最終章『白の島』-4
最初に感じたのは、振動。
横たわる僕を、誰か揺さぶっている。その揺れがひどく不快で、僕は薄く、瞼を開く。
「ちょっと、カナタ! 早く起きなさい、学校、遅刻するわよ!」
それよりも早く、鼓膜を揺らしたのは聞き覚えのある声。しかし、二度と聞くことができないと思っていた声だった。
「……ね、姉ちゃん!?」
思わず身を起こす。勝ち気な目つきに、憤りを隠さず引き結ばれた口元。長い髪は、外出するとき以外は一つに括られている。
腰に手を当て、僕を見下ろしているのは、間違いなく姉だった。戸惑う僕に、彼女は呆れたような溜め息を吐く。
「あんた、なに寝ぼけてんのよ。今日、月曜日よ。日直があるとかなんとか言ってなかった?」
何を言われているのか、一瞬理解ができなかった。
何もかもが遅れてついてくる。何か大切なことがあったような、何か、とんでもないことが起こったような。
けれど、どう頑張っても追いつくことができない現状に、ひとまず相槌を打つことにした。
「あ、ああ」僕は、ごちゃごちゃの頭を整理しようとしながら。「確かそうだった……かな?」
「なら、早く支度しちゃいなさい。もう、モネちゃんが迎えに来てるわよ」
モネ。
それは、誰のことだったか。再び僕は、靄のかかった記憶を探る。
その様がよほどおかしかったのか、姉は眉を寄せた。
「……誰って、あんたの友達。萌音ちゃんよ、あんた、寝ぼけるにしても酷すぎない?」
「……ああ、そうか、そうだったな。悪い、姉ちゃん。まだ頭がボーッとしてるんだ」
扉の向こうに消えていった彼女を見送ってから、僕はゆっくりと体を起こす。四肢はまるで作り物であるかのように重たく、伸びをひとつ打ってようやく、全身に血が回り始めた。
長い、長い夢を見ていたようだ。自分の部屋を久し振りに見るような、不思議な感覚。
けれど、ふと目に入った時計盤が、僕の意識を引き戻す。
「――っと、考えてる時間はないな」
扉を開け、リビングに向かう。そうすれば、そこには一人の少女が待っていた。
僕と同じ高校の制服。黒い髪は肩の辺りで切り揃えられ、丸いレンズの眼鏡の向こうに、自信なさげな瞳が覗いている。
彼女――同級生の萌音は、僕の姿を認めると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「あ、カナタさん。おはようございます」
「お、おう。おはよう……」
なんだろう。言葉にできない違和感が、胸の中で渦巻いていた。
いつも通りの景色のはずなのに、何か。ボタンがひとつかけ違えているかのように、気持ち悪いというか、慣れないというか。
「――髪」それは半ば、無意識に出た問いだった。「髪、赤くないんだな」
僕の言葉に、萌音は首を傾げる。
一秒後にハッとする。一体何を聞いているのだろうか。彼女は一度も、髪を染めたりしたことはなかったはずだ。
「い、いや。気にしないで、萌音なら赤色も似合いそうだなって、そう思っただけだよ」
「そ、そう、ですか……?」
彼女の顔が、少しだけ赤くなる。そう、自己主張が苦手なだけで、表情はわかりやすいのだ。
僕らの間に、僅かに沈黙が訪れる。お互いに口下手だから、変に意識してしまうと、上手く言葉が出てこなくなるのだ。
姉が割り込んできたのは、その沈黙が五秒を数えた頃だった。
「ほら、あんたたち、いつまでイチャイチャしてるのよ。カナタは顔洗ってきなさい。萌音ちゃんは、目玉焼きはソース? 醤油?」
「あ……ソース、で……」
そんなやり取りをする二人をよそに、僕は洗面所に向かう。
鏡に映るのはいつも通りの自分。冴えない顔、無駄な夜更かしのせいで浮いたクマ。
貧相な細い体は、我ながら随分と頼りない。こんな細腕で、よく剣が振るえたものだ……。
「……ん、剣って、何のことだ?」
頭に浮かんだ意味不明なワードを追い出すために、僕は蛇口を捻った。冷たい水を手のひらに掬えば、先程まで靄がかかっていた景色が、少しずつはっきりとしてくる。
いつも通りの朝だ。
口うるさい姉ちゃん。
迎えに来てくれる萌音。
何もかもが、いつも通り。
『――そう、モネがやくわりを得るとしたら、このあたりがいいよね』
どこかから、そんな声が聞こえる気がする。
頭の芯に響くように、辿々しい口調で、その声は続ける。
『モネは君のことをりかいしてくれる。よわいままで、いつまでもよりそってくれる。だから、つかずはなれずの恋人みまん。それが、ちょうどいい』
振り返る。が、そこには誰もいない。
気の所為なのだろうか。幻聴にしては、随分はっきりと聞こえた。
顔を拭いつつ、リビングに戻る。そうすればそこにはもう一人、顔ぶれが増えていた。
「おや、カナタ、おはよう。今朝はどうやら随分と、どやされたようじゃないか」
聞こえたのは嗄れた声。
不健康そうに見える白い肌は、滅多に外に出ないからだろう。髪はすっかり白髪に染まりきってしまっているものの、年齢の割に引き締まった体と、活き活きとした表情か、実際よりも若く見える。
「……じ、爺ちゃん?」
そう、背を向けるように掛けていたのは。何だか随分と久し振りに見る気がする、僕の祖父だった。




