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両親に捨てられた俺が吸血鬼お嬢様に拾われる話

作者: 満月すずめ

 青春を謳歌するにも金がいる。

 それが、この俺――来水(くるみず) (じん)の十六年の人生で得た真理だった。



 授業終わりのチャイムが鳴り、教室中が弛緩(しかん)した空気に包まれる。

 土曜日の授業は半日で終わりだ。午後から遊び歩く予定のクラスメイト達が担任が出ていったのを見計らって集まりだす。

 入学式から半年を過ぎて、クラスでは仲の良いグループが完全に出来上がっている。俺はと言えば、どこのグループにも入っていない。

 断っておくが、別にハブられたりとかイジめられたりしているわけではない。ぼっちではあるが、それにもちゃんと理由がある。

 バイトに行かなければいけないからだ。

 学校が終わるとすぐバイト。それから夜中まで働いて帰って飯食って風呂入って宿題して寝る。それが俺の一日のルーティンワークだ。

 友達と遊ぶ暇どころか作る暇もない。入学してすぐは俺を誘ってくれる奴らもいたが、事情を話すと遠慮してくれるようになった。やむを得ない。金がなければ生きていけないのだ。

 帰り支度を済ませ、席を立つ。

「来水、今日もバイト?」

「土日は稼ぎ時だからな」

「大変だなぁ。じゃーな、気ぃ付けてな」

「おぅ、またな」

 話しかけてきた近くの席の奴に軽く手を振って隣を通り過ぎ、

「藺さん、昨日の話もう一度考えてもらえないかな?」

「ごめんなさい」

 視界の端で、バスケ部のイケメンが超絶美少女にフラれていた。

 微笑みと共にバッサリと切られ、イケメンが茫然と立ち尽くしている。その隙に美少女は鞄を持ってさっさと教室から出ていった。

「これで今月何人目だ? さすがお嬢様は違うねぇ」

「……そうだな」

 呆れと感心を含んだぼやきに、適当な相槌を打つ。

 (りん) 蓮華(れんか)。クラスどころか学校一、いや全国一の美少女にして俺でも知ってる日本有数の総合商社の経営者一族の娘。正真正銘のお嬢様である。

 非の打ちどころのない彼女は、しかしクラスでは俺と同じく少し浮いた存在だった。

 誰とでも朗らかに話すが、それは誰とでも同じ距離感を保っているということでもある。親しい友人はおらず、ああして告白されることも多いが全て断っている。

 中華系とのハーフであり、容姿も少しだけ日本人と違う。

 それが神秘的な魅力にもつながっているが、近寄りづらい要因の一つにもなっていた。

 俺とは違うベクトルで、彼女もまたぼっちだった。

「ま、俺達とは違う世界の人間だわな。特に来水とは」

「全くだ。じゃ、バイト遅れるから行くわ」

「おー、頑張れよー」

 手をひらひらと振る級友を背に、早足で教室を出る。

 今日のバイトは現場仕事だ。制服から着替える時間を考えると、余裕はない。

 下駄箱で靴に履き替えて、小走りでバイト先に向かった。


※   ※   ※


 ガテン系のバイトを終えて家に戻ると、机の上に置手紙があった。

 また借金増やしやがったのかクソ親父め、と思いながら目を落とすと、


『新たな世界で一旗揚げてくる! ついてはそのための資金を用意する為にお前を売った。心して励むように!』


 すっと頭が冷え、体温が下がるのを感じる。

 なんだ、この手紙は。不意に六年前に読んだ手紙の内容を思い出す。


『ごめんなさい、お父さんにはもう付き合いきれません。お母さんを許して』


 手の先に感覚がなく、足も棒のように動かない。

 なんだ、これは、つまり、


 ゴミカスクソ親父は、俺を売って一人で逃げた。


 俺を置いて出ていった、母さんのように。


 お前はいらないと両親に言われた俺は、ただただ冷えて固まっていた。

 チャイムの音がしなければ、一生そのまま突っ立っていたかもしれない。



 まだ高校一年生の俺が毎日夜中までバイトに励んでいる理由は、親父のせいという一言に尽きる。

 俺のクソ親父は競馬に競輪、パチンコに麻雀ととにかくギャンブルが好きだ。競艇にまで手を出したときは怒りよりも先に諦めが来た。

 昔母さんから聞いた話では、結婚前はそんなことはなかったらしい。真面目な公務員で、上司の覚えも良く頑張っていたとか。

 変わったのは、上司の付き添いで競馬場に行ってからだ。

 せっかくだから適当に買え、と上司に言われて見た目が気に入った馬を絡めた馬券を買ったら、これがまさかの大当たり。倍率1041倍のド万馬券によって親父の人生は俺と母さんを巻き込んで狂いだした。

 それからは他のギャンブルにも手を出し、これが何故か勝ちまくった。

 その頃は俺が生まれたばかりで色々と物入りなこともあって、母さんも喜んだ。それが悪かった。

 親父は歯止めが利かずにギャンブルにのめり込み、気が付けば借金まみれになっていた。

 まぐれの勝利は、必然の敗北の前触れだ。

 最初のアホみたいな勝ち分を減らしに減らしてマイナスに突入し、それでも親父は勝利の美酒を飲みたがった。

 給料は右から左へと流れていき、郵便受けは腹いっぱいに督促状が詰め込まれ、しまいにはどうみてもカタギではない方々がご来訪なされた。

 仁王様や龍を背負った方々は親父の仕事先にまでアポイントメントなしで訪問され、ついに親父は職を失うところまできた。

 それでも、親父はシラフに戻らなかった。

 勝利の美酒に酔いしれたまま、次は勝てる必ず勝てると息巻いて毎朝家を出ていく。

 母さんが限界を迎えるのも、当然のことだっただろう。

 俺が十歳になった誕生日、母さんは置手紙一つ残してでていった。

 せめて、

 せめて、俺を連れて行ってくれたのなら。

 こんなクソ親父の元に残された俺がどうなるかは考えてくれなかったのだろうか。それとも、そんなことを考えることすらできないほど追い詰められていたのだろうか。

 誕生日おめでとうの一言さえない置手紙は、ぐちゃぐちゃに破り捨てた。

 母さんに捨てられた俺は、やけっぱちな気持ちになりながらも六年間を生き抜いた。

 親父はギャンブルしかしない。元の家から引っ越したボロアパートは親父の昔の知り合いが大家で、格安の家賃を滞納しているのに追い出すこともせずにいてくれるのがせめてもの救いだった。

 自分の食い扶持は自分で稼がねば飢えて死ぬ。

 なんとか働こうと思えども、現代社会で義務教育も終えていないガキが働ける場所などない。親切な反社会勢力の方々が勧めてくれた働き先で、怒鳴られながら稼ぐしかなかった。

 分かってる。逃ゲ出した方がいいって。

 あんなクソ親父は捨てて、児童相談所にでもなんでも駆け込んだ方がいいって。

 でも、もしかしたら。

 もしかしたら、母さんが帰ってくるかもしれない。そんなことあり得ないけど、もしかしたら。

 それに、ここを出て行ってなんになる。一人ぼっちで生きていくしかないなら、結局は同じことじゃないか。

 親父がいるなら、ぎりぎり一人じゃない。親父はクソゴミカス野郎だが、別に俺に暴力をふるうわけでもなければ怒鳴り散らすわけでもない。飯の時は、今日はああだったこうだった、明日はこうすれば勝つとかなんとか色々話してもくれる。

 母さんに捨てられた俺にとって、唯一の肉親。

 いくら生活が苦しくても、親父を捨てて逃げることは難しかった。

 女々しいだろうか。そうかもしれない。それでも、一緒に食卓を囲んで聞く親父の話が唯一の娯楽でもあったのだ。

 本当は高校にも行かずに働くつもりだったのだが、親父は行けと言った。中卒じゃろくな勤め先もない。金を稼ぎたくば行け、と言われて納得した。


 まさか、その親父に捨てられるとは思わなかったが。


 そんなクソッタレた代物が、来水(くるみず) (じん)の人生だった。


※   ※   ※


 そして今、俺はとんでもない美少女の前で正座させられていた。

 お団子を二つ頭にのっけてもまだ長い髪を背中に垂らし、にんまりとした微笑みとキラキラした瞳で俺を見つめている。

 街を歩けば百人が百人振り向くだろう美貌の持ち主は、(りん) 蓮華(れんか)。そう、昼にバスケ部のイケメンをバッサリと切り捨てていた、あの美少女だった。

 彼女が何故、俺の目の前にいるかというと。

 話せば短く、チャイム音がなると同時に入ってきた黒服達に担ぎ上げられ車に放り込まれ、連れ去られた先がこの部屋だったというわけだ。

 ちなみにこの部屋、応接間にはちょっと見えない。薄暗い室内はいくつかの本棚と机があるだけで、窓すらない。殺風景ともいえる内装に不釣り合いな天蓋付きの豪奢なベッドがどかんと置かれており、そこに藺 蓮華が座っている。

 まさかとは思うが、私室ではあるまいな。

 もしそうなら、女の子の部屋に生まれて初めて入ったのが今日ということになる。なんか泣けてきた。

「来水 迅くん」

「え? あ、はい」

 急に話しかけられて、どこか現実のことと思えず浮足だっていた頭が冷えていく。

 藺……さんは声までもが天上の蜜のようで、美少女はどこにも隙がねぇなぁと思う。

 にっこりと微笑みかけられ、うっかり心臓が高鳴った。

 こんな非常事態だというのに、男の性には逆らえないらしい。悲しい。

「今日からあなたは私の所有物になりました。これから宜しく」

「……はい?」

 言われた言葉が理解できず、呆けた頭で聞き返す。

 所有物? 今日から? ん?

 ナチュラルに人を物扱いしていることに抗議するという思考さえ働かなかった。

 藺さんはにんまりと悪戯そうに微笑んで、一枚の書類を取り出す。

「これに覚えはある?」

 近づけられた書類を読む。

 難しい漢字がずらずらと並んでいるが、なんだか見たことあるような?

 最後に書かれた自分のサインを見て、あっと声を上げる。

「これ、一週間くらい前に親父に書かされた……?」

 正解、と藺さんは人差し指を立てた。

「この書類、要するにね。借金を全部肩代わりして更に貴方のお父さんを支援する代わりに私のものになります、っていう誓約書。法的に問題がないようにあれこれ文言を付け足しているけど、意味はそういうこと」

「……じ、直筆のサイン……」

 誓約書に、直筆のサイン。どういう内容か良く分からないが、おそらく有効だろう。

 いやていうか待って? 借金全部? 親父の支援?

 そこでさっき読んだクソ親父のゴミ手紙を思い出した。

『新たな世界で一旗揚げてくる! ついてはそのための資金を用意する為にお前を売った。心して励むように!』

 ……そういうことか、あのクソ親父めぇぇぇぇぇ!!

 改めて、急速に怒りが沸き起こった。

 青春を全て売り払ってバイト三昧の暮らしをし、下着さえろくに買えない生活を送らせた挙句がこれか!! この仕打ちか!!

 唯一の肉親だと思っていただけに、腹の底で燃える怒りも半端じゃなかった。

 俺の顔が歪んだのを別の意味に捉えたのか、藺さんが唇を尖らせる。

「一応ちゃんと言うと、借金を返し終わるまで私の下で働きます、ってことなんだけど。利子つきだと億超えてるし、お給料は私の胸先三寸。つまり、あなたはもう逃げられないの。どれだけ不満でも」

「億!?」

 まさかそこまで膨れ上がっていたとは知らなかった。

 そりゃ、あちらの世界の方々でもないと貸してくれないわ。ていうか、そんな金に手を付けんなよクソ親父!

 さすがに哀れに思ったのか、藺さんの目尻が垂れさがる。

「安心して。ちゃんと衣食住は保証するし、それなりのお給料も出すわ。返し終わったら雇用契約を変えてそのまま働いてもらいたいし……いつになるかわからなくて大変だと思うけど」

「へっ? 衣食住保証!?」

 驚く俺に、にっこりと笑って藺さんが頷く。

「えぇ、この屋敷に部屋は用意するし、食事は私と一緒に三食出るし、私服以外ならいくらでも支給するわ。お給料から毎月三割、借金の支払いとして天引きさせてもらうけど、言ってくれれば天引きの割合も変更可能よ」

 次々と出てくる藺さんの言葉が全く信じられない。なんだその天国みたいな労働環境は。

 薄紅色の唇から紡がれるそれらは詐欺なんじゃないかと思う。

 いや、本当に。なんでこんなにいい条件なんだ。

「あの、藺さん……?」

「なに? あ、蓮華で宜しく。この屋敷に住む以上、名字だと家族の誰かわからないから」

 屋敷に住むの俺!? という驚きはひとまず置いといて、何より真っ先に聞くべきことを尋ねる。

「蓮華……さんはなんで俺なんかが欲しいんだ? そんなに良い条件をぶら下げてまで」

 そこが最大の疑問だ。

 藺さん……蓮華さんは、はっきり言って超絶美少女だ。青みがかった黒髪は艶やかで美しく、切れ長の瞳は鋭さと怪しさを含んで蠱惑的だ。ほっそりした輪郭、整った鼻梁、ハリのある薄紅色の唇と、二次元から出てきたといっても信じるほどの凹凸のはっきりしたスタイル。全てが完璧に調和している。

 これで家は金持ちで性格も朗らか、声まで甘くとろける響きとなれば、天が全てを与えた存在と言っても過言ではない。

 唯一、親しい友人を作らないことが欠点と言えば欠点ではある。だが、それも彼女のミステリアスな雰囲気を演出する要素の一つとなっている。当然彼氏もいない。告白した男子は数知れず、しかし全員玉砕済みだ。昼に見たように。

 そんな非の打ちどころのない美少女が、何故借金まみれで顔も良くなきゃ勉強も運動もろくにできない俺なんかをここまでして欲しがるのか。いやまぁ、勉強はバイトばっかしてたせいでやる暇がなかったからだし、運動も球技のセンスがないだけで喧嘩はやれる方だと思っているんだが。

 俺の言い訳はいい、そんなことより蓮華さんだ。

 彼女は薄っすらと微笑む。それは、今までの笑みとは『何か』が決定的に違った。

 背筋が凍るような、ゾッとする笑み。それなのに、ひどく美しくて見入ってしまう。

 目が離せない。まるで魂まで魅入られたかのように。


「私、貴方の血が欲しいの」


 どくん、と心臓が跳ねる。

 血? 血が欲しいだって?

 蓮華さんの瞳が赤く紅に輝く。その瞳に見つめられると、全てを差し出してもいい気がしてくる。跪いて許しを請うように、愛を求めるように。

 おかしい、と頭のどこかが冷静に囁く。こんなの絶対に普通じゃない。

 だって、血のように紅い瞳だなんて、人生で一度も見たことがない。

 ベッドから降りた蓮華さんが小さな足音を立てて近づいてくる。後ずさりしようとして、体が動かせないことに気づいた。金縛りってこういうことを言うのか。指一本自由にならないのは、恐怖としか言いようがなかった。

 蓮華さんは俺の前で足を止め、指先だけで俺の顎に触れ顔を上向かせる。

 この世のものとは思えない美しい連華さんの顔と、人間のものとは思えない緋色の瞳に心臓を鷲掴みにされた。

「吸血鬼、って知ってる?」

「あ、あぁ……えっ!?」

 頷いてまじまじと連華さんを見やると、彼女は犬歯を見せつけるように笑う。そこにあったのは八重歯なんて可愛いものではなく、小さくとも鋭い牙だった。

 吸血鬼。マンガやゲームなんかでお馴染みの怪物。

 人の血を吸い、永遠を生きる魔の者だ。

 ペストなどをはじめとする流行り病の擬人化とも言われる吸血鬼は、様々な逸話と設定があちこちで作られ、もはや何が正しいかさっぱり分からない。

 そんな架空の怪物だと、蓮華さんは言ってのけた。

「藺家は由緒正しい吸血鬼の家系なの。私もそう。だから、貴方の血が欲しい」

「いや、ちょ……待って、待ってくれ! 吸血鬼なのは分かった、分かったけど、俺である必要は!?」

 正直に言えば分かっていない。いきなり吸血鬼ですと言われてはいそうですかと受け入れられるほどの度量はしていないのだ。

 が、それはいい。ひとまず置いておく。

 それよりも、さっきの話に俺である必要性がどこにもない。あれか? ほぼ天涯孤独で探す人もいないから行方不明になっても大丈夫だからとかそんなんか!?

 俺はここで吸血鬼に血を吸いつくされて死ぬのか!?

「だって、貴方の血がとっっっっっても美味しかったんだもの」

「え?」

 こないだ飲んだタピオカが美味しかった、くらいの調子で蓮華さんはそう仰った。

 美味しいのか、俺の血。

「半年前、入学してすぐに先生に頼まれて一緒にプリント片付けたこと、覚えてる?」

「あ、あぁ……」

 覚えている。四月、入学してすぐ。

 クラスで友達も作らず浮いていた俺達二人が揃って名指しされ、プリントの回収と整理をさせられたのだ。

 ここまで覚えているのは、衝撃的な事件が起こったから。

 プリントで切った俺の指を、連華さんが咥えるという。

 あの時は驚きの余り言葉を失い、『保健室で絆創膏をもらってくる』と言った蓮華さんを茫然と見送った覚えがある。いや、なんか言ったかもしれない。衝撃が強すぎてよく覚えていない。

「あの時の味が忘れられないの。口の中に広がる芳醇な味わい、鼻を通り抜ける爽やかなのに濃厚な香り。匂いからして理性を失うほど美味しそうで、気が付いたら口の中に含んでいたわ……あんなの初めて」

 悦に浸る蓮華さんは、同い年とはとても思えないほど艶やかで危険な魅力に満ちていた。

 潤んだ瞳は男心を串刺しにし、紅潮した頬が性を誘う。心臓は痛いほど脈打つのに、未だに指先一つ動かすことができない。

 暗闇に浮かぶ赤は、底知れぬ堕落へ人の手を引く悪魔のものだ。

「あの日から、どうにかして貴方を手に入れられないかとあちこち探ったの。そして、貴方の家庭環境と経済状況を知り、準備を整えて頃合いを見計らった。その成果が今よ」

 蠱惑的な紅い瞳に見つめられ、背筋がぞっとする。

 蛇に睨まれた蛙、というのはこんな気持ちなんだろうか。

 捕食者と被捕食者。狩人と獲物。抗いがたい食物連鎖のピラミッド。

 彼女は、極上の餌として俺を欲している。逃げることは、できない。

「……俺じゃなくても、血を提供する奴はいっぱいいるだろう」

「そうね、『食事係』はうちにもいるわ。でも、私はグルメなの。まずい血なんか吸いたくない。そのくらいなら普通の食事で我慢する。けど、貴方は別。貴方の血が吸えるなら、普通の食事なんていらないくらい」

 ある意味において熱烈な告白に、恐怖と同じくらい歓喜で心が震える。

 いや、歓喜て。俺はマゾでもなければ自殺志願者でもない。そりゃ献血くらいなら構わないけど、これは絶対そういうのとは違う。

「……血を吸われるのって、痛いのか?」

「いいえ。吸血鬼の牙に噛まれれば快楽を得るわ。血はその間に吸われるの。痛みや苦しみで喚かれたり暴れられたら、吸う方も大変だからね」

 そうか、痛くはないのか。そりゃそうだよな、食事の最中に料理が動いたら面倒だ。

 諦めの笑みと共に漏れた声は、どこか遠く他人事のように響く。

 人生、これまでか。まぁいいか。どうせろくでもない人生だったのだ。最後の最後にこんな美少女に血を捧げて死ぬなら、そう悪くはない。

 顔が自然と笑みの形になる。視線の先の蓮華さんは、満足そうに微笑んでいた。

「どうぞ、思う存分味わってくれ。墓は……いらないか。骨は海にでもまいてくれ。埋めたら埋めたで面倒だろうしな。最後くらい誰にも迷惑をかけたくない」

 喋りながら、それがいいと一人頷いた。望まぬ道を生き汚くやってきたのだ。最後は綺麗に終わりたい。

 覚悟を決めて微笑むと、蓮華さんが目をぱちくりさせていた。

 少しの間を置いて、段々と彼女の目が吊り上がっていく。

 怒ってる? え、なんで!?

「迅くん」

「はいっ!」

「私の言ったこと、ちゃんと聞いてた?」

 こくこくと首を縦に振る。気づけば体は自由に動くようになっていた。

 だが今はそんなことどうでもよくて、目の前の女の子がなんで怒ってるか分からなくて怖い。

「嘘」

「嘘じゃない! あの、蓮華さんは吸血鬼なんだろ? で、俺の血が美味しいから欲しいわけだ。つまり、俺の命はここまでってことだろ?」

 必死の説明をしたのに、蓮華さんの目はますます吊り上がり、唇を尖らせる。

 え? なんか間違ってた?

「私、これからの生活と毎月(・・)のお給料の話もしたと思うんだけど?」

「あ、あぁ。びっくりするほど好待遇で驚いた」

 そう、だから何故そんなに厚遇するのか聞いてみたのだ。で、吸血鬼がどうので俺の血がどうのという話になり……あれ?

 蓮華さんは小さくため息をついて、俺と目線を合わせてきた。

「今すぐ血を吸いつくして殺す人に、そんな話する?」

「いや、あぁ、そっか、うん……確かに」

 段々と頭が冷静さを取り戻していく。

 そりゃそうだ。すぐ殺すのに雇用形態も給料も何も意味がない。あれ? じゃあ俺死なないの?

 呆けた顔で蓮華さんと顔を合わせる。ほんの数センチ先に彼女の顔があり唇があるのに、半ば放心していた俺はなんとも思わずただじっと見つめた。

「あのね、貴方は私にとって貴重な食糧なの。簡単に死ねると思わないでね?」

 言ってることはド外道なのに、拗ねた顔で言われるとなんだか可愛く思えてくる。

 多分、もう感覚が麻痺しているんだと思う。今日はとんでもないこと続きだから。

 だから、なんだか心が温かくなるのも、精神の感覚さえおかしくなっているからなのだ。

 両親に捨てられた俺を、この子は欲しいと言ってくれる。簡単に死ぬなということは、生きろということだ。生きることを、望まれているのだ。

 死のうが生きようが誰も大して気にしないだろう俺の人生を、望んでくれている。

 おかしくなった頭では、それはひどく嬉しいことに思えた。

「分かった。俺は蓮華さんの所有物だもんな」

「蓮華」

 短く訂正され、ごくりと唾を飲み込む。

 これ、呼び捨てにしろってことだよな。なんでそんなことを、と思うが、今の俺は彼女の所有物。望まれたならやるしかない。

「……蓮華」

「うん、宜しい。長生きにはストレスのない環境が大事って言うし、気になることがあったら言ってね」

 はは、これはつまり、本当に簡単には死なせてくれないらしい。

 ペットか何かみたいな扱いだが、吸血鬼からすれば人間なんてそんなものか。あのクソ親父と暮らして分かったのは、諦めが肝心ということだ。

 こんな好待遇に文句を言ったらバチが当たる。

「蓮華、これから宜しく」

「えぇ、こちらこそ。迅くん」

 そっちは君付けなんだなと思ったが、口には出さなかった。所有物としては、彼女の意向を優先させるべきだろう。

 差し出された掌に、自分の手を重ねて握る。

 彼女の手はほっそりして柔らかく、肉体労働で皮が硬くなってタコまである自分の手で触ってはいけないのではないかという気がした。

 嬉しそうな彼女の笑顔に、まぁいいかと思う。

 これから先どうなるか分からないが、死ねないそうなので頑張ろう。


※   ※   ※


 ゆっくりと意識が覚醒していく。

 人生で味わったことのないふかふかの感覚に体が包まれている。あぁ、俺死んだんだな。こんな心地良いのは天国だからだ。

 寝ぼけた視界も真っ白に埋め尽くされていて、なるほどなぁ、なんて思った。

「おはようございます、来水様」

 聞き覚えのない声に視線を向けると、クラシックな衣装のメイドがいた。

 は? メイド?

 想像してなかった異常事態に、一気に目が冴える。

 起き上がって見れば、視界を埋め尽くしていたのは白いシーツで、決して俺のものではありえないベッドに寝転がっていた。

 周囲を見回す。見知らぬ部屋だ。

 いや、そうだけどそうじゃない。ここは蓮華さんの屋敷だ。

 目が覚めると共に記憶もはっきりしてくる。俺は昨日から蓮華さん……連華の所有物になり、この部屋をあてがわれたのだ。

 バイト終わりの急展開に肉体も精神も疲れ果てて、部屋に入るなりぶっ倒れたんだった。

 ふと見れば着の身着のままで、風呂にさえ入ってなかったことを思い出す。

「お目覚めになられましたか」

「あっ、はい……えっと……?」

 どなたですか、という気持ちを込めて見やると、中世からタイムリープしてきたようなメイドさんが無表情のまま腰から頭を下げた。

「私はお嬢様付きのメイド、() 清廉(せいれん)と申します。本日より来水様の指導を担当させて頂きます」

「指導……ですか?」

 頭を上げた夏さんが小さく頷く。

「来水様は私と共にお嬢様のお世話をしていただきます。技能が必要なものに関しては私が行いますので、それ以外が来水様の担当となります」

 要するに、この人が職場の先輩ということだ。

 仕事のサポート体制も万全で、今までのバイト先を思い出して涙がにじむ。

「はい、よろしくお願いします」

「では、まず浴場へ。汗を流されている間に制服をご用意いたします」

「分かりました」

 大人しく頷いて夏さんの後をついて歩く。

 ぴんと伸びた背筋が美しく、仕事ができる空気を全身から放っている。年齢はおそらく二十代だと思うが、落ち着いた雰囲気がそれ以上にも見せてくる。蓮華とは方向性の違う美人で、この屋敷に務めるには顔面偏差値が高くないとダメなのかもしれない。

 だとしたら、俺は速攻でクビになるが。

 使用人――もとい従業員用の浴場は銭湯のような大きさで、手早く汗を流して体を洗う。

 さっと上がれば、さっきまで着ていた服の代わりが置かれていた。

 タキシードを基調とした執事服。マンガやアニメの中でしかお目にかかれなかったものが、今目の前にある。メイドがいる時点で覚悟はしていた。

 よく見れば、首回りがだいぶ広く開いている。肩口まで見えそうだ。

 その理由にはすぐに思い当たった。吸血鬼の執事服としてこれほど適切なものもないだろう。実に機能的だ。

 文句を言う筋合いもない。さっさと着替えて出れば、夏さんが直立不動で立っていた。

「それではこれから屋敷を案内しつつ一通りの説明を行います。質問や疑問がございましたら、適宜仰ってください」

「はい。あ、じゃあ早速……夏さんはどうして俺に敬語なんですか?」

 眠気の尻尾を風呂で取り払ってから、そういえばと思っていたのだ。

 俺は仕事を教わる後輩なのに、どうして先輩で指導役の夏さんが敬語なのか。癖になっているとか仕事中は敬語を使うんだと言われれば納得するが。

「清廉で結構です。来水様は我々使用人と違い、お嬢様の所有物です。すなわち、お嬢様の財産となります。相応の対応をしているまでです」

「はぁ……財産、ですか」

 なんだかとんでもない言い分に、オウム返しをしてしまう。

 財産。なんだか尊重されているような、いないような。少なくとも、人間相手に使う言葉じゃないよなぁとは思う。

 小さく息を吐き、清廉さんの瞳が臙脂(えんじ)色に鈍く光る。

 ぴりっと体に電流が走り、背筋が震える。この人も、吸血鬼なのか。

「そうですね、屋敷を案内する前に最も大事なことをお話しします」

 正面から見据えられ、視線を逸らすこともできず唾を飲み込む。

 清廉さんの声が、まるで耳元で直接話されているかのように良く聞こえた。

「お嬢様にとって、貴方は特別です。あの方はほとんど血を召し上がりません。飲みたくない、というのは半分本当で、もう半分は飲めないのです」

「……どうしてですか?」

 かろうじて動く唇を動かして尋ねる。

 飲みたくないじゃなくて、飲めない。まずい血は飲みたくないと言っていたが、彼女なりの強がりだったということか。吸血鬼なのに、それは大丈夫なんだろうか?

「体が……いえ、心が拒絶しているのです。血を飲むことを。ですが、貴方の血は違った。そんなお嬢様が自ら口に含み、『欲しい』と仰った。ですから、貴方はここにいます」

 拒絶? 心が?

 どうして、という疑問が頭の中で渦を巻く。けれど、尋ねることはできなかった。

 それは、きっと、容易く他人が触れて良い部分ではないと感じるから。

「我々は決して貴方を逃がしません。大人しく務めを果たしていただければ、藺家の皆様に次ぐ形で遇させていただきます。逃げれば手足の一本くらいはもぎとります。ゆめゆめ、お忘れなきよう」

 それは宣告だった。

 丁寧に腰から頭を下げる清廉さんに俺が言える言葉は、一つしかない。

「分かりました」

 それだけ。了承の意を告げるだけ。

 恐怖は勿論ある。本当に彼女達は俺を逃がさないだろうし、その為なら腕や足くらいもいでしまうだろう。恐ろしくないはずがない。

 でも、俺が頷いたのはそれだけが理由じゃない。

 気になったのだ。俺を欲しいといった彼女が、一体どんな傷を抱えているのか。今も痛みに涙しているのか。

 もしそうなら、何かできることをしたい。

 一晩で美少女に絆されるとは、随分ちょろいもんだと自分でも思う。やはり男の性から逃れることはできないのかと情けなくも思う。

 それでも、尖らせた唇の可愛らしさや、握った手の柔らかさに心が動いてしまったのだ。

 吸血鬼が血を全く飲まなくて平気、なんてことはあり得ないだろう。それは、俺に対する清廉さんの態度でもわかる。もしそうでなければ、俺をこんな丁重にもてなすはずがない。

 血を飲みたくない彼女が、唯一自ら欲する食糧。

 ひとまず、与えられた役目を全うしよう。止むを得ず拾った、じゃ俺も寂しい。拾ってよかったと思ってもらいたい。

 案内を始める清廉さんの後ろについて歩き、一言一句聞き漏らすまいと集中する。

 覚えることは山ほどある。余計な考えを振り払って、目先の人生に立ち向かうべく気を引き締め直した。


※   ※   ※


 蓮華と俺が住む屋敷は、藺家の別邸である。

 本邸とは渡り廊下でつながっているが、あまり行き来はないらしい。別邸に住んでいるのは蓮華とそのお世話をする使用人達だけで、そこに俺が追加された形になる。

 日曜日ということもあり、昨日一日で一通りのことを詰め込まれた。ある程度のルールも把握したところで早速本日から仕事始めである。

 俺の仕事はまとめると蓮華の身の周りの世話とボディーガードだ。

 世話はいいとして、ボディーガード。屈強な黒服がついていて、本人も吸血鬼なのにこれ如何にと思うかもしれないが、ちゃんとした理由がある。

 黒服はどこにでもついていけるわけじゃない。周囲への影響もそうだし、蓮華本人だって窮屈だ。その点、俺なら女子限定の場所以外ならどこにでもついていける。そして、人間相手に吸血鬼の力で殴ったりすればそれはもうえらいことになる。

 蓮華に力を振るわせない為のボディーガードというわけだ。

 ろくでもない人生を送ってきたから、喧嘩はそれなりにできる。アッチ系の方々から心得を説かれたこともある。複数で囲まれたりしなければなんとかなるだろう。

 そんなわけで、襟首が大きく開いた執事服を身に着けてドキドキの初仕事だ。

 蓮華の部屋をノックする。応答があれば一旦止まるが、なければ入っていい。

 応答はなかった。鍵を開けて中に入る。

 初日に俺が連れ込まれた部屋は、やっぱり蓮華の私室だった。窓のない部屋に豪奢な天蓋つきのベッドと簡素な家具類。

「蓮華、朝だぞ」

 ベッドに近づきながらまず一発目。

 もぞもぞと掛け布団と毛布の塊が動いたが、起きる気配はなし。さすが吸血鬼、朝には弱い。俺より早く起きて働いている清廉さんは例外とする。

「蓮華、起きろ」

 毛布の塊を軽く揺さぶる。

 これで起きなければ剥ぎ取って、それでもダメなら最終手段で俺の血だ。この仕事を任されたのは、この最終手段が使えるからでもある。

 塊がもぞもぞと震える。ぴょこんと頭が飛び出て、上目遣いにこちらを見た。

「ん……? 迅くん……?」

「おはようございます、お嬢様。朝の支度のお時間でございます」

 清廉さん達を真似て、使用人らしく言ってみる。こういうのもコスプレというのだろうか。

 妙な感覚にむずむずしていると、蓮華がくすくすと笑った。

 美少女は寝起きで笑っても可愛い。この世にまた一つトリビアが増えた。

「似合わなーい」

「自分でもそう思う。ほら、遅刻するぞ」

 はぁい、と眠たげに返してもぞりと起き上がる。

 その瞬間、俺は素早く背を向けてドアに向かった。

「着替えたら食堂行くぞ、外で待ってる」

「ん? あ、待って待って」

 ぐいっと腕を掴まれ引っ張られ、思わずバランスを崩して倒れそうになった。

 ええい、この吸血鬼お嬢様め! 力強いんだよ!

 なんとか踏みとどまり、背を向けたまま立ち止まる。

 彼女の冷たくて細い指が、腕からのぼって首筋を這う。

「起きたばっかりってさ、ちょっとお腹空くよね?」

「だから朝飯準備してあるって! 早く着替えろ!」

「ん~、そういうことじゃないんだけどな~」

 ぴたり、と背中に体がくっつけられる。心臓がアホみたいにうるさい。

 だって、こいつキャミソールだかベビードールだかわかんねぇもん一枚しか着てねぇんだよ!!

 露出した肩や見ようとしなくても見える谷間が、あまりにも強い刺激を与えてくる。女と付き合う暇なんかなかったから、免疫なんぞつけようもない。

 夜の店で働いた経験もあるが、周りは年上ばっかだし気にならなかった。

 だが、同級生で、しかも超美少女の寝起き姿を気にしないのは無理だ。まだ十六でそこまで枯れ果てることはできない。

 俺の血を求めていることは分かる。分かるが、背中に感じる柔らかな感触とか指先の冷たさとかが俺にとてつもない我慢を強いていることを理解してほしい。

「いいよね?」

 やめてくれ、耳元でその囁きは鼻血が出る。

 例え意味していることが全く違うと分かっていても、男というのは都合よく受け取る生き物なのだ。ガテン系おっちゃん達が言っていたことが身に染みる。

「どうぞ」

 かといって、俺に否やを唱える権利はない。

 俺は蓮華の所有物。主が欲しいと言えば差し出すのが仕事だ。

「じゃあ、いただきます」

 牙が首筋に突き立てられる。

 痛みを伴ったのは一瞬だけで、すぐに手足が痺れるような快感がつま先から脳天までを支配した。

 自分がひどく間抜けな表情をしているのが分かる。背中に感じる二つの膨らみと肌の滑らかさに脳髄が溶け、ごくりごくりと彼女の喉が動くたびに力が抜けていく。


 ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい! 気持ちよすぎておかしくなりそうだ!


 永遠とも思える数十秒が過ぎ、蓮華が牙を離して悩まし気な吐息を漏らした。

 心臓の奥の獣が目を覚ます。首を捻れば瑞々しい唇が目に入り、彼女の頬が桃色に咲いている。誘蛾灯に群がる虫のように引き寄せられていく。

 その唇を奪えば、どれだけ心地良いだろうか。細い手首を掴んで後ろのベッドに押し倒して、薄い生地に透ける柔肌を――


 ――太ももを殴りつけて頭の悪い考えを追い払った。


 阿呆か、俺は。何をしようとしてんだ!

 人として男として、そんなことは絶対に許されない。彼女が俺に押し倒されることなんてあり得ないが、それでもそんなことをしちゃいけない。

 それで彼女が俺の血までも拒むようになったら、どう責任を取るのか。

 昨日、清廉さんから聞いた話の中にあった。吸血鬼は血を飲まなければ、衰弱死するらしい。人間でいう餓死だ。

 清廉さんの話だと、蓮華は一度餓死寸前まで行ったそうだ。

 その時はなんとか一命を取り止め、清廉さん達が願い倒してなんとか月一で輸血用パック一袋を飲むようになったという。

 それでは生命維持の役割しか果たさず、家族や親類からはもっと飲むように言われている。彼女が別邸に住んでいるのは、それが理由だ。

 顔を合わせる度にもっと血を飲めと言われるのが嫌になって、別邸に引きこもった。そんな状況で、俺の存在は清廉さん達や蓮華の家族からすれば希望そのものだ。

 それなのに、俺が下手なことをして拒まれたら。俺の人生も彼女の人生もお先真っ暗だ。

 小さく深呼吸を繰り返し、気分を落ち着ける。どうにか冷静になってきた。

 ふと、肩を掴む彼女の手に力がこもる。

 振り向けば、潤んだ瞳で真っすぐに俺を見つめていた。だからそういうのやめろ、青少年の心をなんだと思ってるんだ!

「嫌だった?」

 蓮華が俺の顔を窺いながら聞いてくる。

 は? なんでそんな話に?

 わけがわからず、聞き返してしまう。

「なんで?」

「だって、何か我慢してるみたいだから。やっぱり怖い?」

 そう尋ねる彼女の方が、何かに怯えて瞳を揺らしていた。

 牙から滴る血が、口の端から顎を伝う。

 それは淫靡で妖艶で、どこかこの世のものとは思えない。

 それでも指先で拭えば、人と同じ柔らかな感触と温かさがあった。

 血の付いた指を咥えてみる。血液独特の鉄臭い味がした。

「これ、美味いか?」

「美味しいよ! すっごく! 人生で一番!!」

 眉を(ひそ)めて尋ねれば、蓮華が勢いよく顔を近づけてくる。

 その表情は真剣そのもので、なんだかちょっと笑えて来た。

「そりゃよかった。お役に立てて何より」

「うん……や、そうじゃなくて!」

 切れ長の瞳は目じりを上げるとだいぶ怒っていると分かりやすい表情になる。ややキツい印象を受けるタイプだが、今の俺にはなんだか可愛く見えた。

 彼女の所有物としての自覚が出てきたのかもしれない。

「怖くないよ。何の役にも立たず、また捨てられる方が怖い。蓮華の為になるんなら、むしろ嬉しいまであるね」

 胸を張ってそう言うと、蓮華は目を瞬かせた。

 長い睫毛が二度三度と往復して、ゆっくりと微笑みを浮かべる。

「それ、告白?」

「身分差を無視できるほど恐れ知らずじゃないんで」

「いくじなし」

「玉砕した連中で屍の山を築いてる自覚は?」

「吸血鬼が事情も知らない人間と付き合えるわけないでしょ」

 ごもっともな意見に、二の句が継げなくなってしまった。

 そんな俺を見て、蓮華がくすくすと笑う。

「良かった。迅くんが話しやすい人で」

「……そういうのも含めて調査したんじゃないのか?」

「そうだけど! 実際どうかとは違うじゃん。一緒に暮らして初めて分かることってのもあるじゃない?」

「それはそうだな。如何ですか、お嬢様?」

 わざとらしいボウ・アンド・スクレープをしてみせれば、彼女は嬉しそうに笑った。

 学校でも見たことのない笑顔に、喉が詰まる。

「迅くんで良かった。请一直在我身边」

 バカみたいに胸が高鳴ったのは、俺のせいじゃないと思う。

 後半部分は何を言ってるのか分からなかったが、聞くのも野暮な気がして何も言わなかった。


※   ※   ※


 蓮華を起こした後は制服に着替え、一緒に朝食を食べて車に乗って学校へ向かう。

 どう考えても使用人の扱いではないが、俺は蓮華の所有物なのでそれでいいらしい。まぁ、清廉さんも『藺家の方に次ぐ形で遇する』と言っていたから、そういうことなんだろう。

 それなら所謂(いわゆる)食事係でもいいんじゃないかと思ったが、それは蓮華が嫌がった。なんというか、蓮華は吸血鬼らしくなさすぎる。いや、俺も吸血鬼のことなんてマンガと清廉さんから教えられた話でしか知らないけど。

 少なくとも、太陽の光で灰になるとか、流れる水の上を通れないとかはない。もしそうなら、蓮華が学校に通うのは不可能だ。なので、そのへんはすんなり納得できた。

 ただ、朝に弱い蓮華は朝日が苦手ではある。車の送迎はその辺を踏まえてと、血をほとんど飲まない蓮華の体調を心配してのものだ。

 このまま俺の血を飲み続けたら車の送迎は必要ないかもしれない、と蓮華は笑った。そして運転手の(こう) 忖義(そんぎ)さん(58)は肩を落とした。

 他愛ない話をしている内に学校につき、使用人らしく先に出てドアを開けて待つ。蓮華は若干眉を顰めたが、俺に合わせるように優雅に降りる。

 車から降りるだけなのに所作の一つ一つが綺麗で様になっているのは、さすが吸血鬼としても人としても由緒ある名家のお嬢様だ。

 余裕たっぷりに流し目を送ってくるご主人様に苦笑して小声で褒めた。

 そしてまぁ、こんな派手な登場をすれば周囲の視線も集まるわけで。

 蓮華が車で送迎されるのはいつものことだが、そこに俺がくっついてくると話は変わってくる。誤解されるのも面倒なので、こうして態度で示したわけだ。俺達の関係を。

 ひそひそ話がどこからともなく始まって、人から人へ伝播して広がっていく。

 その影響は、俺達が教室につくと早速出た。

 ドアを開けた瞬間、視線が一気に集まった。いやー、分かっていてもこれは辛い。物理的な圧力を伴っている気さえしてくる。

 そんなものまるでないかのように蓮華はすまし顔で席につく。この衆人環視の中、何も気にしてませんという面が出来るのは豪胆を通り越して心臓に毛が生えている。

 俺だけビビっているのも情けなく思えて、彼女を見習って同じく平然とした顔で席についた。途端、鞄を置く前に人だかりができる。

「おいおい来水! どうしたんだよお前!?」

「藺さんと一緒の車!? 急にどうした異世界転生したか!?」

「やっていいことと悪いことがあるぞ!」

「人生をバイトに捧げたお前に何が!?」

 誰も捧げてねぇよ殴るぞ。

 一部腹の立つ発言もあったが、こいつらの言いたいことも分かる。俺だって急に蓮華が誰かと一緒に登校してきたら何事かと思う。

 しかし、自分がくらうとなるとここまでうざったいとは。他人の事に興味津々すぎるだろお前ら。

「転職したんだよ」

「転職!? ダーマ神殿か!?」

「バカお前エージェントだろ! ネット広告めっちゃやってんじゃん!」

「何の職業だったら藺さんと車で登校すんだよ!!」

「勇者か!? スーパースターか!? パラディンか!?」

 困惑しすぎてクラスメイトの知能の低下が止まらない。なんだよ勇者って職業なのかよ。職業だったわ。

 やいのやいのと騒ぐ級友達を横目に、こっそり蓮華の様子を盗み見る。連華もまた同じようにクラスメイトに囲まれ、質問攻めにあっているようだった。

 主に女子連中が大半だが、中には男もいる。普段から女子ともつるむことの多いクラスのリア充イケメングループだ。ふと見れば先日見事にフラれたバスケ部もいて、しつこく何か聞いていた。少しイラっとする。

 蓮華はいつものアルカイックスマイルで対応していた。そういえば、学校での蓮華は口数の多い方じゃなかったな。ここ二日で随分と俺の中で彼女の印象は変わっていた。

 前は神秘的で綺麗なお嬢様、くらいにしか思っていなかった。じゃあ、今はどうかと言うと――普通、だと思う。

 普通の子だ。年相応の女の子。

 普通に怒るし落ち込むし、我侭も言えば身内に甘えたりもする。超常の存在ってわけじゃない。吸血鬼ではあるけれど。

 家族との仲に悩んで、自分の心に戸惑って。折り合いのつかない気持ちを誤魔化しながら何とか生きている。その辺にいる、当たり前の女の子だ。

 傍で見れば全てを持っている完璧超人で、違う世界の存在に思えるけれど。そんなことはないのだ。そうして誰もが遠巻きにして踏み込まず、彼女もまた生まれの事情から踏み込ませない。ぼっちのお嬢様はそうして出来上がった。

 大変そうなら助け舟を出した方がいいかと考えていると、蓮華と目が合った。平気だと言うように小さく笑う彼女に、頑張れの意を込めて頷き返す。

「おい」

 怨念の(こも)った低い声に、思わずそちらを見る。

 俺を取り囲んでいた奴らが全員、恨みがましい目つきで睨みつけてきていた。

「なんだお前今のはおい、どういうことだよ?」

「あやしーい、あやしいですせんせーい」

「いかんね、これは。罪だよ、来水」

「天にまします我らの父よ、裁きを与えたまえ」

 思い思いの形で嫉妬をぶつけてくる連中の遠慮のなさに思わず笑いが零れる。

 こんなに素直に生きられると気持ちよさそうだ。俺も人の事は言えないが。

「来水! 本当のことを言えよ、俺ら友達だろ!」

 血走った眼で肩を掴まれ、驚きに目を見開く。

 友達、友達ってなんだ。振り向かないことか。

「いや、違うし」

 こいつらを見習って素直な気持ちを口にすれば、ショックを受けた顔で固まられた。

 いや、だってそうだろ。今までの俺に友人を作る余裕があったと思うのか。

「いや、うん、まぁ。今のはお前が悪い」

「クラスメイトってぐらいだもんなー、俺ら。来水はいっつもバイト三昧だったし」

 ショックを受けている奴の肩に手を置いて追い打ちをかける二人。仲良いなこいつら。

「仕方ねぇな! なら、今から俺らは友達だ!」

 あ、立ち直った。早すぎるだろ。

「よし、自己紹介からだ! 俺の名前は――」

 言いかけたところで、担任が入ってきてチャイムが鳴った。

 胸を張って名乗ろうとした奴は他の二人に肩を掴まれ連れて行かれる。気のいい奴なんだろうけど、頭は良くなさそうだ。……人の事は言えないが。

 HRが終わって授業が始まってしまえば、俺と蓮華のことは意識の外に追いやられていく。一応その日は放課後まで誰かしらが話しかけてはきたが、人の噂も七十五日。そのうちに忘れられるかそういうもんだと定着していくだろう。

 まぁ、つまり、油断していたのだ。

 どうということはないだろう、大したことはないだろう、と。

 『だろう』ではなく『かもしれない』という心構えでいろ、とは車の運転だったか。免許も取れない身では、その腹積もりはできていなかった。

 そのことを後悔したのは、初めて二人で登校してから一週間後のことだった。


※   ※   ※


 一週間も経てば、騒ぎ続けるのも疲れてくる。

 藺家の車から俺と蓮華が出てきても、先週のように視線を集めることはなくなった。

 学生の適応能力とは恐ろしいもので、もうそれが当たり前として受け入れられていた。慣れてしまえば何事もそんなものか。

 普通に教室に入って普通に挨拶して普通に授業を受ける。土日を挟んだからか、先週と比べての落ち着きようが凄い。

 少し変わったことと言えば、蓮華に話しかける女子が増えたことだ。

 前までも多少なりと話してはいたようだが、最近では休み時間の度に誰かしらがいる。先週のように囲まれることはなくなったが、それでも人がいなくなることがない。

 先週との違いはもう一つ。蓮華に話しかけに来るクラスメイトの中に、男がいなくなった。

 それ自体はいいことではある。蓮華の言う通り事情を知らない一般人と付き合うことなんかできないから、気を持たれても困るだけだ。

 ただ、あれほど告白されていたのが先週からぴたりと止んだのは気になる。いや、別にいつも告白されてるわけじゃないから、たまたまということもあるんだが。

 それが偶然じゃないと分かったのは、放課後になってからだった。

 連華が日直で担任から用事を押し付けられ、一人で戻るのを待っていた時。クラスの中心グループの女子が二人、連れだって近づいてきた。

「ね、来水くん。今いい?」

「あ? あぁ」

 普段滅多に話さない女子から声をかけられたせいで、ぶっきらぼうな返しになる。

 そんなことなど気にしないとばかりに、にこやかに話を続けられた。

「藺さんのことだけど、ちょっと聞いておきたくて」

「蓮華の? なに?」

 出来る限り優しく聞こえるようトーンに気を付けて聞き返す。いやまぁ、気にしないんだろうけど。個人的なアレということで。


「二人って、やっぱり付き合ってるんだよね?」


 一瞬、思考が停止した。

 付き合ってる? 誰と誰が? 俺と連華が?

 余りの衝撃に、自制も何もかもが吹っ飛んだ。


「んなわけあるか!」


 思わず叫んで、しまったと口を抑えた。

 出てしまったものはそんなことをしてもどうしようもなく、聞いてきた子と後ろにいた子の二人ともが目を丸くしている。

 どうにか挽回しなくてはと、言葉を付け足す。

「あーいや、誤解するのもわかるんだが。俺は雇われてるだけで、連華とはそういう関係じゃない」

 言い訳がましいが、本当にそうなのでそれしか言えない。ふと、ドアの向こうに誰かがいる気配がした。頼むから入ってこないでくれ、これ以上ややこしくなったら手に負えない。

 衝撃から立ち直った二人は顔を見合わせて、俺に近い方の子が話を続けた。

「雇われてる?」

「あぁ、連華のところでバイトしてるんだ。住み込みだから、ついでに送迎してもらってるんだよ」

「ふぅん、ほんとに付き合ってないんだ?」

「ない」

 きっぱり断言すると、そっかぁ、と悩まし気な顔をする。

「でも、なんか急に親しくならなかった?」

 痛いところを突かれて返事に窮する。

 それはそうだ。俺もこんなことになるとは一週間前まで思ってもいなかった。俺にとっても全てが突然で、そうじゃないのは連華だけ。しかし、それは言えない。

 なんとか頭を捻って適当な理由を絞り出す。

「親父が夜逃げしてな。途方に暮れてるところを、たまたま会った連華に拾われたんだ。で、お互い色々話す内に苦労してんだなって共感しあって、じゃあうちで働けばいいってことで雇われたんだよ。経緯が経緯だし、同じ家に住んでるのもあって親しくなったんだ」

 よし、我ながら完璧なエピソードだ。これなら怪しまれないはず。

 ちらりと見れば、女子達は納得したようなしてないような顔をしていた。

「そっか。んー、じゃあウチらの誤解か。いやでも、正直助かってたんだよね」

「ん? 何が?」

 俺と連華が付き合ってるとして、一体何が助かるのか。

 疑問符を浮かべて首を傾げると、苦笑された。

「藺さんに話しかけやすくなったから。ほら、藺さんってめちゃくちゃモテるじゃない?」

「そうだな」

「同じグループや友達に『彼女のことが気になる人』が気になる子、ってのがいると気軽に仲良くなれないんだよね。男子にはちょっと分かりづらいかもだけどさ」

「あぁ……まぁそうかもな。言わんとすることは分かる」

 つまり疑似的で一方的な三角関係があちこちで出来上がっているというわけだ。その三角形に何の関係もない奴だけが連華に話しかけられる、と。

 恋愛ごとに関して女子は敏感だと聞くが、実際に聞いてもピンとはこない。理屈は分かるが。そこまで気にすることかと思うのは、俺が男だからだろうか。

「で? 連華に彼氏ができようがその状況は変わらないんじゃないか?」

「それが違うんだな」

 ちっちっ、と人差し指を振られる。ちょっとイラっとした。

「藺さんがフリーじゃなくなれば諦める人もいるし、そうでなくとも人の彼女の事が好きだって言ってるようなもんじゃない? 止めればいいだけだし、それでダメならその子も愛想つかすだろうし。とにかく、なんていうかな。正当性? そういうのがなくなるのよ。そしたらやりようはあるから、気軽に話しかけても大丈夫」

「……いまいちよくわからんのは、俺が男だからか?」

「いいって、細かいことは。とにかく、来水くんが出てきたおかげで、気にすることなく藺さんに話しかけられてるの。今まで気になってたけど話す機会なかったって子も多いから」

「連華は女子にも人気あるのか」

「そりゃそうでしょ! あの見た目でお嬢様であんま人付き合いしないんだよ? これはもー、仲良くなってみたいなって思うじゃない?」

 そう思うのはお前みたいなやつだけだろ、とは言わないでおいた。

 珍しいもの扱いされてるのはどうかと思うが、連華に友達ができるのはいいとは思っている。吸血鬼である以上難しいだろうが、一度きりの青春を愉しむべきだ。

 何か嫌な思い出があるのなら、尚更。楽しい思い出で上書きすればいい。

 血を飲むのを厭うようになったのが思い出のせいとは限らない。お節介かもしれない。でも、笑った連華をもっと見てみたいと思うのは本心だ。

「まぁ、そっか。付き合ってなくて悪かったな」

「ううん、それはいいの。話しかけるきっかけになったし、もうこの流れができちゃったら今更ナシにもならないでしょ。それに、まぁ……」

 意味ありげな視線を向けられ、思わず眉を歪めてしまう。

「? なんだ?」

「なんでも。そうだね、時間の問題な気もする。そのうちなんとかなるでしょ」

「あ? あぁ……まぁ、連華に仲の良い奴が増えるのは賛成だよ。良いと思う」

 俺が頷くと、女子二人は顔を見合わせて苦笑した。

 なんだろう、なにかすごくバカにされてる気がする。気にしすぎか?

「そだね、友達になりたい子は私以外にもいるし。地道に頑張りますか」

「そうしてくれ」

 話は終わったとみて鞄を手に取る。

 帰ろうと思って見回せば、連華はまだ戻ってきていなかった。

「……遅いな」

 独り言のつもりで呟いたら、しっかり聞かれていた。

「藺さん? そっか、帰りも一緒だもんね」

「お互い部活にも入ってないからな。蓮華の家まで歩いて帰るのはちょっと遠慮したい」

 俺のぼやきにニマニマと笑って、ちらりと視線をドアの向こうに投げた。

「日直でしょ? うちの担任も良く藺さんに頼むよね。恐れ知らずだわ」

「生徒なんだから普通だろ」

「そう思う?」

 聞き返されて思わず口を噤む。確かに、蓮華は普通とは言い難い。例え吸血鬼じゃないとしても、だ。

 それでも普通に扱うここの担任は意外と凄いかもしれない。

「ちょっと心配だよね。こんな遅くなる用事あったっけ?」

「……探してくる。もし蓮華を見かけたら教室にいるか俺に連絡しろって言っといてくれ」

「はいはーい、気を付けてね~」

 ひらひらと手を振る女子二人になんとなく釈然としないものを感じつつ、鞄を置いて蓮華を探しに出る。

 大方、追加で何か頼まれて用事が長引いているんだろう。四月の時もそうだが、うちの担任は何故か蓮華に良く頼みごとをする。

 学校やクラスに馴染めていないと判断してのことかもしれない。実際、蓮華は学校では友人も作らずにいる。

 吸血鬼であるということが線を引かせているんだと思うが、それにしたって上手く隠して付き合う方法だってあるはずだ。そういうのが好きか嫌いはおいといて。

 でもまぁ、それは蓮華らしくない気もする。

 余計な考えを追い払って、早足で職員室に向かう。

 手伝って早く帰ろう。クラスの女子が友達になりたいらしいぞと言うと、どんな顔をするだろうか。その想像は、思ったよりずっと楽しかった。


※   ※   ※


 連華が見つからない。

 職員室に行けばもう帰したと言われ、教室にも戻ってこず、保健室にもいない。

 下駄箱に靴があったから、学校から出てはいないはずだ。とにかく歩いて探す。図書室、体育館、部室棟に特別教室棟。果てには教室を一年から順に虱潰しに見て回ったが、どこにもいない。

 空はもう茜色に染まり、カラスが鳴いている。

 訳が分からない。なんでどこにもいないのか。もしかしたら誘拐か、学校内で?

 嫌な想像が次から次に止まらない。もしかしたら、が心臓を握りつぶしに来る。

 冷静になろうと浅い呼吸を繰り返し、頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。

「来水くん!」

 呼ばわる声に振り向けば、クラスの女子が走ってくる。

 さっき話していた奴だ。尋常じゃない顔色に、胃の腑が冷えた。

「あ、あの、藺さんが! 見たって子がいたんだけど、屋上、篠山くんたちも!」

 礼も言わずに駆け出した。

 篠山とは、学校でそれなりに有名な不良だ。いつも手下を引き連れて校舎裏とか適当なところにたむろしては、ヤニを吸ったり酒を飲んだり。族やヤの字と繋がりがあるとも言われていて、そういうとこに女を連れ込んだりするという。

 自分でも信じられないくらい速く動けた。

 二段飛ばしで階段を駆け上がり、最上階の廊下を駆け抜けて屋上に繋がる階段の手すりを掴む。

 周りの音なんて何も聞こえなかったのに、その声だけは良く聞こえた。

「離して! 離せ! 死仆街!」

 最近毎日聞いている、聞き間違えようのない声。安堵のあまりに足から力が抜けそうになって、

「暴れんな!!」

 続いて聞こえた声に血の気が引いた。

 気が付いたらドアの前にして、体当たりするように開ける。

 広がる茜色の空と、千切れて飛ぶ雲と、妙なタイミングで鳴る下校のチャイムと、


 頭の悪そうな奴に手首を掴まれ、驚いた表情でこちらを見る連華の顔。


 他の誰が反応するより早く、床を蹴った。

 アチラの方々に紹介された肉体労働で一緒に働くおっちゃん達に学んだことがある。

 喧嘩は度胸と覚悟。絶対にこいつをぶちのめすという気持ちが、勝利をもたらす。


 連華に手を出したこのクソ野郎を、絶対にぶちのめす。


 一度もブレーキを踏むことなど考えず、隙だらけの脇腹に飛び蹴りをかました。

「ヴぉえっ」

 奇矯な叫び声をあげてクソ野郎が後ずさって倒れる。手下が群がるが、そんなことに構っている余裕はなかった。

「連華、大丈夫か?」

「迅くん……うん、大丈夫」

 何か言いたそうな連華を背に庇い、クソ野郎どもを警戒する。

 話を聞いてやりたいのは山々だが、この事態を乗り切ってからだ。というか、俺も何故こんなところにいるのか問い詰めたい。

 視線だけ後ろに向けて連華の様子を確認する。手首に赤い痕が薄くついていた。

 頭のどこかがぶちりと切れた。

「てめぇ来水! やってくれんじゃねぇか――」

 バカが喋り終わる前に、顔面に蹴りを入れた。

 そういうことはせめて立ち上がってから言えよ。だから頭が悪いって言われるんだ。

「お、おいこらぁ!」

 何か喋っているが、蹴りやすい位置に頭があったのでサッカーボールみたいに蹴り飛ばしてやった。

 格闘マンガみたいに人は吹っ飛ばないが、多少はずり動く。地面に倒れたまま喋らなくなったクソ野郎から視線を切って、手下どもを見やる。

「こ、この野郎っ!」

 テンプレじみた言葉を吐いて、全員で襲い掛かってくる。

 喧嘩の極意は度胸と覚悟。

 人をぶん殴る度胸と、人にぶん殴られる覚悟だ。

 囲んで叩かれれば、普通勝ち目はない。ならばどうするか。おっちゃん達はそういう時の為にもいいことを教えてくれた。

 一人に狙いを定めるのだ。

 他はもういい。殴られても叩かれても仕方がない。我慢する。

 一人に狙いを絞って、そいつをボコボコにする。動かなくなったら、次。そうして一人ずつ潰していくのだ。

 俺が潰れるのが先か、全員潰すのが先か。我慢比べのチキンレースの開始だ。

 一番弱そうな奴に目をつけて、まずは思いっきり顔面を殴る。顔を殴られれば、普通は怯む。その隙にとにかく殴って蹴ってぶっ倒す。

 その間に俺も腹や背中を殴られ蹴られる。手下は全員で五人。我慢は慣れているとはいえ、少しきつい。

 一人目がようやく鼻血を出してぶっ倒れ、次の相手に目星をつけて頭突きをかます。

 襟首をつかんで三人目に放り投げ、まとめて蹴り飛ばす。起き上がってこようとしたところに膝を落とし、上から拳を落として気絶させる。

 残り二人。そうなれば、もう後はこっちのもんだ。

 数の優位は絶対だが、それが覆ると途端に恐怖に変化する。こんなに数がいるのに、という言葉が出れば、そいつらはもう戦えない。

 こっちだって全身がバカみたいに痛い。あちこち痣になってるし、容赦なく殴ってくれたんで下手すると小さい骨なんかは折れてるかもしれない。

 だが、それでもここで終わりになんかしない。絶対に許しはしない。

 連華に手を出した代償は支払ってもらう。

 そうして近づけば、残った二人は後ずさる。面倒くさい。さっさとかかって来いよと思いながら血の混じった唾を吐いて、

「おい」

 声に振り向けば、思い切り首が傾いだ。

 殴られたのだ、と気が付いたのは頭が地面についた後で、根性を振り絞って起き上がれば随分マシな顔になったクソ野郎が見下ろしていた。

「よくもやってくれたな、来水ぅ! 借りは返すぜ!」

 人の顔を踏みつけようとした足をかわして、痛む体を無視して飛び起きる。腕に痺れる痛みが走ったので、多分骨がやられてる。

「うぜぇよ、クソ野郎。うちのお嬢様に手を出した報いだボケ」

「知るかバカ!」

 力任せに振り回してくる拳に自分の腕をぶつけて軌道を変える。一番ダメージの少ない防ぎ方なのに、びりびりと腕から背中を通して全身に痛みが走る。

 ダメだ、これ。長引くと俺が負ける。

 やられたお返しという宣言通りにクソ野郎はめちゃくちゃやってくる。流石に蹴りはそらすことができず、正面から受けるしかない。もう痛む神経も麻痺してきた。

「辛そうだな、来水? かっこつけてきたのによぉ」

 ニヤニヤと見下ろすクソ野郎の背後で、手下どももボロボロのくせに人を馬鹿にする笑いを浮かべた。

 呼吸を整える。何一つ見逃すまいと目を開ける。

 喧嘩の肝は度胸と覚悟。負けそうなときに大事なのは、諦めないこと。

 勝利を確信したとき、人は最も隙が生じる。おっちゃん達が教えてくれた、人生の心得だ。

「死ねよ、ボケが!!」

 とどめを刺そうと今まで以上にモーションを大きくした。姿勢を崩し、重心の移動がはっきりとわかる。

 それを待っていた。


「てめぇがだよ、クソ野郎」


 一歩で懐に詰め寄り、服の首元を掴んで腰を相手の体に密着させる。

 相手の体重移動に合わせて振り抜かれた腕に手を添え、思いっきりかちあげた。

 背負い投げ。

 更に自分も前のめりに倒れ、コンクリートの上にたたきつけた相手の上から体重をかけた肘を落とす。

 ばきっ、と耳に残る嫌な音が響いた。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!!???」

 肩を抑えて暴れまわるクソ野郎。が、次第に収まっていく。

 そりゃそうだ。動けば動くほど痛いに決まってる。肩が脱臼してんだから。

 口もきけず、ぴくぴくと震えるだけのクソ野郎を手下どもが畏れの目で見守っている。バカかこいつらは。

「おい、こいつ早く病院連れてけ。肩が戻らなくなるぞ」

「えっ? あっ、はいっ」

 恐る恐るといった感じで手下どもがクソ野郎を担ぎ上げる。何かする度に悲鳴を漏らすクソ野郎にびびりちらしていたが、早くしろと急かすと小さい悲鳴は無視して動かすようになった。

 屋上から連中が消えたのを確認して、仰向けに倒れる。正直、立っているのも辛い。どこが痛いのかわからないくらい痛くて、俺も病院行くべきかなぁ、なんてぼんやり思った。

 茜色の光を遮って、影が差した。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 どこを探してもいなかったお嬢様が、俺を見下ろしている。

 どうでもいいが、その位置だとうっかりスカートの中が見えそうになるので勘弁してほしい。

「……痛い?」

「痛い。でも、これが仕事なんで」

 連華のボディーガードも俺の仕事だ。その点において、今日の俺は失格だと思う。

 あんなクソ野郎に手の痕をつけられてしまった。清廉さんにバレたら殺されるかもしれない。

「仕事、なんだ」

 その響きが妙に気になって見まいとしていた連華を見上げる。

 彼女はスカートを畳んでしゃがみ込み、俺の顔との距離を定規一本分に縮めてきた。

「仕事じゃなかったら、助けてくれないの?」

 俺を見つめる連華の表情は切実で、親に置いていかれた子供のようで。今にも涙が零れそうに潤んだ瞳は心臓に悪かった。

「……仕事だと、他より優先しても何も言われないし、邪魔する奴もいないだろ」

 耐え切れなくなった俺が先に顔に腕を乗せて視線を塞いだ。

 連華がどんな顔をしているかは、当然ながら見えなかった。

「優先してくれてるんだ?」

「当たり前だろ。他にやることなんか何もねぇよ」

 そう、俺には他に何にもない。今の俺の人生は、彼女の為に存在している。

 連華の所有物。それ以外に、俺に生きる道はなかった。

「じゃあ、今日はダメダメだね」

「……それを言うな」

 元はと言えばこいつがいなくなったせいなのだが、それを含めてなんとかするのが俺の仕事である。お嬢様の所有物兼ボディーガードも楽じゃない。

「じゃあ、その仕事が上手くいくようにズルしようか?」

「ズル?」

 意図の読めない言葉に腕をどかせば、悪戯心満載で彼女が笑っていた。

 どこか期待しているような顔に、痛みも忘れて見惚れてしまう。

「そ。このズルをすると、私がどこにいてもなんとなくわかるし、私がピンチになるとなんとなく分かります」

「ふわっとしすぎてないか?」

 なんとなくが多すぎる。もっとはっきりわかる方が嬉しいんだが。

 連華は少し悲しそうに首を傾げ、

「やらない?」

「……やります」

 なんとなくでも、何もないよりはマシだ。

 残りは勇気と努力と根性でなんとかしよう。

 俺が頷くと、連華は嬉しそうに手早く爪を使って指先を軽く切った。

 予想外の行動に思わず飛び起きて連華の手を掴む。

「おい、何して――」

「――飲んで」

 ぷくりと血の珠が浮き上がった指先を突きつけられ、言葉を飲み込んだ。

 連華の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。つまり、俺は今から彼女の血を飲まねばならないらしい。なんとなくの為に。

「飲めば、迅くんは私の眷属になる。人でも鬼でもなく、その間の存在。私に仕え、私に従い、私の為に生きる。そういうものになる」

 彼女の瞳が紅く染まる。鮮烈な緋色は、茜の空ごときでは紛れさせることもできない。

 指先にたまる血の珠と、同じ色の瞳。

「その代わり、私と少しだけ繋がることができる。私に何かあったら、すぐにわかる。私の記憶とかそういうのも一部共有される……はず」

「はず?」

 聞き返すと、連華の頬が緋色に染まった。

 茜色の空如きでは誤魔化すことができない色。

「文献にはそうあったの! 眷属なんて作ったことないし、身近にもいないし。わかんないけど、そうだと思う。秘密を知られるのってちょっと嫌だけど、まぁ私も迅くんの過去は殆ど知ってるからお相子かな」

「さらっと怖いこと言うのやめて」

 四月に会ってから調査してたって言ってたもんな。いやもう怖いんだけど。何を知られてるんだよ、俺。

「だから、飲んで。ちなみに今飲むと特典がつきます」

「初回特典つきでお得だな」

 一気に肩の力が抜けて、くだらない返しをしてしまう。

 連華は目も頬も緋色に染めたまま。やがて藍色に変わりゆく空の下で真っすぐに俺の目を見つめた。


「眷属になったら、迅って呼んであげる」


 これは参った。

 とんでもない特典がついてきた。

 そもそも、こんなもん最初から考える余地すらなかったのだ。

 母に捨てられクソ親父に捨てられ、残った借金は担保である俺の輝かしい未来とやらで返さなきゃならなかった。

 クソほどの価値すらない人生で、自分ですら半ば投げ捨てていた。だからバイト三昧の毎日に耐えてこられたんだ。

 ただ目先の団欒を全てのよすがに、俺の人生はとっくの昔に売り払われていた。

 その人生を買い取って拾ったのが連華だ。

 なら、もう俺の人生は連華のものだ。俺は彼女の使用人で、ボディーガードで、極上の餌で、所有物だ。

 ここに眷属ってもんがくっついてきたところで、一体何が変わるのだろうか。

 俺が彼女のものになった一週間前から、もう俺は『そういうもの』だった。

「仰せのままに、お嬢様」

 掴んだままの連華の手を引き寄せて、血を舐めた。

 同時に、彼女が俺のもう片方の手を掴んで手首に噛みつく。

 指輪の交換ならぬ血の交換だなと思っていると、心臓がどくんと大きく跳ねた。

 頭がぐるぐるとし始め、考え事が何ひとつまとまらない。自分がどこを向いているのか分からなくなり、床の感覚が足から消える。

 言うことを聞かない体が勝手に倒れ、頭が何かにぶち当たったところで意識が途切れた。

 それでもその時思ったのは、連華の指が口から離れた寂しさだった。

 神に愛された美少女は、血の味までもが極上だったらしい。


※   ※   ※


――夢を見ていた。

 夢の中で何故か俺は幼い美少女になっていて、仲の良い女友達がいた。

 吸血鬼であることをうっかり口外しないよう、誰とも親しくならずにいた自分にできた初めての友人。

 こちらの薄い反応に負けじと話しかけてくれ、少しずつ会話を引き出しては喜んでいた。

 実を言うと、私も嬉しかった。友達がいないのは、やっぱり寂しかったのだ。

 なんで私だけこうなんだろう、どうしてなんだろうって何度も思った。吸血鬼って言ったって、皆と何も変わらない。棺桶で寝たりしないし、コウモリになったり霧になったりもしない。人殺しなんて以ての外だ。

 ゲームもするしマンガも読むし玩具も遊ぶ。勉強だっていっぱいしてる。

 普通の人間として生まれ育つのと変わらないことしかしていない。なのに、私だけ友達もろくに作れないし家に呼んだりもできない。

 血を飲む以外、何も変わらないのに。それさえなければ、私だって普通の人間なのに。どうして血なんか飲まなきゃいけないんだろう。

 そう思ってた時に、彼女は友達になってくれた。

 誰だっておうちの事情くらいあるよって言って笑ってくれた。

 私は、彼女のことが好きになった。

 家には呼べなかったけど、学校帰りに遊びに行ったりはした。江爺には悪いことをしたけど、大人と一緒に歩かない外の世界は刺激的で楽しかった。

 彼女と一緒なら、何でもできる気がした。

 そして、遠足の日が来る。

 その日は普通のご飯だけを食べるはずだった。けれど、どうしても我慢できなくなった時の為にこっそり輸血パックがバッグのポケットに入っている。念の為の、保険のはずだった。

 遠足先は、近所にある小さな山。登山体験を積ませるのが目的の遠足だった。

 中腹にある公園でお昼ご飯を食べることになっていて、いつも通り一人でいると彼女がきた。

 一緒にお弁当を広げたところで、彼女の膝にある絆創膏に気づいたのだ。

 聞けば、こけた拍子に擦りむいたらしい。その時は痛そうだな、くらいにしか思わなかった。痛そうだね、頑張ってねと励まして一緒にお弁当を食べると、掌に傷があるのが見えた。

 木の枝で切ってしまった傷は、掌だと絆創膏を貼ってもすぐとれるからとそのままにしていたのだ。

 ふと、どうしても血が飲みたくなった。

 適当にその場をごまかして、バッグの中の輸血パックをポケットに詰めて隠れて飲む。

 どうして自分がこんなに乾いたのか分からず、ただひたすら飲み干していた。


「……連華ちゃん?」


 最悪だった。私を探しに来た彼女に見つかった。

 慌てて輸血パックを取り落とし、彼女の視線が下を向く。

「なにこれ? ……血?」

 慌てて伸ばした私の手と、拾おうとした彼女の手が重なって、指先に軽い血の感触がした。

 輸血パックを放ってその手を持ち上げる私に彼女が困惑気味の視線を向ける。

 私だって困惑している。どうして、なんで、こんな、


 彼女の血が、飲みたくなるのだろう。


 気が付いたら、彼女の掌の傷をなめていた。


「やめてっ!」

 彼女に手を振り払われ、恐れの混じった目を向けられる。

 転がった輸血パックから流れ出るものが何か、幼い彼女にもなんとなく分かったのだろう。震える唇が、その言葉を発した。


「化け物……!!」


 そうだと思う。本当に、そうだ。

 何故なら、そう言われた時の私は、


 生まれて初めて味わう新鮮な血の美味しさに、歓喜に震えていたからだ。


 自分で自分に吐き気がする。

 どこも人間と同じじゃない。普通でもない。化け物、怪物だ。友達を作れないのも当然で、誰も家に呼べないのも当然だ。

 こんな怪物と一緒にいたら、きっと血を吸いつくして殺してしまう。

 血なんか飲めない生き物ならよかった。

 友達を『美味しそう』と思うなんて。

 こんな怪物、いなくなってしまった方がいいのだ。

 どこをどうやって帰ってきたのかもわからない真っ暗な自分の部屋の中で、枕を抱えてうずくまっていた。

 このまま動かなければ、消えてなくなったりしないだろうか。すっと自分の存在だけが綺麗に消えてしまえば、どれだけ楽だろう。

 両親には愛されている自覚がある。きっと私が死んだりしたら二人とも泣く。屋敷で働く皆だって悲しむだろう。愛されてるから、それが分かるから、死すら選べない。

 吸血鬼である自分が嫌いだ。誰にも迷惑をかけずにいなくなりたい。


 ふと、景色が切り替わった。


 夕暮れの教室で、プリントをまとめて冊子にする作業をしていた。

 目の前には来水くん。なんだか人生大変そうなクラスメイトだ。

 学校に許可をもらってバイト三昧の日々を送っているらしい。クラスで特に親しい友人もおらず、そのせいで私と一緒にこんなことをする羽目になっている。

 会話らしい会話もなく、お互い黙々と作業する。お互い早く帰りたいという気持ちが口にしなくても伝わるようだ。

「っつ」

 声に顔を上げれば、来水くんの指から血が滴っていた。プリントで切ったのだろう。

 作業に戻ろうとして、


 鼻をくすぐる香りに頭がくらくらした。


 来水くんの、血の匂い。それがあまりに強烈に欲望を刺激して、自然と視線がそちらを向く。傷口から垂れる血が、最上級のワインにも似た芳香を放つ。

 おかしい。今までだって血を見ることはあったのに、欲望よりも嫌悪の方が勝ったのに。

 その血は、まるでお前は所詮怪物なのだと思い知らせるようだった。

 気が付いたら、彼の指を舐めていた。

 傷を舐める、なんて今時誰もやらない。あの時の彼女を思い出す。分かるのだ、本能的に。傷を治そうとして舐めているんじゃないって。

 味わうように嘗め回す。怪物が久しぶりの好物に夢中になるように。

「……藺さん?」

 戸惑いがちの声をかけられてハッとした。

 駄目だ。これはもうごまかしようがない。

 それでも一縷の望みにかけて口を手でふさぎ、椅子を蹴飛ばして立ち上がる。

「保健室で絆創膏もらってきます」

 それだけをなんとか口にして背を向け、

「ちゃんと口をゆすぐんだぞ!」

 立ち去ろうとした瞬間、訳の分からないことを言われた。

 視線だけ向ければ、頬を赤くした来水くんが眉を顰めていた。

「いいか、その、今後はだれかれ構わず傷を舐めたりするんじゃない。特に男はダメだ、そんなん完璧に勘違いする。あと、血なんか飲むもんじゃないぞ! ちゃんと水道で口をゆすいで、保健室はそれからだ!」

 何を言ってるんだろう、この人は。

 とりあえず頷いて、その場を後にする。教室から出て、ほっと胸を撫でおろして早足に保健室に向かった。

 歩いているうちに冷静になって、来水くんの訳の分からない勘違いっぷりがおかしくなってくる。

 傷を舐めたりするなって、あんな味わうような真似をして変に思わなかったのか。

 血なんか飲むもんじゃないって、それはそうだ。私は吸血鬼だけど。

 なんだかおかしくなってきて、笑いが零れてくるのを止められない。

 変な人だ、来水くん。

 下の名前は、なんていうんだろう。

 血を美味しく感じたのに、なぜかいつもの吐き気はしなかった――


※   ※   ※


 目が覚めたら、自分の部屋だった。

 起きてすぐに気づいたのは右手が何かに包まれている感触で、それが連華の手だと気づく前に抱き着かれた。

 泣きじゃくる連華にどうしようもなく固まっていると、部屋の隅にいた清廉さんが今までの事を教えてくれた。

 俺はどうやら、三日三晩眠り続けていたらしい。眷属になる過程で必ず昏睡状態になり、そのまま命を失うこともあると言われた時はさすがに頬が引きつった。

 聞いていないと叫ぶ連華に聞かれていないと答えた清廉さんは相変わらず無表情で、なんとなくおかしくなって笑ってしまう。二人に睨まれた。

 幸いにしてどうやら俺は眷属化に成功し、あれだけボコボコにされた体も回復した。清廉さん曰く、眷属は驚異的な回復力と身体能力を備えており、半不死と言っていいそうだ。代わりに、主が死ねば眷属も死ぬ。生殺与奪を主に握られている状態だ。

これで名実ともに俺の命は連華のものとなった。それはいいが、何故か屋敷の皆にお祝いをされ、パーティーまで開かれた。

 快復祝いにしては派手だし、そこまでされる覚えもない。何かあったのかと連華に聞いても要領を得ない答えしか返ってこず、清廉さんも答える気がないようだった。

 ちなみに、なんで屋上にいたのかもろくな返答をされなかった。なんだか隠し事が多いが、そこまで不都合があるわけじゃないからいいだろう。

 眷属となった以上、注意しなければならないことも増えた。特に力が強くなりすぎて、軽く握っただけでコップを破壊してしまう。日常生活を送る為の加減を覚えるのに苦労した。

 そんなふうに大変だったのだが、何事も喉元過ぎればなんとやら。

 週末を越えて一週間も過ぎれば、普段の生活に戻っていくばかりだ。

 襟首が大きく開いたタキシードを基調とした執事服に身を包み、連華の部屋のドアを叩く。ほぼ同時に鍵を開けてノブを回した。

 どうせ返事もないのだ。一々待っていられない。

「連華、起きろ」

 窓のない部屋ではカーテンを開けて朝日を取り入れて起床を促すこともできない。我が主は今日も人の声かけなど気にもせずにベッドで心地良い微睡みに沈んでおられる。

 かすかに聞こえる寝息に癒しと苛立ちを同時に覚えさせるのはこいつくらいのもんだろう。つかつかと歩み寄って掛け布団と毛布を剥ぎ取る。

「朝だぞ、起きろ。飯食って学校いくぞ」

「んん~……まだねむぅ~い……」

 体を丸めて暖を取ろうとする姿はさながら猫かダンゴムシか。

 ここ最近、連華はちゃんとパジャマを着るようになった。おかげで布団が剥ぎ取りやすくなって助かる。今日は何かのキャラクターがプリントされた薄桃色のやつだ。

 しかし、問題もある。パジャマだけでほどほどの暖かさが担保されるので、剥ぎ取りの威力が落ちてしまっているのだ。前まで薄手のものを着てたのは、すぐ起きられるようにという意味合いもあったと聞いて少し驚いた。

 じゃあなんでパジャマにしたのかと聞いたが、「いいでしょ別に」としか答えてもらえなかった。こないだから隠し事が多い気がする。いや別になんでも話せというわけではないが。

「早く起きないと血を飲む時間もなくなるぞ。飯の方が優先だからな」

「あ~、それはダメ~」

 のっそりと起き上がって、寝ぼけ眼でがばっと抱き着いてくる。

 眷属になってから、こういうスキンシップが増えた気がする。半ば身内と化したことで遠慮がなくなったのだろう。甘えたいのかもしれない。

 この手のお嬢様には多い話だ。忙しい両親を見て子供の頃から我慢を覚え、立場もあって近しい人に甘えらないまま大人になる。現実で見るのは初めてだから合ってるかは不明だ。

 それなら、と好きにさせている。青少年としてはそれなりに辛いこともあるのだが、そこは我慢のしどきだ。幸いにして、我慢するのには慣れている。

「おい、せめて目をしっかり開けてから飲め」

「だいじょ~ぶ~」

 全く大丈夫そうに聞こえない調子で言われるが、眷属かつ所有物たる俺に否やを唱える権利はない。

 止むを得ず抱き着かれた腕を少し持ち上げて体勢を変え、背中を向ける。

 血を吸いやすい形にしたところで、連華の顎が首筋に乗っかった。

「いつもありがとう。感謝してる」

「……これが俺の仕事だからな」

 顎を乗せたまま彼女がくすくすと笑う。振動が伝わって少しくすぐったい。

 部屋の中は俺と連華の二人きり。肩に置いた彼女の手の感触がやたら鮮明に伝わってきて、動揺を悟られないよう深呼吸した。


「请一直在我身边、我爱的人」


 耳元で囁かれた聞き慣れない響きに甘やかな声が絡んで、背筋がぞくりと震える。

 ただそれだけで心地良いのは、俺が眷属になったからなのか。

「なぁ、前から聞きたかったんだけど、その言葉の意味って――」

 尋ねようとすると、彼女の牙が俺の首筋に食い込んだ。

 この世のものと思えない快楽に悶絶し、そこから先は何も言葉にならなかった。

 まったくもって、勝手きままなお嬢様だ。

 少しはこちらの気持ちも考えて欲しいものである。



 結局そこでタイミングを逃してしまい、聞くに聞けなくなってしまった。

 未だもって、彼女が何を言ったのかは謎のままである。

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