ」
「でも、きっかけはアタシだよね?」
美優のその言葉を聞いて春輝は言葉を詰まらせる。
確かに今回は滝夜叉姫は関わっていない。だが、美優を守るために先手を打とうと考えた故の行動であることも事実。
違うとはいえ、全くの無関係という訳でもない。
しかし、それで春輝達が苦しんだとはいえ彼女が負い目を感じる必要は無いのだ。
「い、いやいや! 確かにきっかけはちょっとそうかも知れないけど……それでも、それを良しと思って動いたのは俺達だ。だから美優が責任を感じる必要はねぇんだよ」
「だけど、アタシが巫女姫としての力をもっと引き出すことが出来れば……春輝君達も楽になれるのに……」
「それは仕方ないだろ? そんなすぐに力を引き出すことなんて出来ないんだ。だから桐崎先輩や不動先輩と修行しているんだろ?」
「そうだけど……でも、アタシも春輝君達にいつまでも甘えていられないから……だから―――」
美優はそう言うとスクッとその場から立ち上がり、春輝に背を向ける。
「アタシが巫女姫として自立出来るように、少しの間放っておいて……そうすれば、春輝君達の迷惑にもならないし、アタシも強くなれると思うから……」
「放っておく!? その間に滝夜叉姫達がやってきたらどうするんだよ!」
「でも、春輝君はあと3日は安静にしていなくちゃダメなんでしょ? それじゃあ、居ても居なくても同じじゃない」
「なっ―――!?」
確かに美優の言う通り、春輝は療養を馬肝から厳密に指示されている。
その3日間は確かに居ても居なくて同じことだろう。
だが、その言い方はあんまりである。
とはいえ、事実なので反論のしようが無い。
春輝は喉に言葉をつっかえたまま、歯を食いしばる。
何も言えない、何も出来ない……その現実を受け止めることしか出来なかった。
「春輝君が苦しむ所を見るとアタシも苦しくなる……だから、もうアタシには関わらないで」
それだけ言うと美優は今度こそ立ち止まらずに春輝の前から去って行く。
春輝はそんな彼女を引き留めようと手を伸ばすが、手は動いても口までは動かせず言葉が出ない。
次第に遠くなる彼女の背を追い掛けようと布団から出る。
だが身体は鉛のように重く、節々は痛み、何かが絡みついたかのように思うように動かせない。
初めて出会った頃は商店街で寂しそうな顔をした美優の手をすれ違いざまに掴むことが出来たが、今は手を掴むどころか伸ばすことさえやっとだ。
それでも春輝は弱った自らの身体に鞭を打ち、彼女を追い掛ける。
「美優……美優!」
小鈴が眠っていることなど気にせず、ついには叫んでしまう。
今、春輝に美優を引き留める効果的な言葉は無い。彼女の名前を呼び掛けることしか術が見つからない。
それでも春輝は美優を呼んだ。
ここで引き止めなければ、もう後がない……そんな根拠の無い漠然とした思いが勘となって頭を過ぎる。
けれども、美優はそんな彼の呼び掛けに振り向きもせずついに玄関を出てしまった。
「待ってくれ……美優!」
痛みを堪え、歯を食いしばりながら身体に力を入れて彼女を追う。
その度に堪えていた痛みが全身を駆け巡り、春輝に焦燥と苛立ちを与えた。
振り払えず、いつまでも纏わりつく邪魔者を引きずりながら春輝もようやく玄関に辿り着くことが出来た。
だが、その先に美優の姿はなく宵闇だけが静かに口を開いていた。
「ッ……!」
拳を握り締めながら春輝は顔を歪める。
美優を失望させた自身への怒りと不甲斐なさを抑えきれない。
けれども、それを当たり散らすことは出来ない。
全ては自分で決め、自分で行動した結果だ。
だが、その結果空回りして滝夜叉姫達を追い詰める筈が追い詰められた状況を作ってしまったこともまた事実。
複雑に絡んだ心と身体に湿った風が舞い込む。
そして、感情を我慢している春輝の代わりに夜空からは雨が少しずつ降り始めた。
――――――【1】――――――
翌日、夜が明けた空は相変わらず雨がシトシトと降り続けていた。
そんな中、美優は傘を差して天倉神社へと向かう。
時刻は早朝の午前5時……こんな天気の中でも修行は怠らない。
だが、彼女の体調は変わらず芳しくない。
それでも、美優は決して休もうとはしなかった。
協力してくれる明日香や讃我に申し訳ない、という気持ちもあるがそれよりも一日も早く春輝達の力になりたい、という思いが強かった為だ。
(早く巫女姫として……春輝君達の力にならなくちゃ!)
そう決意を胸に秘め、神社への道を歩いていた時であった。
ふと、彼女の視界の隅に人影が映る。
その人物はこんな雨の中、その場に佇んでいる。
異様ではあるが何かあったのかも知れない……美優が注視するとその顔は彼女がよく見知ったものであった。
「春輝君!? どうしたの、こんな雨の中で!」
その人物は五十嵐春輝であった。
彼は雨の中、傘も差さずに美優に軽く微笑みかける。
そんな春輝に美優は自身の傘を差し出した。
春輝を傘に入れたことで彼女の肩は雨に濡れるもそんなことは全く気にせず、ハンカチを取り出して彼の濡れた顔を拭く。
「傘も差さずに……濡れちゃうよ?」
「いや……良いんだ。それよりもお前に大事な話しがあってさ……」
心配する美優に笑い掛け、彼女の拭く手を握りその動きを止める。
美優はその瞬間にドキリと内心ざわめいたが、彼の次の言葉を聞いた途端にそんな淡い感情は消え去った。
「俺……もうお前を守れない」
「……えっ?」
一瞬、何を言われたか分からない美優であったがその言葉の意味を理解した途端、彼女の声は震え始めた。
「ど、どういうこと?」
「……どうもこうもねぇよ。俺の力不足のせいでお前を危険な目に合わせて……」
「そんなことない! 春輝君は力不足じゃないよ! 十分に強いよ!」
寧ろ力不足は自分の方……そんな言葉が思わず出掛かるが、美優はその言葉を呑み込んだ。
最近、あまり話してもおらず会ってもいないから弱気になっているに違いない……そう思った彼女であったが、目の前の春輝は追い打ちを掛けるように言葉を畳み掛ける。
「だが、新霊組の追手まで来た……そんな中で二つの勢力を相手に戦うのは正直難しい……」
「うっ……」
確かに春輝といえど新霊組の隊長の虎次郎と滝夜叉姫達を同時に相手にするのは難しいだろう。
せめて春輝の手助けが出来るくらいに力を付けられれば良いのだが、今の美優じゃ完全に足手まといである。
それは彼女が一番痛感していることであった。
「追われている俺に関わっていたと新霊組の連中が知ったら……お前もただじゃ済まない」
「アタシは良いよ! だから―――」
「お前が良くても俺がダメなんだ!」
―――離れないで。
そんな言葉が出る前に春輝は無情にも遮り、突き放す。
美優にとっては正直、守る守られるというのは大きな問題ではない。
春輝や小鈴と一緒にいたい……ただそれだけで良かった。
だが、当の春輝はそれを望んでいないらしい。
彼の言葉の矢が悪い方へと飛んで美優の心に突き刺さる。
「……あとは先輩達に頼む。じゃあな……美優」
春輝はそう言って美優の傘を出ると雨の中、再びその身を濡らして去って行く。
美優は暫くの間、呆然とその場に立っていた。
手の力が抜け、差していた傘が彼女の手から滑り落ちる。
降りしきる冷たい雨が美優の身体や顔を濡らしていく。
目に雨水が入り、視界に映る春輝の姿をぼやけさせる。
だが、不思議なことに目に入ったその雨水は温かかった。
その温もりによって凍えていた美優の意識が引き戻される。
「春輝君……春輝君!」
手を伸ばして春輝へ叫び、落とした傘をその場に置いたまま美優は雨の中を走り出した。
そんなに距離は無い筈なのに、冷たい雨で身体が凍えているせいか思うように動けず彼の元に追いつけない。
更には道ですれ違う人が邪魔となり、ところどころ行く手を遮る。
そんなすれ違う人の奇異な目にも晒されるが、美優は気にしなかった。
いいや、気にしてなどいられなかった。
もし、ここで追いつかなければもう会えないかも知れない……そんな不安な予感が彼女の頭を掠める。
けれども、そんな美優の声が聞こえないのか春輝は振り向きもしない。
「待って……春輝君!」
雨で濡れた服が肌にまとわりつき、重しとなって美優の動きを更に鈍らせる。
水を吸った服の生地からは水滴が滴り、濡らした靴からは不快な水音が鳴り、美優に鬱陶しさと煩わしさを与える。
それでも、美優は何とか春輝を視界にはっきりと捉えることが出来た。
だが、その途端に彼は道の角を曲がってしまい、再びその姿を消す。
そうして、美優がようやく角を曲がった先にはもう春輝の姿は無かった。
「春輝……く……ん……」
もういない人の名前を呟き、美優はその場に座り込んだ。
そして、先程春輝に伸ばした手を見つめる。
初めて会った頃、商店街で自らの宿命に打ちひしがれていた美優の手を掴んだ春輝の手……今思えばその手は温かった。
そして、改めて用心棒を依頼した時の春輝と小鈴のやりとりはとてもおかしくて、そして同じように温かいものだった。
その温もりがもう一度欲しい……でもそれは自分が未熟なばかりに失ってしまった。
失った悲しみが雨の冷たさと共に心と身体の中に染み込む。
「う……うぅ……!」
両手で口元を覆い嗚咽を押さえるが、終いには耐えきれずとうとう美優は口を開き、空を仰ぎ見る。
だが、その叫びは一層激しくなった雨とその雨音により天には届かずかき消されていった。
そして、そんな美優の姿を嘲笑うかのように雨音と混じって「ふふふ……」という不気味な笑い声が静かに響いた。