エピローグ1『誰かの話』
僕たちは留めることのできない、時間の流れを生きている。
歳月は僕たちの傷を深めることもあれば、癒すこともある。やがて創傷に盛られた肉は、滑らかに繋がり、僕たちは血を流していた事実すら、忘れていくだろう。
「それじゃあ、姉ちゃん。行ってくるよ」
自宅の玄関で、心配そうに見つめる姉に、僕はそう告げた。
僕が目を覚ましてから、数カ月後の話だ。茹だるような暑さはナリを潜め、すっかりと深まった秋が、そろそろ冬支度を始めようとしている。
あの一件から治療とリハビリを続けていた僕は、ようやく学校に登校するための許可が下りた。
本来であれば、一年留年になってもおかしくないところではあったが、テストと宿題さえ出していれば単位を認めてくれるという話になったのは、唯一の救いだろうか。
「……あんた、本当に一人で大丈夫なの?」不安げに、姉は口にする。「私が校門のところまでついていこうか? ほら、車も出すし……」
彼女の視線は僕の手元――地面まで伸びたクラッチ杖に向けられている。
リハビリは続いているものの、まだ、完治には程遠い。先週まで車椅子を使っていた僕だったが、ようやく医者から許可が下り、こうして歩いて学校に行けるようになった。
そして、今日はその最初の登校日なのだ。
「大丈夫だよ、うちから学校くらいの距離なら、いいリハビリになるだろうし」
僕は少しだけ苦笑する。あの一件からすっかりと、姉は過保護になってしまった。
いや、周りの大人に言わせれば、彼女は昔からこんなものであったという。なら、変わったのは僕の方なのだろう。
その可能性も否めない。今の僕は以前に比べて、色々なことが違う見え方をするようになった。つまりこれは、僕が姉からの愛情に気がつけた、ということなのだろうか?
「まあ、あんたがいいならいいけど……何かあったら、すぐに連絡するのよ」
「あはは……わかってるって。それじゃ、行ってきます」
ドアノブに手をかけたところで、僕は振り返る。
伝え忘れたことが、一つだけあった。
「あ、でも……帰ってきたら、車出してほしいかも。行きたいところがあってさ」
みなまで言わずとも、姉は察した様子だった。やれやれ、といった調子で、肩を竦める。
「……また、英ちゃんのお見舞い? あんたも律儀ね」
「そりゃあ、まあ。僕は、あいつの友達だからさ」
最後にそのやり取りだけを残して、僕は家を出る。
通学路に出てみれば、懐かしさと新鮮さが半ばほどで混じり合ったような気持ちがあった。
早足で歩けていた頃に比べれば、杖をついている今は、ずっと時間がかかる。それに、ひどく不格好な歩き方だろう。
道行く人が、どこか気を遣ったように道を開ける。それに一つ一つ会釈を返しながら、僕は歩いていく。
どんなに見るに堪えなくても。
僕は、自分の足で歩いていかなければならないのだ。
もう寒くなってきたというのに、滝のような汗を流しながら、やっとのことで学校の昇降口にたどり着く。
長らく使っていなかったから、上履きからは少しだけ、黴の臭いがした。それを、いつもの倍以上の労力をかけながら履き替えていく。
そうして教室に向かうまでの間、周囲からいくつも、奇異の視線が向けられてくることに気が付いた。
――英さんの飛び降りに巻き込まれたんだって。
――へえ、生きていたんだ。
――なんだか、大変そう。
ひそひそと、小声でそう囁やき合うのが聞こえてくる。そうでなくとも、今にも崩れそうな積み木細工の用に歩いてくる僕の姿は、非常に見苦しいことだろう。
だから、どうした。僕はそれでも、ここで生きていくことを決めたのだ。
扉を開けて教室に入れば、それまで満ちていた始業前のざわめきが、水を打ったかの如く静まるのを感じた。
構わずに、僕は自分の席まで歩いていく。久し振りに掛けることになった、簡素な木製の椅子と机。ここまで戻ってくるのに、どれだけの時間がかかったことか。
腰を下ろしてから、黒板上の時計に目をやる。まだ、しばらく時間があるようだと、僕は鞄の中からスケッチブックを取り出した。
パラパラと捲れば、不格好な線の群れが僕を迎えてくれる。手を動かす練習にと始めたことだったが、最初は本当に幼稚園児の落書きのような絵しか描くことができなかった。
まだまだ納得のいくものではないが、少しずつ、真っ直ぐな線が引けるようになってきた。それに喜びを感じつつ、今日もまた、色鉛筆に手を伸ばす――。
「――その、えっと、来間、久し振り」
不意に声をかけられたのは、そんな瞬間だった。
顔を上げれば、見覚えのある顔が立っていた。確か、学級委員の……何と言ったか。
夏に見た頃よりも幾分長くなった髪を後ろに流しつつも、仏頂面は相変わらずの様子だった。その複雑そうな表情のまま、彼は続ける。
「退院、してきたんだな。なんというか、お疲れ様……?」
「そりゃ、どーも。無事じゃなかったけど、なんとかね」
僕は生返事をしつつ、手を動かす。薄い線がいくつも重なって、まるで傷跡のような細い輪郭が現れる。
そのまましばらく気のない会話を続けていた僕だったが――ふと、あることを思い出した。
彼に、伝えておかなければならないことがあったのだ。
「……そういえばさ、最近ようやく、なりたいものが決まったんだよ」
僕の言葉に、目を見開くのが見えた。欲しかった反応をもらえた嬉しさはひとまず置いておいて、ピタリと色鉛筆を繰る手を止める。
そして、彼の黒目がちな瞳を覗き込んでから、不敵に――あるいは、不相応に微笑んで、言うのだった。
「――絵本作家、なんてどうかな?」




