<< 8 >>
ゆっくりと目蓋を開け、すっかり明るくなったカーテンの向こうを、隙間からのぞくように窺った。
晴れてるみたいだ。だからなのか随分と冷え込み、掛け布団から出ている鼻の頭や頬がぴりぴりと冷たい。今日は土曜日なのだからと二度寝を決め込み、頭まですっぽりと布団を被る。クルンと横向きに丸まって毛布の端っこを抱きしめて目をつぶると、腫れてるらしい眦が手の甲に擦れてヒリヒリと痛んだ。
昨日の夜、どうして今頃なのかわからないけれど、彼から久々の手紙が来た。正直に言うと、もう諦めきっていたから、クローゼットの脇でほんの少し覗いている丸いプラスチックカプセルを見つけた時は心臓がドキンと痛いほどに高鳴った。
そろりと手を伸ばすと、お母さんに「もう出なさい!」と叱られるまで長風呂をし、のぼせてふらつくくらいに温まったはずの指先が、緊張で冷たくなってゆくのがわかる。
キュッと回しながらフタを開け、折り畳まれた小さな紙片を丁寧に開くと、いつもよりやや乱れた彼の文字が目に入り、一瞬めまいに襲われた。
【会いたい】
たった一言。
昨年の11月半ば頃から、年を跨いで2月初旬の今日までの約3ヶ月間、ずっと連絡を取り合わなかったのに、どうして・・・・・・どうして!どうして?!
こんなに長く音信不通だったにもかかわらず、今でも会いたいと思ってくれる彼の気持ちが嬉しくない訳じゃない。あたしだって自分からカプセルを送る勇気がないくせに、毎日のようにクローゼットと壁の隙間を見てしまってたから。でも・・・やっぱり怖い。
だって、会ってどうするの?お互いの素性を教えあって、これからもヨロシクって連絡先を交換するの?カプセルでの交信が携帯に代わって、これまでと変わらずその日あった些細なことをメールし合う?
クリスマスの夜、どれだけ彼に依存していたのかを痛感して一人泣いた。このままもう二度と彼とは繋がらないのではないかと思い、苦しいほどに寂しくなった。
小さな人形に縋りついて泣いて、泣いて、泣いて・・・涙が止まったあと、未だに捨てられず仕舞ってあった、何処にあるかも知らない遠いコンビニエンスストアのレシートとモンスター人形を、子供の頃の宝箱に入れた。
なのに・・・
ジッと文字を見つめているうちに、こんなに悩んでるのがあたしだけのような気がしてきて、なんだか悔しくなった。抽斗からメモを取り出すと腹立たしさをぶつけるように一言、【会えません】と書き、カプセルに詰める。
胸の中心に広がるモヤモヤとした嫌なものを無視してクローゼットの奥に転がしたけれど、その姿が消えた途端、後悔が押し寄せてきた。
あたしはこの時、自分で彼との繋がりの糸を断ち切ってしまった。
泣きながら眠りについたせいで、頭が重い。フラフラと起き上がり時計を見る。すでに10時を過ぎていて、道理でおなかがすいてきたと納得した。
パジャマの上にカーディガンを羽織ると、パタパタとスリッパを鳴らして階下へ降りてゆく。
「おはよ・・」
声を掛けながらリビングへ入ったが、お母さんは丁度でんわの最中で、ソファーに座って新聞を読むお父さんだけがチラリとこちらを向き、片肘を上げるというちょっと器用な合図を送ってきた。
見るからに泣きました!といった様子のあたしに、何か言いたそうに口元を歪めたけれど、結局はおはようとだけ返し、他には何も言わなかった。
「そぉーお・・・あらあらあらっ。・・・うん。そう、・・そうなの~。そう、よかったじゃな~い」
お母さんの表情がとても明るい。声も弾んでいて、凄く嬉しそうだ。
ソファーに座ってテレビをつけると、お母さんがあたしのほうを向きシーッと唇の前に人差し指を立てる。急いで音量を下げ、隣に座るお父さんに「ダレ?」と訊いた。
「貴生くんだ。夏実ちゃん、夕べ二人目が生まれたそうだ」
「えっ!ホント?!うわっ、やった!え、どっち?どっち?男の子?女の子?」
「元気な女の子だそうだ」
「女の子か~・・」
ウッカリ声を抑えずに騒いでしまいお母さんに睨まれたが、あたしは気にもせず、「オメデトー!」と相手に聞こえるくらい大きな声を張り上げた。
お盆に会ったとき4ヶ月だと言ってた。あの時のあたしは元カレに別れを告げられ、精神的にかなりボロボロだった。相手の女性が妊娠していると教えられていたせいで、タイミング悪く同じ日にオメデタだと聞かされた夏実叔母さんの喜びを、あたしは心から一緒に喜んであげられなかったっけ。今更だけどゴメンナサイ。でもそっかー・・あの日会った叔母さんのお腹はまだ全然目立ってなくて、言われるまでわかんなかったけど、そのときの赤ちゃんが生まれたなんて、なんかスゴイ!
一緒に思い出しそうになった彼との思い出はムリヤリ頭の隅に追いやり、今は生まれたばかりの赤ちゃんのことを考えるように努めた。
「とにかくよかったわ~。無事に生まれて。ほんっと昨日の夕方に入院したって電話もらったときから心配で仕方なかったけど」
でんわを切ったお母さんがほっと息を吐きながら、斜向かいの一人用ソファーにドサリと腰を下ろす。するとお父さんがテーブルの脇にあったポットを持ち上げ、目の前にあった急須にお湯を注いだ。自分の使っていた湯呑みにお茶を淹れると無言でお母さんに差し出した。
「あー、ありがとう。興奮して話してたから、ノドが乾いちゃってしょうがなかったのよ~」
熱いお茶を啜ってノドを潤したお母さんは、ねぇ聞いてよ~と何故か困ったような声で話し出した。
「今時の若い親ってみんなそうなのかしら?」
若いって誰が?叔母さん夫婦のことなら、決して若くはないと思うケド。
お父さんと顔を見合い、小首を傾げた。
「そうって?」
「名前。赤ちゃんの名前、もう決めたんですって。と言うか、生まれる前から性別はわかってたから、先に二人で考えたんだって言うんだけど・・・」
そこまで話して深く息を吐く。頬に手を当て首を横に振り、わからないわぁ・・と呟いた。
「名前?なんていうの?」
お母さんの様子を見て、もの凄く興味が湧く。身を乗り出して待ってるのに、なかなか教えてくれない。
「お母さんっ」
焦れて催促すると、再び嘆息した後あたしを見据えて、苦々しい表情で口を開いた。
「『ラブ』ですって・・・」
「らぶ?」
「そう。バレンタインデーが近いでしょ。だからそれに因んで、愛と書いて『ラブ』って読むんですって」
余程気に入らないらしく、眉間にしわが寄っている。
「えー、いいじゃない。『ラブちゃん』。可愛いと思うけど?」
最近は昔と違ってちょっと変わった名前をつけるヒトが多いんだから、愛で浮く事はないだろう。幼稚園にでも通うようになれば周りもきっと、お母さんが思わず引いちゃうような今時の名前の子ばかりだろうから。
「はぁ~・・ちょっと逸美、アンタは結婚して子供ができても、普通の名前をつけて頂戴よっ」
お母さんは八つ当たりのように、矛先をあたしに向けてきた。だけど、
「そんなの・・・まだ全然先のことだし・・。そもそも結婚も出産も相手がいなきゃ出来ないじゃないのっ」
今のあたしにその話題を振る?!・・と言ってやりたくなる。
もうお昼近いのに、長寝のせいで朝ごはんを食べ損ねてメチャクチャ空腹のあたしはムカッとして言い返した。
「そうね!年頃の娘のはずなのに、こんな時間になってもまだパジャマ姿のままの女の子なんて、何処にも貰い手なんていないわよね~」
「! いいじゃない!休日くらいのんびりしたって!」
普段なら茶化すような挑発なんてしないお母さんが、あたしのどこかにポカリとあいた空洞を察したのか、ちょっとわざとらしく文句を言ってくる。家族だからこその気遣いと知りつつ、あたしも少し強めに反撃した。
あたしたち母子がぎゃいぎゃいと口喧嘩をつづける真ん中で、二人に挟まれているお父さんは頭上で交わされる喧騒など気にも留めず、一人のんびりとお茶を啜っていた。