最終章『白の島』-6
「おはようございます、明楽先生。今日はこの時間なんですね」
礼儀正しく、萌音が頭を下げる。それに気を良くしたのか、先生は声を上げて笑った。
「はっはっは。おう、そうさ。今朝は朝練が無かったもんでな。お前らは、確か日直だったか」
「はい、そうです。でも、カナタくんが少し、朝から調子が悪いみたいで……」
「お、そうなのか? なら、先生の車に乗っていくか、クーラー効いてるから、涼しいぜ」
そう言って後部座席のドアを開けようとしてくれる先生を、僕は片手で制した。
「いや、いいよ。今はクーラーの風の方が気持ち悪くなりそうだ」
「そうかあ? お前が仮病じゃなくて本物の体調不良なんて、珍しいな。そうしたら、萌音。後は頼めるか?」
はい、と彼女が頷いたのを確認してから、先生の車は走り去っていった。
飾り気のないライトバンは、剣道部の荷物を運ぶためだと言っていたか。そんなことを、ぼんやりと思い出していた。
『――そう、アキレアは、この立ちいちがふさわしいよね』
■■■の声がする。どこか予想はできていたから、もう、驚かない。
『彼はめいかくに、君にとっておとなと呼べるそんざいだった。それも、はじめて君を認めてくれたおとなだ。だから、近いけど遠いような、遠いけど、いつでもたよれる。このいちが一番いいよね』
――ああ、そうだな。
僕は言葉にはせず、そう浮かべて、さらに歩いていく。歩を進めるごとに、胸をかき回していた違和感が薄れていっているのを感じていた。
馴染んでいる、と言うのが正しいのだろうか。この世界に対する拒否反応が、僅かずつ動きを止めていく。
学校に着く頃には、足の重さすら感じなくなっていた。もとより、体調がそこまで悪いわけではなかったのだ。足に力が入るようになれば、もう、いつも通りだ。
萌音と並んで、教室に向かう。日直の仕事、日誌を取りに行ったり、教室の花瓶の水を替えたり。そうこうしているうちに、授業が始まった。
数学、古文、その後に日本史を挟んで、ひどく蒸し暑い午後が訪れても尚、夏陽炎は仏頂面だ。
退屈な時間。
退屈な日々。
空っぽの僕。
空っぽの毎日。
ずっとそうだった。今までも、そして、これからも。だから、おかしなことは何もないはずなのに。
「……」僕の視線は、窓際の席に向けられる。
そこには萌音が座っており、退屈な授業に飽きることもなく、真剣そうにペンを動かしているのが見える。
問題はそこではない。誰が座っているのかではなく、その席自体に、何か意味があったような、そんな気がするのだが――。
「――いや、気の所為、だよな」
それは魔法の言葉だ。口の中で遊ばせれば、どんな引っかかりも飲み込めるような気がした。
いつも通り授業を受ける。いつも通り居眠りをして、いつも通り怒られる。昼はいつも通り萌音と弁当をつついて、その後はいつも通り、放課後を迎える。
図書委員の仕事がある、と教室を去っていった萌音を見送って、そこで僕はようやく、一人になった。
奇妙に、落ち着いたような感覚。一人きりで見上げた教室の天井は、悲しいほど見覚えがあった。
それでも、ずっとこうしていると、まるで自分が人間の形を失ってしまいそうだとすら思えてしまう。
いつの間にか、孤独に耐性がなくなった自分に少しだけ驚きつつも、僕は鞄を引っ掴む。
「……帰ろう」
呟いて、立ち上がる。
もう、どれだけの時間こうしていたのだろうか。放課のざわめきは姿を消し、代わりにグラウンドから威勢の良い声が聞こえてくる。
それを背に、昇降口に向かって歩き出した。確か家を出るときに、姉が醤油を買ってこいとか何とか言っていた気がする。とはいえ、スーパーに寄って帰るような元気はない。買い忘れたことにしてしまおう。
そんな、由無し事を浮かべつつ、廊下を歩いていた僕は――。
――目にも鮮やかな、金色とすれ違った。
思わず振り返る。腰ほどまである、豊かな金髪を揺らしながら、その人影はすぐ手近な角を曲がっていこうとしているところだった。
「な、なあ、あんた!」
声をかけたのは、半ば反射的な行動だった。自分でも理由などわからない。そうしなければならないような気がしたのだ。
呼び止められた彼女――大人っぽい、鼻筋の通った美形だ――は、悠然と振り返ると、どこか不審げに、僕のことを睨んだ。
「……何か、私に用か?」
鋭い、刃のようなアルト。思わず退いてしまいそうな圧力があったが、それでも、今の僕は臆するわけにはいかなかった。
「あ、いや……用ってわけじゃないんだけど、ほら、どこかで会ったことがあるんじゃないかな、と思って……」
「……? 同じ学校に通っているのだ、会うことくらいあるだろう」
「そういうんじゃなくて、ほら、昔、友達だったというか……」
しばらくは怪訝そうに僕のことを睨んでいた彼女だったが、すぐに、何か閃いたかのように眉を上げた。
「そうか、わかった。悪いが、ナンパなら他の誰かにしてくれるか。私はそういったものにうつつを抜かすつもりはないのでな」
「いや、違うんだよ。そうじゃなくて、本当に……」
自分が、ひどく滑稽に思えた。
伝えたいのに、伝わらない。言葉にしたいのに、言葉にできない。それでも、どうにか伝えなければならない。
それさえできれば、彼女なら、■■■■なら、僕の抱えた違和感を根こそぎにしてくれるような、そんな気がしたのだ。
金色の彼女は、ただならぬ僕の雰囲気を感じ取ったのか、茶化したりはしなかった。ただじっと、その蒼玉のような瞳を向けてくるばかりだ。




