最終章『白の島』-10
崩壊する世界。屋上から見える夕間暮れの空はもう、どこにもなくて、この島に上陸した直後と同じように、僕と『あいつ』は向かい合っている。
「どうして……どうして、あらがおうとするの……? つらいげんじつなんて、見なくてもいいのに……!」
「ああ、そうかもしれないな」
僕は、聖剣を肩に担いだ。不思議と、重さは感じない。『遺物』で描いたものだからだろうか。それとも、焼けた両腕の感覚が麻痺しているのか。
わからないまま、僕は悠々と答える。
「確かに、現実を見ずにいられたのなら、僕は気が付かなくて済むだろうよ。でも――」
浮かぶ瞳をじっと見つめる。
その色には見覚えがある。とは言っても、英のものとも違う。濁る前の、特定の色に染まる前の、透徹な瞳。
ずっと昔に、僕が失くしてしまったものを、目の前の人影は持っていた。
「――お前は、僕を許してくれないだろ」
その言葉が、どう響いたのかはわからない。
だが、『あいつ』は哄笑を上げた。まるで愚かな僕を嘲るように、侮るように、辱めるように、背を反らし、目一杯に口角を持ち上げて嗤う。
「あ、あはははははは! 君はゆるしてもらいたかったの? そんなふうになったのに、なりはててしまったのに?」
「……ああ、今からでも、遅くはないだろ?」
僕の言葉を否定するように、『あいつ』は大きく首を振った。まるで、纏わりつくものを振り払うようなその素振りは、僕には怯えているようにも見えた。
それでも仕方がないだろう、だって、『あいつ』は――。
「おそい、おそいよ、手おくれなんだよ。もうなにもかも、終わってしまったんだよ」
悲劇的に、まるで言い聞かせるように、甲高い声が響く。
キンキンと耳に残るそれは、しばらくの間ヒステリックに喚き続けていた。しかし、唐突にピタリと、その声が止む。
「……カナタはほんとうに、諦めるつもりがないんだね」
「ああ、逃げるのはもう、たくさんなんだ」
「……そう」そこで、『あいつ』は人差し指を立てた。「なら、見せてあげるよ。ほんとうのげんじつがどうなっているのか」
口にすると同時に、ぼんやりと、白い背景に映像が映し出される。
映っていたのは、白い壁に白い天井。枕元のナースコールやベッドの質感で、辛うじてそこが病院だとわかった。
ベッドに寝ているのは――誰だろうか。露出している部分は包帯でぐるぐる巻きになっており、弱々しく呼吸を繰り返している。
その傍ら、ベッドに突っ伏せるように震えているのは――。
「――姉、ちゃん……?」
呟く声が届くことはなく、そんな景色に、もう一人登場人物が増える。白衣を纏った初老の男性――恐らく、医者なのだろう。
彼が現れると同時に、姉が勢いよく顔を上げた。
『あ……先生、か、カナタは、どうなったんでしょう……?』
聞いたこともないような、弱々しい声。先程の夢で聞いた、そして思い出の中にある姉の声とは、似ても似つかない萎んだ響きだった。
先生、と呼ばれた医者は、険しい表情を崩さない。そして、ゆっくりと首を振る。
『厳しい、と言わざるを得ませんな。地上四階、それも、頭部からの落下。頭蓋骨骨折と脳挫傷。頚椎や神経系の損傷も激しい……意識が戻ることは、もう、無いでしょう』
淡々と続ける医者の言葉に、心拍が早くなっていく。
意識が戻らない?
誰の?
戦慄する僕に構うことなく、さらに医者は続ける。
『それに、もし目覚めることができたとしても、重篤な障害が残る可能性があります。あなたは、お姉様だと伺いましたが、他に家族は……』
『……両親は、地元に』聞き取れるかどうかの声で、姉が呟く。
『なら、早めに連絡をしておいてください。恐らく、もう、そう長くは……』
僕は、そんなやりとりを黙したまま眺めていた。
何も、言葉が接げない。カラカラに乾いた喉は音を形にすることができず、気道が細々と鳴る音だけが、その場に頼りなく響いている。
「……ね、カナタ。君がたちむかうべきげんじつなんて、ないんだ」
『あいつ』が囁く。甘く囁く。
諦めてしまっても、仕方がないのだと。立ち止まってしまっても、仕方がないのだと。
「君はもう、めざめない。めざめても、にどとじぶんの足で歩くこともできない。それでもまだ、あっちの方がいいっていうの?」
覚悟は、していた。
ずっと考えてもいた。
現実世界の自分がどうなっているのか――けれど、どこかで楽観していたのかもしれない。
だから、能天気に「目覚める」などと口にできていた。その先に道が続くと信じていた。
でも、どうだ。こうして待ち受けている困難を目の前にしたら、僕の心は――。
「――それでも」僕は、力一杯に歯を食い縛る。「僕は、前に進まなきゃいけないんだ……!」
――僕の心は、折れない。
もう、折れるわけにはいかないのだ。
体が壊れたのはどうにでもなる。道が逸れたのなら、戻ってこられる。
だが、この心が腐ってしまえば――今度こそ、僕は目を覚ますことができなくなってしまう。
眠るのなら、いつだってできる。しかし、今一度立ち上がるのなら、この機を逃してはいけないのだ。
「……いっしょう、寝たきりかもしれないんだよ?」
「上等。それでも、僕は生きてる」
「生きていても、なにもできないのなら、それはしんでいるのとおなじだよ」
「……死んでいるのと、同じか」
ふと、そこで喉の奥に笑いが込み上げてきていることに気が付いた。
口角が緩む。そんな様を見て、『あいつ』が怪訝そうに眉を寄せた。
「……悪い悪い。なんというか、お前も、真面目なんだなあと思ってさ」
かつては、僕も同じ勘違いをしていた。
何かを成せないのなら、何かに為れないのなら、生きている意味など無いのだと。




