迷走
翌朝、春輝は自宅のアパートで目を覚ました。
居間では小鈴が珍しく寝ている。
早朝に目覚めるのはどちらかというと、小鈴が先なのだが今日は春輝が早く起きたようだ。
時刻を見ると時計の針は五時を指している。
どうりで早い筈だ、春輝は自身を納得させる。
本来ならばもう一度布団に潜り、二度寝と洒落込むのだが今日はなんだかそんな気分ではない。
小鈴を起こさないようカーテンをそっと開けると外は今にも泣き出しそうな曇天であった。
相変わらず気分は優れない。
仕方なく、春輝は小鈴の隣に座り込みジッと静かにした。
そうして、昨日の美優が言ったことを頭の中で反芻する。
―――いつもの春輝君らしくないよ!
―――最近の春輝君……なんだか余裕が無いように見える。
別れ際に言われた言葉が頭の中を駆け巡る。
「確かにな……」
この場にはいない美優に向かって一言そう呟く春輝。
あの時は言葉を濁したが、よくよく考えてみると彼女の言う通りであることを自覚し始めた。
自分らしくない……余裕が無い……これらを合わせると焦っているということになる。
では何に?
時間が無い訳じゃない、追い詰められている訳でも無い。寧ろ、状況はこっちのほうが有利になっている筈だ。
けれども“状況”はである。
後退している訳ではないが、進展している訳でもない。
情報は着実に集まっているが、肝心の滝夜叉姫という大元を叩かない限りはこの状況はいつまでも続く。
しかも人手が足りない。
更なる情報を集めようにも憑霊に精通している者が少ないというのが現状だ。
唯一の希望は燐であるが、彼女はまだ発展途上……自身の力量以上のことをさせて取り返しのつかないことになるのは最悪の事態だ。
人が成長するには時間が掛かる……そこは丁寧にしなければならない。
かといって、後手にばかり回ればいずれ回復してきた蜘蛛丸や夜叉丸に攻められる。
蜘蛛丸はともかく夜叉丸は春輝と一戦交えた為、ほとんど手の内が知られている。
今はまだ良いとしても後々になって響くのだ。
その為にも今この時を有効に使い、滝夜叉姫を討つ算段を組まなければいけない。
けれども、チャンスであるのに動けない……それが春輝をこうしているのだ。
しかも、タイミングが悪いことに自身を追ってきたらしい虎次郎達まで来ている。
そのことが余計に春輝の心に拍車をかけた。
「どうすりゃ……良いんだ?」
何をどうすれば良いのか分からない……そんな気持ちが春輝の心を染め上げる中、彼の隣で小鈴が目を覚ましたのかムクリと起き上がってきた。
「春輝……起きていたんですか?」
目を擦りながら小鈴は起きがけにそう尋ねる。
昨日、帰宅してから眠りにつくまで彼女は春輝に対して何も言わなかった。
普段は互いに罵り合う彼らであるが、こういう時は余計なことはあまり言わない。
こういう点では仲が良い、というよりも以心伝心になっているといっても過言ではない。
そんな彼女だからこそ、この朝の春輝の異変にいち早く気付いた。
そうして、何も言わずに台所に立つと二つのコップに水を汲み、一つを春輝に差し出した。
「お前のことだから飯を作っていないとかなんとか言うと思っていたんだが……」
「流石の私でも空気ぐらいは読めますから……起きがけに水を飲むと少しは気分が優れますよ?」
「……サンキュー」
苦笑いを浮かべながら春輝は小鈴から受け取った水を飲む。
だが、気分はあまり変わらない。
それどころか、何か妙なものが身体に入ったかのようで寧ろ違和感を感じる。
けれども、それを口にするほど今の春輝は無粋では無かった。
ただ、小鈴の配慮に感謝し喉を潤した。
小鈴も水を飲みながら春輝の隣に座る。
そうして二人共暫くジッと曇天の空を眺めていた。
やがて、先に春輝の方が口を開いた。
「……どうすれば良いのか、考えていた」
「……らしくないですね。そういうのは苦手でしょう?」
「……だな。何も考えずに突っ走るのが俺の役目だったからな」
苦笑しながら話す春輝。
小鈴はそれに対して淡々と応える。
「でも、もうそういう役目じゃないでしょう?」
「あぁ。美優と出会って……本当にやりたいことがようやく見つかった、そう思ったけど……一人じゃ限界があった」
「限界、とは違うでしょう? 目的までにやることが多すぎた……だから混乱した、が正しいでしょう」
小鈴はそう言って水を飲む。
春輝はそれに対し、何も応えない。
「目的があれば見失うことはありませんが、迷走しないとは限りません。道中迷ったり、遠回りすることだってあるでしょう。今がそれです。でも……何をそんなに迷い、焦っているんですか?」
小鈴の言葉に春輝はハッとする。
「燐を強くすること……美優さんを守ること……滝夜叉姫を討つこと……追手から逃げること……たくさんありますが、全部を一気にやることなんて出来ないでしょう? ましてや、今すぐに出来ないことだってある……確かにこの状況はチャンスですが迷っていたらそのチャンスも棒に振ってしまいますよ? 生かすならどれか一つに絞るんです。チャンスなんて来るものじゃなく作るものなんですから……」
春輝は小鈴を見る。
彼女は相変わらず、何の迷いもない目をしていた。
小鈴の言う通り、チャンスを生かすということは行動して課題を解決するということだ。ここで長々と悩むということでは無い。
そして、今の春輝に出来ることと言ったら限られる。
今彼が出来ることは燐を強くし、なおかつ自分も強くなること。
「……本当、サンキューな。小鈴」
揺れる指針を正してくれた彼女に春輝は心の底から礼を言い、ゆっくりと立ち上がった。
――――――【1】――――――
「……うーん、上手く出来ないなぁ……」
春輝が小鈴と話していたその頃、燐は早朝の公園に陽炎や煙々羅と出て昨日出来なかったソウルライフの膜を作る練習をしていた。
実は、春輝には言っていないが憑霊使いになってから燐は毎日朝の四時に起きてはこうして練習に勤しんでいる。
前に身体を鍛える修行に関しては早朝、公園で太極拳や運動をしている人達を捕まえて身体の動かし方を教わっていた。
学校のある日も休みの日も天気が悪い日も……サボるどころか勤しんでいた。
今回の修行も口では文句を言っていたが、サボることはしなかった。
けれども、今回に至っては身体を動かすだけとは違い、一般人には分からないソウルライフの修行である。
無闇やたらと聞くことは出来ないし、感覚が分からない。
この日も昨日のように膜を張ることは出来るのだが、ものの数秒で解けてしまう。
まだ一分をきることが出来ないでいた。
それどころか、段々と膜の間隔が短くなっているように感じる。
「なんでだろう……さっきより出来なくなっている」
「うーん……ボク達は生まれた時から出来ていたからどう教えれば良いか……」
「正直、分からねぇな……」
「それはお前の集中力が無くなってきているからだ」
頭を悩ます燐達に突如もたらされる助言。
彼女達が驚いてその方を見るとそこには昨日出会った虎次郎が立っていた。
「熱心なのは良いことだが、あまりやりすぎるのもどうかと思うぞ?」
「お兄ちゃんは昨日の……! まさか、春輝のお兄ちゃんを!」
「……さぁ、どうだろうな?」
軽く口元に笑みを浮かべる虎次郎の表情からは真意が読めない。
燐は思わず身構えた。けれども、暫くそうした後、何事かを考えたのか静かにその構えを解いた。
「燐ちゃん!?」
「おいおい、どうした! 春輝の命を狙っている奴なんだろ! だったら敵じゃねぇか!?」
「……ううん、敵じゃないよ。大丈夫」
「……なぜ、そう言い切れる?」
虎次郎は鋭い視線を燐へ向ける。
だが、その凍てつきそうな視線にも燐は怯むことは無かった。
「だって……このお兄ちゃんは燐を助けてくれたもん」
「でもあの時、春輝のお兄さんに向けた殺気は本物だった……」
「うん……でも正直な話し、それだけの人ならあの場でも春輝のお兄ちゃんと戦っていたし、他にも襲う機会はあった筈……なのにわざわざ出てきた……燐のは勘だけど、あのお兄ちゃんは春輝のお兄ちゃんを殺す気なんて無いと思うな……」
燐の言葉に虎次郎は僅かに目を震わせた。
「だが、お前を人質にするかも知れないぞ?」
「ううん、それは絶対に無いよ。だって、お兄ちゃんはそんなことしないでしょ?」
「……なぜ、そう言い切れる?」
「燐の勘!」
「はぁ~……」
虎次郎と陽炎はそれを聞いて同時に溜め息を吐いた。
その瞬間、陽炎にも燐の言わんとしていることがなんとなく分かった。
虎次郎からは“戦意”が感じられないのである。
殺気を受けた影響で警戒していたが、そもそも戦意そのものが無ければ殺気もただの威嚇に過ぎない。
恐らく、燐はそれを本能で感じたのだろう。
「まったく、お前を見ていると五十嵐を思い出す……あいつもそんな奴だった」
虎次郎はそう言って、燐達に近付いて来る。
その頃にはもう陽炎も煙々羅も構えを解いていた。
「お兄さんの目的は……何?」
「ただの朝の散歩だ」
「いや、そういう訳じゃ―――」
「ところで、今やっていたのは膜張りの修行か?」
陽炎の言葉を遮り、虎次郎は燐に尋ねた。
「うん! でも、上手く出来なくて……」
「毎日やっているのか?」
「ううん、昨日から! 今までは身体を動かす修行をやってたの! でも、よく分からなくて……」
「なるほど……確かに五十嵐は戦闘に関しては得意だが、こういうのを教えるのは苦手だからな」
「そうなの?」
「あぁ、憑術や憑装は苦手な方だ。戦闘技術に関しては頭の回転は早いが……こういう複雑なのは出来なくてな。あいつが俺に戦い方を教え、俺があいつにそういうのを教えて一緒に学んでいったんだ。五十嵐が憑術を使えるようになるまで苦労したものだ」
「へぇ~!」
「そんなあいつも弟子を持つようになったか……まぁ、大変だろうがちゃんと強くなれる心配するな」
虎次郎はそういうがその間、燐は何事かを考えてやがてそれを口にした。
「そうだ! だったらお兄ちゃんが燐に教えてよ!」
「……俺が?」
「だって、お兄ちゃんは春輝お兄ちゃんの憑術の師匠でしょ!」
「師匠って訳じゃないが……まぁ、教えたな」
「ほら、じゃあ決まり!」
「勝手に決めるな」
「でも、お兄さんなら教えるのが上手そうだし……決まりだね」
「決まりだな」
「おい―――」
陽炎と煙々羅までそう言い、虎次郎はなおも否定しようとするが燐の懇願するような眼差しを受け、軽く溜め息を吐くと仕方がないように口を開いた。
「……首を突っ込んだのは俺だしな。分かった。だが、朝だけだ。それにこのことは五十嵐には言うなよ」
「うん、分かった!」
そう頷いた燐を見て虎次郎は彼女達に背を向け、公園のベンチに座った。