最終章『白の島』-14
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
規則正しい電子音が聞こえる。
それが心電図の音だと気が付いたのは、意識が呼吸を始めてから、数十秒ほど経ってからのことだった。
どうにか、目を開けようとする。しかし、体の感覚が、どこまでも遠い。
まるで、手足に鉛の鎧を被せられたかのような――そんな倦怠感だ。
半分ほどしか開かない瞼をどうにかこじ開け、視線だけを動かして、僕は周囲を観察する。
そこは殺風景な部屋だった。白いカーテンで仕切られた、自分の横たわるベッドの他には、目立ったものがほとんど置かれていない。
それでも、僕は疑問に思うまでもなく、この場所がどこかを知っている。
そして、次に目に入ったのは、僕の足元――とは言っても感覚はない――に被さるように突っ伏せている誰かの頭だった。
僕は息を吸う。肺を膨らめるのもひと苦労で、ずっと使っていなかったから、喉は錆びついたように空気を吐き出すことしかできなかった。
腹に力を込めて、僕はどうにか、呼吸を震わせる。
「……ちゃ、ねえ、ちゃん」
蚊の鳴くような小さな声だったと思う。それでも、姉は弾かれたように起き上がった。
「……カナタ!? あんた、目が……!」
そう口にしながら覗き込んでくる彼女の顔は、見たことがないくらいにボロボロだった。
祖父の家の掃除ですらメイクをしていた彼女は素顔のまま、目元に幾筋も伝った涙の痕も隠せていない。
気を遣っていたはずの肌もひどく荒れており、ここ数日の彼女がどんな風に過ごしていたのか、想像させるのには十分だった。
「……ごめん、ねえちゃん……しんぱい、かけて……」
やっとの思いで呟けば、見開かれた勝ち気な瞳から、ぽろりぽろりと雫が零れ落ちる。
絞り出すような嗚咽とともに、彼女は僕の胴に体を埋めた。
「いいのよ、いいの……本当に、本当に……もう二度と、目覚めないんじゃないかって、ずっと……」
そう泣き崩れる姉に、これ以上の謝罪を重ねることもできないだろう。
生きて戻ってきた。それ以上のものを、彼女に返すことはできない。あの高さから落ちて生きているだけでも、儲けものなのだから――。
「――っ、そう、だ……!」
僕は辺りを見回そうとする。が、体が満足に動かない。ギプスか何かで固定されているのか、ほとんど自由が効かなかった。
「き、急にどうしたの? まだ、動いちゃ……」
「姉ちゃん、英、英は、どうなったんだ……?」
ある意味では、一番の懸案事項かもしれない。
絵本の世界にも、彼女はいなかった。僕と共に落ちた彼女が、無事であるとは思えないが……。
「ハナブサ……英瑛梨香さんのこと? それなら……」
姉の視線が、すぐ真横に向く。僕もそちらを見ようとしたが首が動かず、姉の手を借りて、体の位置を動かした。
そして、それを目にする。
僕の隣のベッド。そこには、人工呼吸器をつけられた、小柄な人影が寝転んでいる。
その顔はほとんど、ガーゼや包帯に覆い隠され見えなかったが、隙間から覗く髪色には、僅かに見覚えがあった。
「……この子も、一命は取り留めたわ」姉が小さく、呟く。「まだ、目を覚ます気配はないみたいだけど……」
「……そっか」
口にしながら、僕はぼんやりと考える。
きっと彼女もまだ、冒険の最中にあるのだろう。僕と同じ絵本の世界なのか、それとも、もっと別の場所なのか。
けれど、旅路であるのならいつかは終わる。終わりを迎えれば、僕たちは苛烈な現実に向き合わなければならない。
そして、僕の友人なら――英なら、きっと、何かを掴んで、戻ってくるはずだ。
そんな、確信めいた感覚があった。
英は弱々しく、胸を上下させている。心電図の読み方などわからないが、心拍だって強くはないのだろう。
それでも、彼女はまだ生きているのだから、きっと心配はいらないのだ。
「……あ、そうだ! カナタが目覚めたって、先生に言ってこないと! こういうときって、ナースコールでいいのかしら……?」
姉が慌ただしく動き始める。僕にはどうすることもできない。しばらくは、世話をしてもらうしかないだろう。
さて、この恩は掃除当番何ヶ月分で返すべきだろうか、なんて下らないことを考えつつ、僕は。
「……姉ちゃん、ひとつ、お願いがあるんだ」
姉を呼び留める。彼女は不思議そうにしながら、ゆっくりと振り返った。
「なに? お水とか、食べ物?」
「いや、そういうのじゃなくて。腕が動くようになったら、買ってきてほしいものがあるんだよ」
昏迷の中で辿った、島を巡る旅路。
夢のような日々の中で、僕は多くのものを得た。
それによって自分が変わったかなんてのは、わからないけれど。
僕は、精一杯の笑顔を作る。夢の中で仲間たちがそうしていたように、少しでも、姉を安心させるために。
だって今の僕には少なくとも――やりたいことは、見つかったのだから。
「スケッチブックと、色鉛筆を。描きたいものが、沢山あるんだ」
僕の旅が続くように。
皆の旅もまだ、続くのだ。




