最終章『白の島』-9
「――か、カナタさん?」
そんな僕の背に、声がかけられる。
振り返れば、そこに立っていたのは萌音だった。鞄を前抱きにし、僕の方に、その弱々しい視線を向けている。
「そ、そんなところで何してるんですか? そっちは、屋上ですよ?」
彼女は、ズンズンと歩み寄ってくると、そのまま僕の手を取った。そして、強く引こうとする。
「ほら、早く帰りましょう。今日の委員会で、古書のフリーマーケットの話が出たんです。カナタさんも、来週の土日――」
「――ごめん、萌音」
僕は、彼女の手を振り払う。
澄んだ紅玉の眼が、驚愕に見開かれるのが見えた。ほんの少し心に痛みを感じながらも、僕は、もう、止まるわけにはいかなかった。
古書のフリーマーケットか。
楽しそうじゃないか。昼間、暑い中彼女らの手伝いをして、終わったら打ち上げでファミレスなんてどうだ。ドリンクバーを混ぜて遊んだり、安いセットメニューで何時間も居座りながら、馬鹿騒ぎをして――。
「……やっぱりさ、ここは、僕の生きる世界じゃなかったみたいなんだ」
――そんな毎日を、僕は選ぶわけにいかない。
彼女が愛してくれた、気弱だけど強い思いを持った魔法使いが好きになってくれた、そんな僕に少しでも追いつくために。
何もかもを、振り切らなければならない。
僕は駆け出す。背後で、悲鳴のような声が聞こえた。
けれどもう、振り返るわけにはいかなかった。目元から溢れた涙を拭うわけにもいかず、歪んだ階段の輪郭線のせいで、何度も躓きそうになった。
それでも登りきった終着点。サビの浮いた扉を開け、僕はそこに踏み入った。
屋上には、生温い風が吹いていた。
オレンジ色に照らされた世界。柵を隔てて区切られた、彼岸と此岸。
ここは、僕と彼女が幾度となく逢瀬を重ねた場所。
恋人でもなく、単なる友人でもなく。ただ同じ孤独を分け合った仲間として、多くの時間を過ごした場所。
そして、僕たちの運命が致命的に決してしまった場所でもある。
「……なあ、いるんだろ、ここに!」
僕は呼びかける。誰に?
決まっている、この円満の日々に一人だけいなかった彼女に、だ。
しかし、返事はない。どこにも、人の気配は感じられない。
それでも、世界の綻びなど彼女の存在以外に考えられない。そして、彼女がいるのなら、ここであるはずなのだ。
「くそっ……なんで、姿がどこにも……」
柵の向こう、地平の境に日が沈んでいこうとしている。
このまま日が暮れれば、僕は目を覚ますチャンスを失ってしまう――そんな気がした。
何か、何か無いだろうかと、僕は辺りに目を凝らす。肩から鞄が滑り落ち、地面に落ちて、中身を盛大にぶちまけた。
僕はそれを拾おうとして、屈み込んだところで――気が付く。
半ばほどが開き、内容物を吐き出した筆箱。その中に、見覚えのないペンが入っている。
「……これ、は……っ!」
使い込まれた、手の跡の滲んだペン軸。金属製のペン先は所々錆こそ浮いているもの、すり減った地金の色は、未だにキラキラと煌めいている。
祖父のペン――忘れもしない、『遺物』の一つだった。
僕はそれを手にとって、考える。こんなとき、仲間たちならどうするだろう。アキレアなら、モネなら――。
――エーデルなら。
『目隠しの魔法か何かだろう、これのせいで、今まで人々から見つかることはなかったのだ』
「……そうだ、確か、あの時も!」
宙空にペンを走らせる。何も無い空間に線が引かれ、イメージのままに、形を紡ぎ出そうとする。
冒険に行き詰まったとき。
あらゆる壁が、僕らを阻んだとき。
いつだって、『これ』が、僕たちの道を切り開いてくれた。
――聖剣。
長さは90センチほどだろうか。柄に嵌まった紫色の宝石と、黄金の細工。刀身は銀色に輝き、黄金の光を纏っている。
そんな一振りが――僕の手に収まっていた。
「う、お……っ」
柄を握る。手首から腕にかけて、灼けるような熱さが上ってくる。
そうだ、思い出した。『青の島』で振るった時も、この熱があったのだ。焼かれるような痛みに耐えつつ、剣身に光が集められていく。
それは眩く。逢魔が時の暗がりすらも照らし出して、道の先を示すような強い輝きが、剣を包みこんでいる。
「いくぞ……みんな、エーデル……!」
気合の声を一閃。同時に、僕は聖剣を振り下ろす。
黄金の煌めきは、まるで意思を持ったかのようにのたくり、稲妻のように暴れ、世界に貼り付けられた景色を、テクスチャーを剥がしていく。
僕の望んだ世界が。
都合の良いぬるま湯のような日々が、切り裂かれていく。
ハラハラと散っていく、夕暮れの欠片が咽ぶのが聞こえた。きっと、僕はあの世界にいた方が幸せになれたのだろう。
だけど、それを許すことはできない。上手くいかなくて、都合の悪いことばかりで、不条理が闊歩しているような。そんな日々を、僕は選ぶことにしたのだ。
「そん、な……カナタ、君は、どうして――」
夕景が引き裂かれ、その後ろから現れたのは――『白の島』の、真っ白な背景。
そして、そこで驚くような表情を浮かべた英――いや、『あいつ』の姿だった。




