最終章『白の島』-7
この機を逃したら、僕はもう、この世界を受け入れるしかなくなってしまう。
そんな、確信にも似た焦燥感は、言葉を詰まらせる。思考を鈍化させ、次の句を接げないようにしてしまう。
それでも、話した。朝から続く、この硬質の違和感の話。今までに見ていた、長い長い夢の話。何もかもをめちゃくちゃな順列で、思いつくままに話した。
彼女はそれを、黙したまま聞いていた。茶化すことも、遮ることもなく。そうして、数分、いや、数十分も話し込んだ頃だろうか。
「……君の言いたいことはよくわからないが、どうやら、酔狂で声をかけてきたわけではないようだな」
金色の彼女は、僕の辿々しい言葉に、そう結論をつけた。
その上で、少しだけ、その目を伏せる。
「だが……すまない、私は君の言う違和感というやつがわからない。この世に生まれ落ちて十余年、しっかりと記憶も、暮らしもある」
彼女の瞳は、嘘も偽りもないように思えた。
それもそうなのかもしれない。この世界が一つとしておかしくないのなら、おかしいのは僕の方だ。そんな僕が藻掻いているのは、傍から見れば、狂人の独り相撲だと思われても仕方がない。
けれど、そこで彼女の言葉は終わらなかった。さらに、そのままの口調で彼女は続ける。
「しかし、だ。君の話が本当で、もし、この世界に何かおかしなところがあるとするのなら――必ず、どこかに綻びがあるはずだ」
「……綻び? そんなもの、どこに……」
「さあな、わからん。私にとっては『ここ』が生きる世界だからな。ただ、君にとってそうでないというのなら――」
――探し出すしか、なかろう。
この僅かな交差を、彼女はそう結んだ。
そうして、話は終わりだとばかりに、背を向けて歩いて行こうとする。そんな彼女に、僕は。
「……待った」呼び止める。振り返らず、その足だけが止まった。「最後に名前、聞かせてくれないか」
もしかすると、無駄なことなのかもしれない。
この出会いに意味などなく。これからの道行きで、彼女と会うことは二度と無いのかもしれない。
それでも、聞いておきたかった。
彼女の名前だけは、聞いておかなければならない気がした。
「……サユキ。咲くに幸せと書いて、咲幸だ」
名乗りと同時に、脳裏で声が響く。
『君は、エーデルにあこがれていつつも、どこか遠いそんざいだとおもっていたね』
図星を突かれて、思わずドキリとする。けれど関係なく、声は続ける。
『だから君は、ここでもエーデルを少し遠いいちにおいた。遠めにみて、そのまぶしさでてらしてもらうくらいで、ちょうどいいから、でしょ?』
ああ、本当に――その通りだ。
そのまま、彼女は歩いて行く。幾度となく僕の道を拓いてくれた、金色の軌跡を残しながら。
僕はそれが見えなくなるまで見送ってから、学校を後にした。
夕方だというのにまだまだ日の高い帰路は、それでも朝より幾分歩きやすかった。
そんなアスファルトの道を、僕は一歩一歩、歩いて行く。
綻び。
そんなものが、どこにあるのだろうか?
元の世界の形がどうだったかなんて、もう、僕はほとんど覚えていない。ただ、パズルの絵がズレているように思えてしまったときのような、そんな気持ちの悪さに突き動かされているばかりだ。
もう、諦めてしまおうか。
この世界は決して、悪いものではない。心地の良い人間関係、心地の良い距離感。当たり前のものが当たり前にあって、空っぽの僕は、なんとなく満たされたフリで生きていけるだろう。
「……ただいま」
僕はそんな風に考えながら、玄関の扉を開けた。姉が帰ってくるまでは、まだしばらく時間がある。醤油を買ってき損ねたことを怒られるのは、それからだろう。
ならば、まずはそれまでに課題でも済ませておこうか――なんて、呑気に浮かべつつ、居間の扉を押し開いた。
「――おや、おかえり、カナタ」
そんな僕を迎えてくれたのは祖父だった。彼は視線をテレビから外すと、僕の方に柔らかく笑いかけてくる。
「今日も暑かったろう。その後、体調は大丈夫だったかい?」
「……うん、問題ないよ。それよりも爺ちゃん、何を見てたの?」
テレビの画面には、報道とバラエティを半々に混ぜたような、騒々しい番組が映し出されている。
それを見つめながら、少しだけ祖父は、目を細めた。
「いや、なに。前はゆっくりテレビなど、見ることもなかったからね。ちょうどいい機会だ、のんびりとさせてもらったんだよ」
「……? そうだっけ、爺ちゃん、普通に――」
僕がありもしない記憶を探ろうとした、その瞬間だった。
「――ああ、生前には、そんな暇もなかったからね」
その一言に、僕の背筋が凍る。
「じ、じい、ちゃん……?」
「カナタ。君は気がついているだろう。この世界は、君が生きるべき現実世界じゃないってことにね」
彼は、そこで立ち上がる。テレビから聞こえてきていた笑い声が、意味不明なノイズに変わったような気がした。
「今朝は彼女らの手前、『胡蝶の夢』などと言ったがね――その実、君はまだ夢から覚めてすらいないわけだ」
「ちょ、ちょっと、待ってくれよ爺ちゃん!」
慌てて、僕は彼を制した。
思考が追いついてこない。祖父は、この世界の異常に気がついていたとでも言うのだろうか?
「じ、爺ちゃんは、何をどこまで知ってるんだよ……?」
僕は恐る恐る問いかける。答えが欲しい一方で、全て冗談だと、そう言ってほしいような気もしている。
彼がこの先を口にすれば――きっと、物語は加速していくだろう。僕はそれに、ほんの少しだけ怯えていた。




