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最終章『白の島』-5

 祖父は上半身だけを捻るようにして振り返る。柔らかく微笑むその顔には、翳りなど一つも見えない。


「ほら、早くこっちに来て座りなさい。そうしないと、また怒られてしまうよ」

「……い、いや……どうして、爺ちゃん……」


 祖父が、ここにいるはずがないのだ。

 だって、祖父は、爺ちゃんは、もう――。


『――そう、君は、もっとおじいちゃんとはなしたかったんだ』


 再び、頭の内側で声がする。


『自分にないかんがえかたを、おもいをいだいたこの人と、もういちど、できたらたくさんはなしたかった。だから、ここにもかれのいばしょがあるのは、当ぜんなんだ』


 違う。何が違う。僕は、僕は――。


「――カナタったら、今日は変なのよ」


 軋み始めた頭蓋骨。その音を遮るように、皿を持って現れたのは姉だった。


 後ろについてきた萌音と共に、茶碗や箸を並べながら、彼女は呆れるように口を開いた。


「朝起きた時は、萌音ちゃんのこともわからなくなってたのよ。私やお祖父ちゃんのことを見て、変に驚くし」

「……別に、なんでもないって」

「そうですか?」萌音の眉尻が、不安げに下がる。「何だか、具合が悪そうに見えます。もしかして、熱があるとか……?」


 彼女の心配そうな顔を見ていると、少しだけ胸の中が痛んだ。なるほど、確かに、そういう風に見られてもおかしくない。


 心配はかけたくないが、僕もこの胸の中に渦巻く違和感を言葉にできていないのだ。どうしたものかと、少しだけ迷ってから。


「……何だか、ずっと、夢を見ていたみたいなんだ」

 言葉を選びつつ、話し始めることにした。

「海を渡って、島を歩いて、敵を倒して。そんな、辛いけど楽しくて、色鮮やかな夢だった」

「夢ぇ? あんた、そんな、子供じゃないんだから……」


 僕の話をそう笑ったのは、姉だけだった。萌音も、祖父も、僕の話を真剣に聞いている。


「その世界の中では、萌音は魔法使いでさ。あと、他にも二人仲間がいて、みんなで大変なことも乗り越えてさ……」


 他に、二人?

 はて、それは誰だったか。


 一つ一つの情景は覚えているのに、名前だけがどうしても思い出せない。記憶のあちこちに、火で炙られたかのような焦げ穴が空いていた。


「ふむ、それは『胡蝶の夢』というヤツだな」


 黙って聞いていた祖父が、深く頷きながら、そう口にした。


「故事の一つだ。自由に飛び回る蝶の夢を見ていた男は、果たしてどちらの自分が現実なのか、わからなくなってしまう。カナタが見たのも、夢現の境を曖昧にしてしまうほど素晴らしい夢だったのだろう」

「……胡蝶の、夢」


 そう言われれば、しっくり来るような気がした。


 島を旅するとか、魔物を倒すとか、そんなのはひどく現実感がない。僕はその夢をあまりにも長く見てしまって、いつの間にか境界を見誤ってしまったのかもしれない。


 それならば、納得ができる。できてしまう。


 夢は記憶整理の一環だというし、記憶が途切れ途切れなのもそれが理由だろう。しばし、日々を過ごしていれば、すぐに希釈されて思い出すこともできなくなる。


『――そう、そうして君は、この世界に溶けていける。いつまでも心地よく、全部が揃った世界に』


「……ごちそうさま、姉ちゃん、ありがと。美味かったよ」


 僕はこれもまた随分とご無沙汰だったような気がする姉の料理に礼を言うと、自分の部屋に戻って、学生服に袖を通す。


 折り畳みの傘を持ったか、忘れ物はないかと心配性に聞いてくる姉を躱しつつ、僕と萌音は家を出ることにした。



「……あっつ」容赦なく降り注ぐ太陽光に、僕は思わず、顔を顰める。

「もう、7月ですからね。今年の夏は熱くなるって、ネットニュースで言ってましたよ」


 事も無げに歩く萌音も、その頬には汗の玉を浮かべていた。僕らは半ば無意識的に、日陰を選びつつ歩いていく。


「……カナタさん、大丈夫ですか? 今日はお体が優れないようですし、熱中症とか、気を付けてくださいね」

「大丈夫だよ、こんなの。船の上の暑さに比べれば、全然マシマシ」

「船の上……?」萌音が首を傾げる。

「……なんでもないよ、行こうぜ」


 焼けたアスファルトを踏みしめる。靴裏が溶けそうなほどの熱と、地面から上ってきた湿気が、僕らを炙っていく。


 歩き慣れたはずの道だというのに、それでも足が重いような気がする。原因は気温だけではない。


 何か、何かが、おかしい。何かが――。


「――おい、お前ら、大丈夫かよ」


 僕らのすぐ脇に一台の車が停まったのは、まさにそんな時だった。


 聞き覚えのある声の方向に目を向ければ、運転席の窓から腕を出しながら、こちらを眺めている姿があった。


 太い腕、よく焼けた肌には血管が浮き、力強さを感じさせる。


 野性味のある笑みを浮かべてはいるが、どこか落ち着きも感じさせるその表情は、間違いなく――。


「――明楽(アキラ)、先生」


 僕は誰に教えられるでもなく、最初からその名前を知っていたかのように口にした。


 いや、知っていて当然だ。だって、先生はうちのクラスの担任なのだから。担当教科は体育、たまにホームルームを忘れて、そのまま剣道部の指導に行ってしまう――。


 まるで、後から取って付けたかのように、頭の中で情報が膨らんでいく。



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